春日野音楽祭

音楽の街づくり事業  おとまち

プロジェクト

課題解決に向けた取り組み

  • テーマ:街の歴史を未来へつなぐ音楽祭とは

春日大社×春日野音楽祭実行委員会×おとまち

春日大社×春日野音楽祭実行委員会×おとまち

奈良という土地がもつ千古の記憶をたどり、
市民が街を見つめ直し、未来を考え、
人づくりのきっかけとなる新しい祭り「春日野音楽祭」。

Project Summary

奈良・春日大社の 「式年造替」は1250年にわたり、20年に一度ご奉仕され続けてきた至高最上の祭典です。 この「式年造替」をきっかけに、新しい奉祝行事として誕生した「春日野音楽祭」。立ち上がりにあたり、紐解かれたのは、春日大社や奈良の歴史そのものであり、創建から奉仕されてきた「祭」や「式年造替」が伝えようとしている心でした。 実行委員会の方は、奉祝行事は"音楽祭"でなくてもよかった。でも"音楽祭"を立ち上げて本当によかったと口にします。 それは音楽祭そのものも含め、つくりあげていくプロセスこそが、奈良の魅力の再認識となり、新たな奈良をつくり、この体験を通して後世へ受け継がれる手応えを感じたからです。 では、「春日野音楽祭」はどのようにしてつくられ、毎年進化を続ける新しい祭りとなったのか。 おとまちの吉田が解説します。

Project Report

  • 街づくり記録 01〜春日野音楽祭の立ち上げ〜
  • 街づくり記録 01〜春日野音楽祭の立ち上げ〜
    千古の文化を踏まえ、
    音楽による新たな奉祝行事を考える
  • 千古の文化を踏まえ、
    音楽による新たな奉祝行事を考える

Project Report 街づくりの記録01
〜春日野音楽祭の立ち上げ〜

千古の文化を踏まえ、
音楽による新たな奉祝行事を考える

Report by おとまち/吉田

いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな(伊勢大輔)

これは平安時代後期に宮中で読まれた句です。
平城京から京都に都が移った以降、奈良は日本で「最古の古都」として、日本文化の根源的な姿を今に伝えています。
その奈良で、新たな街づくりの一環として立ち上がった「春日野音楽祭」について、まずは立ち上げの経緯をご紹介します

目次
  • 春日野音楽祭 立ち上げから開催まで
  • 日本文化の原点をたどる①
    〜春日大社 宮司インタビュー〜
  • 春日野音楽祭と街づくりへの想い①
    〜初代実行委員長インタビュー〜
  • 春日野音楽祭 おとまちの役割

春日大社境内「飛火野(とびひの)」 春日大社境内「飛火野(とびひの)」。御蓋山(みかさやま)を仰ぐ古代祭祀の地だったとされる。
平安時代には若菜摘みや花見など遊びの名所として宮中からの人でにぎわった。

(提供 春日大社)

春日大社と奈良の文化

皆さんはなぜ、奈良公園にあれだけたくさんの野生の鹿がいるかご存知でしょうか?神護景雲2年(西暦768年)、茨城県の鹿島から神様が白い鹿に乗って奈良に降り立たれ、春日大社は創建されたと言い伝えられています。それ以来、奈良の鹿は、神の使い【神鹿】として大切に護られてきたそうです。

来年で創建1250年を迎える春日大社は、もともとは平城京の守り神であり、国家安泰を願う神社として創建されました。都が京都に移ってからも、宮中(現在の皇居)で執り行われていたお祭りがいくつも春日大社に移されており、現在に至るまで非常に宮中とつながりの深い神社です。

奈良時代、海を渡って大陸の文化がたくさん流入してきました。奈良は「シルクロードの終着点」といえる場所であり、今なお様々な海外文化の原型といえるものが地域に残されています。
神鹿もそうですが、奈良にはものごとの本来の姿を大切に護っていくという、日本人の根底となる思想が千年もの年月を超えて培われている場所だと感じます。

春日大社本殿まえ林檎の庭からのぞむ中門 春日大社本殿まえ林檎の庭からのぞむ中門。
20年に一度、御殿を新たにする「式年造替(しきねんぞうたい)」が1,200年以上続けられている。

