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野島 稔 氏(nojima-minoru) 演奏家は作曲家の魂から逸脱してはいけないし、 自分の身体を通して音楽を生かす使命をもっています。 この記事は2017年7月4日に掲載しております。

学生時代だった1960年代初頭よりその名が知られ、その後もモスクワ留学や「ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール」での第2位入賞などで話題を呼んだ野島稔さん。現在は演奏活動のほか、さまざまなコンクールでの審査員、さらには東京音楽大学(東京都豊島区)の学長も務めていらっしゃいます。今だからこそ実感できること、さまざまな現場で発見することなどをうかがいました。 

Profile

pianist 野島 稔
© クリスチャン・シュタイナー

pianist
野島 稔
横須賀市生まれ。桐朋学園高校、大学、ソビエト留学まで井口愛子氏に師事。63年、第32回日本音楽コンクール第1位受賞。66年ソビエト文化省の招きでモスクワ音楽院に留学、レフ・オボーリン氏に師事する。69年第3回ヴァン・クライヴァーン国際ピアノ・コンクール第2位入賞。翌年ニューヨークのカーネギー・ホールでデビューリサイタルを開き、以来、日本を代表する国際的ピアニストとして国内のみならずアメリカ、ヨーロッパ、アジアの各地でリサイタルを行う。また、日本の主要オーケストラ及び海外のオーケストラとの共演は数え切れない。ピアノ芸術の真髄を伝える貴重な演奏家として、今後一層の活躍が期待されている。2006年からは、横須賀芸術劇場において「野島 稔・よこすかピアノ・コンクール」にて審査委員長を務め、後進の発掘と育成にも力を注いでいる。東京音楽大学学長、桐朋学園大学院大学特任教授。

※上記は2017年5月23日に掲載した情報です。

コンクールの審査を通じ、音楽を見つめ直す

 プロ・オーケストラとの初共演は小学校5年生の時(ヴィルヘルム・ロイブナー指揮、NHK交響楽団)。以来、第3回「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」(1969年)での2位入賞や国内外でのリサイタルなどで注目を集め、その後も華々しい活動を続けてきた野島稔。
 その一方では自身が脚光を浴びた「ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール」での審査員をはじめ、次々の注目の若手を輩出している「仙台国際音楽コンクール」や、審査員長を務める「野島稔・よこすかピアノコンクール」(2006年より、2年に一度開催)などで優れた才能を数多く見出している。 「いちばん最初は、安川加壽子先生が運営委員をされていた『日本国際音楽コンクール』に呼んでいただいたときです。その頃から比べますと、若い世代のピアニストたちは格段に演奏技術も音楽性も向上しました。自分がピアノを学んでいた時代は、まだ歴史に名を残すような名ピアニストがたくさん活躍していて、自分たちはSPレコードを通じ、そうした名手の演奏を聴いていたのです。まるでそれは神秘のベールに包まれた究極の芸術といった印象でしたから、なんとかあそこにたどり着かないといけないと思い、必死だったのです。
 音楽もどれもが近寄りがたい名曲に聞こえ、若造が気軽に手を出してはいけないような雰囲気も漂っていました。それに比べると現代は、臆することなく音楽へと立ち向かう方が多くなりましたね」  
 第1回(2001年)よりピアノ部門の審査委員長を務めている「仙台国際音楽コンクール」からは、第1回で3位を獲得したユジャ・ワンを筆頭に、日本も含むアジア各国の才能を多数輩出。コンテスタントのレヴェルも非常に高く、今では一般の音楽ファンも結果に注目するほどの存在となった。
 「コンチェルトがメインであるという、世界的にみても非常に珍しいコンクールですが、近年は特に韓国からの参加者が多くなり、彼らの強い精神力や自分をアピールしようとする積極的な音楽に注目しています。平たくいえば、根性があるということかもしれませんが、ハングリー精神のようなものが音楽や人間の成長を後押しすると思いますし、これは日本の若い世代も見習うべき点だと感じていますし、こちらも教えられることが多いです。
 演奏家はほとんどの場合、他人の書いた曲を弾きますし、それをお客様に聴かせるという使命があります。ですから作曲家の魂から逸脱してはいけませんし、自分の身体を通して生きたものにしなくてはなりません。ピアニストにとっては使命のようなものでしょう。それができた上で積極的に、ときに破天荒に音楽を生み出すことができれば、将来は有望だと思います」

 

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野島 稔さんへ “5”つの質問

※上記は2017年5月23日に掲載した情報です。



コンサート情報

野島稔ピアノリサイタル
日時:2017年7月8日 16:00
会場:木曽町文化交流センター
出演:野島稔