第1回春日野音楽祭立ち上げから開催まで
〜市民参加の新たな奉祝行事を創る〜

宮中との関わりもあり、年間を通じて非常にたくさんのお祭りを行なっている春日大社ですが、その中でももっとも盛大なものが、20年に一度、社殿や御神宝を新たにする「式年造替(しきねんぞうたい)」です。

実際のご造替に関わる神事は、神職の方や宮大工の方々などプロフェッショナルの手で行われますが、その完成を祝う奉祝行事を市民参加の形で実施することが検討されました。

追ってご紹介しますが、春日大社は歌舞音曲(かぶおんぎょく)といった芸能にも非常に縁の深い神社です。【音楽で式年造替を祝う】というおおもととなるアイデアについて、おとまちにご相談いただく形で今回のプロジェクトはスタートしました。

春日野音楽祭実行委員会の皆さま 春日野音楽祭実行委員会の皆さま。日ごろから奈良の街づくりに尽力されている方々が中心となり、
新たな奉祝行事として「春日野音楽祭」に取り組んでいる。

プレイベント開催

春日野音楽祭実行委員会は式年造替の本番から2年半まえの2014年4月に立ち上げられました。委員の皆さんは、現在も奈良に根付く燈花会(とうかえ)という灯のイベントや、平城京天平祭という歴史イベントなどの立ち上げに関われてきた、奈良の街づくり経験者が中心です。

「市民参加型で」「街中をステージに」「奉納演奏を行う」といった核となるコンセプトを固めて、準備は進められて行きました。

2015年10月には、翌年の第1回春日野音楽祭に向けた「春日野音楽祭プレイベント」を開催。100名を超える市民ボランティアと400名以上の演奏参加者とともに、奈良で市民音楽祭を開催する実践的トライアルを行いました。

春日野音楽祭プレイベントは2015年10月18日に開催。10ヶ所のまちなかステージでは、
公募による70組250名の演奏者が奈良の町を音楽で彩り、
フィナーレ「奉納大合奏」では150名以上の演奏参加者とともに会場を音楽でひとつにした。

第1回春日野音楽祭開催へ

明けて2016年。11月6日に「第六十次式年造替」の本殿遷座祭(ほんでんせんざさい:仮の御殿にいらっしゃる神様が美しくなった御本殿にお還りになる行事)が執り行われる前祝いとして、9月17日と18日の2日間にわたり「第1回春日野音楽祭」を開催しました。

プレイベントでも実施した公募による市民ステージと、メイン会場における大合奏企画を柱に、より奈良らしい音楽祭として位置づけるための様々な企画が盛り込まれました。

そのひとつは春日大社境内にあって広大な芝生が広がる「飛火野」でのスペシャルステージ。奈良を愛するアーティストの一人、さだまさしさんによる野外コンサートが開催されました。

もうひとつは、春日大社御本殿まえにある「林檎の庭」での特別奉納演奏です。「シルクロードの終着点」を表現するために、アメリカからウィリアム・アッカーマン氏を招聘し、押尾コータローさん、三橋貴風さん、トッド・ボストンさんとともに日米の音楽交流となる演奏が行われました。

奉納大合奏企画 2016年9月17日と18日の2日間開催で、まちなかステージには150組500名が奉納演奏を実施。
オープニングとフィナーレで実施したふたつの奉納大合奏企画を合わせて
1,000名を超える参加者が御蓋山(みかさやま)に演奏を奉納した。

奉納鍵盤ハーモニカ大合奏 左:雨の中開催された子供たちによる「奉納鍵盤ハーモニカ大合奏」
右:音楽祭を締めくくるフィナーレ「奉納大合奏・大合唱」

春日大社本殿前「林檎の庭」 春日大社本殿前「林檎の庭」で行われた世界的ギタリスト ウィリアム・アッカーマンさんらによる特別奉納演奏。西洋人がこの場所で奉納演奏を行うのは、春日大社創建以来初とのこと。(Photo by sencame)

すべての参加者の皆さんとともに作り上げたこの音楽祭は、今回限りの奉祝行事としてではなく、奈良の新たな文化として未来につながっていく。そんな期待感とともに第1回春日野音楽祭は締めくくられました。

日本文化の原点をたどる①

春日大社
宮司 花山院 弘匡さん

1,000年まえも今も
人間の本質は変わらない。
人間の営みは過去も現在も未来も
すべてつながっているのです。

花山院(かさんのいん)家第33代当主 花山院(かさんのいん)家第33代当主。奈良県立奈良高校などで地理担当の教師を経て、2008年より現職。
花山院家は、藤原道長の孫で関白師実の次男家忠を祖に11世紀に創立。
五摂家に次ぐ九清華家のひとつで旧候爵家。

春日大社は奈良時代にできた、関白に関わるお社です。つまり藤原氏の氏神様で聖武天皇の皇后である光明皇后から大正天皇皇后に至るまでほとんどの皇后が藤原氏ですので、皇后のご実家の氏神さまにあたります。飛鳥時代から天皇のご祖先の天照大神様を祀るのが伊勢神宮。そして奈良時代からの皇后のご祖先の天児屋根命様(あめのこやねのみこと)を祀るのが春日大社ということになります。

その意味で、春日大社の御本殿は、伊勢神宮と同様に国家国民のことをお祈りする神様で、個人のお願いを聞く場所ではありませんでした。ただ、平安時代の終わりに、若宮が創建され、ここでは国家国民のことも、個人のお願いも聞いてくれるお社として大人気となりました。若宮のまえにある神楽殿は日本最古と言われていますが、当時は「神楽の音止まず」と言われるほど、朝から晩まで市中の人々が神楽をお願いしに来られたそうです。

この若宮社の神様に、芸能を奉納するお祭りが、毎年12月17日に斎行される「春日若宮おん祭」です。これは春日祭に次ぐ大きなお祭で、900年近くにわたり最高の祭祀と芸能が受け継がれ、国指定重要無形民俗文化財となっています。おん祭は17日の午前0時に始まり24時に終わるお祭りで、神様が若宮社の御殿から御旅所(おたびしょ)まで、ご旅行をされます。これは日本の神様が遷られる古代最高の形で、平安時代中期までの伊勢神宮の遷座の形が残っている国内唯一のものです。

遷幸の儀(せんこうのぎ) 春日若宮おん祭について 12月17日深夜0時にはじまる「遷幸の儀(せんこうのぎ)」
の後に御旅所にて行われる「暁祭(あかつきさい)」の様子。
日中執り行われる御旅所祭では、8時間かけて様々な舞や音楽が奉納される。

私はよくいうのですが、人間というのは1,000年まえも今も一緒なんです。好みの異性がいれば好きになって楽しいし、子供が産まれたら元気に大きくなってほしいと願う。病の親には早く治って長生きしてほしい。自分も豊かな生活を続けたいと願うものです。人間の思い、つまり優しい心や悲しい気持ちは1,000年まえも今も何も変わらない、まったく一緒なのです。ある意味、人間の営みというのは、過去のことも現在のことも未来のこともすべてつながっていると思います。このつながりの中で、人々が人生を過ごしています。だから、昔の人は違うように思いがちですが、人間にとって大切なものというか、本質というのは、実は何にも変わらない。神様へ祈る親の気持ちも子の気持ちも、本質は変わらない。1,000年間、神様への数多の祈りが、この場所の土地に記憶として残っているのです。

神道は日本固有の宗教で、その場所に意味があります。春日大社が、御蓋山(みかさやま)を神山としているようにその土地が特別な場所であり、ここにある意味があるのです。

お祭りは、神様に色々なものを捧げ、お喜びいただき、御加護をいただくことです。なかでも音楽というのは、人間の幸せの表現です。神様のもとに人々が集い、その素晴らしい音楽を神様に捧げて、共に聴いて楽しむ。そして、幸せを共感しあって、土地の記憶として残される。そうして次第に地域の文化が豊かになっていく。これは「春日若宮おん祭」も「春日野音楽祭」もまったく一緒のことなのです。

春日野音楽祭と街づくりへの想い①

初代実行委員長 乾 昌弘さん

音楽の見えない力を実感しました。
継続することで新しい奈良の魅力
になっていくと思います。

奈良市観光協会会長 奈良市観光協会会長、奈良商工会議所副会頭なども務め、30年にわたり奈良の街づくりに貢献してきた乾さん。
「奈良の中で観光に関係ない業種ってほとんどないと思うんです。
だから、奈良は観光にもっと特化していったらいいんじゃないでしょうか。」

奈良はご存じのとおり、歴史文化遺産がものすごく数多くありますが、それに頼りきっていて新しいものを生み出すっていう気運が少なかった気がします。それが、この10数年の間に新しいイベントが次々と出てきましてね。結果的に新しいものと今までの古い歴史文化遺産と、いいスパイラルで上昇しつつあるんです。これからますます面白い、楽しい奈良になっていくと思いますよ。

春日野音楽祭の立ち上げにあたっては、この行事を通じて、奈良中が音楽であふれて、演奏する側も聞く側も楽しんでもらえるようになったらいいなという想いで関わって来ました。おとまちさんをはじめ、様々な方のご協力があってなんとかやり遂げられましたが、正直なところ、奈良でこの音楽祭がちゃんと成立するのか、不安のほうが大きかったです。

終わってから気づいたのですが、「春日の神様に音楽を奉納しよう」という趣旨は非常に意義が大きいものだったなと。実際に演奏まえにみんなが御蓋山に向かって拝礼してから演奏始めるというのは、やっぱり奈良らしい。非常にいい感じでした。

式年造替の奉祝行事ということでは、音楽じゃない選択肢もあったと思いますが、終わってみて、音楽祭で良かったって、すごく思います。音楽の力というのはなかなか想像できないもんですが、すごいパワーがあるんですね。ステージで演奏がはじまると、観光に来られた外国人の方もその場で踊ったり、一緒に盛り上がってくれるんですよ。音楽って世界共通のものだと、そういう意味でも見えない力というものを実感しました。

通りがかりの観光客や世代を超えた様々な方が音楽を通じ合う瞬間が生まれた 音楽祭当日、通りがかりの観光客や世代を超えた様々な方が音楽を通じ合う瞬間が生まれた。

わたしは奈良の街づくりに関わって30年になりますが、奈良の人の考え方もこの30年でちょっとずつ変わってきてるのかなって思います。たとえば、燈花会という、ろうそくを奈良公園に並べて、灯りを楽しんでいただく夏のイベントがあるんですが、もう来年で20年になります。いまでは奈良の一大イベントになっていますが、それまでの奈良の夏の観光といったら、夏枯れと言って、まったくお客さんがいなかった。でも、燈花会は10日間で百数十万人が来るイベントになっています。立ち上げ当初はハードルがたくさんありました。奈良公園で火をつけるとはなっちゅうこっちゃねんと(笑)。

でも、続けることによって街の人の意識は変わってきたんです。いろんなイベントを通じて思うのは、とにかく継続することが大事やなと。きっとこの春日野音楽祭も続けていくことで、奈良にはなくてはならない音楽祭になれる要素は十分あると思います。

春日野音楽祭もステージをどんどん増やして、出演者の方には全国から来ていただき、春日野音楽祭に出たい!と思っていただけるような音楽祭にしたいですね。見に来ていただける方も、春日野音楽祭を目当てに来ていただきつつ、奥深い奈良の歴史や文化、楽しさを知っていただく。ひいては、それが奈良の観光や経済活性につながる。そんな音楽祭になったらなと思います。

春日野音楽祭におけるヤマハおとまちの役割

春日野音楽祭は、第60次式年造替の奉祝行事としてスタートしました。具体的な企画立案にあたり、まず「市民参加型で」「街中をステージに」「奉納演奏を行う」という核となるコンセプトを実行委員会の皆さんと共有しました。

奈良の皆さんから、【日本の音楽の根源が祈りである】ということや、【音楽が人々の幸せの表現である】といった日本文化の根源的なお話をうかがう中で、この音楽祭は「おん祭」をはじめとした春日大社と芸能とのゆかりの深さを現代風に伝えることが重要だと考えました。そうした経緯でまとめたこの音楽祭の核となる「音楽を奉納する」というコンセプトは、これがただのお祭騒ぎではなく、奈良らしい音楽祭となるための重要な要素であると考えました。

20年に一度の式年造替を祝い、自ら演奏を「奉納する」という市民音楽祭は全国的に見ても非常に貴重な体験になりますので、奈良の街を舞台に演奏をしたいという方々は各地から楽器を持って集まってくれるだろうと確信していました。

音楽祭の準備にあたり、まちなかステージの企画や運営の仕組み作りや、参加型奉納大合奏の企画・制作、プロのアーティストを招聘した特別奉納演奏の企画・制作・運営を行い、奈良でしかできない特別な音楽祭を地域の皆さんと一緒につくっていくことができました。

運営実務については、実行委員の皆さんにとって初めて実施する市民音楽祭ということもあり、まちなかステージの出演者募集や選考についての流れ、事前準備や広報発信といった業務を事務局の皆さんと一緒に検討して進めてきました。

どの企画においてもそうですが、地域の人たちの想いに共感してひとつになることと、よそ者ならではの視点を思い切って提案すること、それを音楽というツールを使うことでバランスを取っていくことが、おとまちが関わる意義なのだと考えています。

実行委員会会議風景。委員会の皆さんからは、おとまちに対して「同じ実行委員として奈良の街づくりのための音楽祭という考え方を提供してくれた」「奈良の魅力を客観的な立場から引き出してくれた」という評価をいただいた。

  • 街づくり記録 02〜音楽祭を通じた街づくりと人づくり〜
  • 街づくりの記録 02〜音楽祭を通じた街づくりと人づくり〜
    地域活動を自分ごと化させる
    音楽の“見えない力”の活用
  • 地域活動を“自分ごと化”させる
    音楽の“見えない力”の活用

Project Report 街づくりの記録02
〜音楽祭を通じた街づくりと人づくり〜

地域活動を自分ごと化させる
音楽の“見えない力”の活用

Report by おとまち/吉田

天の原 ふりさけ見れば春日なる 三笠の山にいでし月かも(阿部仲麻呂)

第9次遣唐使として、養老元年(717年)に19歳で日本を離れ唐に渡った阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)。35年もの月日を海外で過ごし、いよいよ日本に帰ることが決まり、送別会でこの歌を詠んだといわれています。

平城京ができたばかりの日本を若いころに離れ、結局、帰国することが叶わなかった彼をはじめ、たくさんの日本人が海外に学び、海外から様々な文化を持ち帰ったのが当時の都であった奈良でした。

1,300年もまえから海外文化の交流が盛んであった奈良。新たなものを吸収する力のある若者が海外との交流に積極的に関わっていたものと想像できます。

目次
  • 持続可能な音楽祭を目指して
  • 日本文化の原点をたどる②
    〜春日大社 宮司インタビュー〜
  • 春日野音楽祭と街づくりへの想い②
    〜初代事務局長インタビュー〜
  • 継続した取り組みへ
    ~第2回春日野音楽祭〜
  • 音楽祭を通じた街づくりと人づくり
持続可能な音楽祭を目指して

春日野音楽祭は「第60次式年造替」をきっかけに立ち上げられましたが、目指す姿は20年後に執り行われる「第61次式年造替」に向けて、地域に根付き、育っていくことです。
街づくりのための音楽祭として、重要なのが「継続していくための仕組み」です。

中心となるコンセプトを固めて、それを具体的な企画に落とし込む際に、今後継続していけるような運営の仕組みを少しずつ組み立てていきました。

春日野音楽祭の核となる企画は公募による「まちなかステージ」ですが、これは地域の至るところにミニステージを設け、同時多発的に演奏を行うことで、街中を音楽で彩っていくものです。この企画の運営に関して、募集要項の作成や選考と会場への振り分けまで一連の流れを組み立て、また出演者情報を現場スタッフと共有し、トラブルを回避できるよう当日の運営マニュアルへの落とし込みを行っていきました。

第1回春日野音楽祭タイムテーブル(イメージ) 第1回春日野音楽祭タイムテーブル(イメージ)
複数の会場で同時進行で演奏が進められるため、すべての会場で適切な準備と対応が求められる。

とはいえ、資料作成がいくら完璧でも、当日運営するのはあくまで「人」です。第1回春日野音楽祭では奈良のイベントには必ずといっていいほど関わられている3つの青年団体((一社)奈良経済産業協会青年経営者部会・奈良商工会議所青年部・(一社)奈良青年会議所)の皆さんに多大なご協力をいただきながら運営を行いました。

彼らの持つ現場の力を、ボランティア初体験も多かった学生メンバーに伝え、一緒に楽しみながら音楽祭を作るという経験を提供できたことが、音楽祭にとっての一番の価値なのだと感じています。

運営の土台づくりと、関わる人の力を最大限発揮するための役割分担の雛形ができたことで、第2回春日野音楽祭は新たな段階に進むことができました。

日本文化の原点をたどる②

春日大社
宮司 花山院 弘匡さん

人間は自然の中で
生かされているのです。

花山院(かさんのいん)家第33代当主 (提供:春日大社)
春日大社第60次式年造替 本殿遷座祭の様子。御本殿に隣接する御仮殿(おかりでん)より、4柱の神様を御本殿に御遷しする神事。2016年11月、20年に一度の大きな行事が無事に終了した。

日本の神道の大きな考え方として、自然の中で人々は生かされ、恵みを得て命をつないでいる、ということがあります。自然環境が生命そのものの源であり、自然の破壊された場所では人々は生きていけない。自然の中において神様が宿られ、人々を守ってくださっているということです。

春日大社の神山である御蓋山(みかさやま)は原生林です。県庁所在地で原生林が残っているのは日本で唯一ここだけです。世界中の先進国を見渡しても、約30万人が住む都市の近くに原生林が残っているのは御蓋山だけでしょう。世界で唯一の都市の原生林として、自然信仰により守られ、今も受け継がれている。この辺りは神道のそういう一面が色濃く残っている場所です。

いまは寒くなれば、石油でストーブをつけ、電気でエアコンを動かしますが、ほんの80年程まえまでは木を切って燃やすしか暖を取る手段はありませんでした。毎日の煮炊きも木を切って燃やす。つまり、人間が生きるということは木を切ること。人間が文明を起こして生活をするのは、木を切るという行為なのです。

しかし、奈良のこの周辺は日本最大の人口であった平城京の時代はもちろん、さらに平安、鎌倉時代も日本で有数の都市であったにもかかわらず、誰も木を切りませんでした。御蓋山は国民を守るために神様が降りて来られた場所だからです。何人たりとも生きとし生けるものを殺してはならない。木を切ってはならない。当然、神様のお遣いである鹿も殺さない。それは生命の源であって人間を守ってくれる神聖な場所だからです。そのため今も御蓋山・春日山は原生林なのです。

春日大社全景 奈良と春日大社を望む。1,000頭を越える野生の鹿と原生林が人の暮らしと共存しているのは世界でも奈良だけ。

神様は自然の美しいものに宿られます。それがお山であれば神山、素晴らしい岩があれば磐座(いわくら)、素晴らしい木があれば御神木。春日大社にとっては御蓋山が神山ですが、自然の美しいものを憑代(よりしろ)として、神様は私たちの生命のすべてを守ってくださっています。その中で、「幸せに過ごせますように」と、神様を祀り願うのがお祭りです。

お祭りというのは、身を清め、素晴らしいお食事である御神饌(ごしんせん)を捧げ、祝詞(のりと)を奏上してご祈願をする。そして、神楽(かぐら)を奉納します。素晴らしいお食事と音楽にて、神様にお喜びいただいて御加護をいただく。これはどんなお祭りでも基本的には同じです。

春日大社は神護景曇2年(西暦768年)に御本殿が造られました。そして、20年に一度、建て替えをする「式年造替」を行っています。私たちも新しい家や家具をそろえることで心身が清らかな気持ちになるのと同様に、神様にも美しく生命力の溢れる場で私たちを守っていただきたいという思いで1,250年もの間、この最大のお祭りである「式年造替」を継続してきています。

その式年造替を続けていくためには、文化や技術の継承が非常に重要です。人生50年の時代、宮大工の場合、15〜16歳で修行を始め、10年経って20代半ばで一人前になる。そして40代半ばで棟梁となり、自分の技術を次代に伝える。信仰、建物、技術のいずれについても、言葉では伝えられない感覚や思いの部分は、経験を通じて人から人へ伝えていく必要があります。神様へ感謝し、さらなる御加護を願うため、「式年造替」は最適な期間として、20年に一度にて執り行われているのです。

春日野音楽祭と街づくりへの想い②

初代事務局長 朝廣 佳子さん

ものごとの根っこの部分を
共有できる人材を育てたい。

初代事務局長 朝廣 佳子さん 「なら燈花会の会」初代会長、「平城京天平祭」実行委員長など数多くの奈良の街づくり事業を牽引。「わたしにとっての奈良は世界に誇る文化財のある日本の原点。ここで生活すること自体が恐れ多いと思うくらい感動して住み始めました。住むことだけでも感動するのに、奈良の街づくりに関われること自体がすごくうれしいです」

これまで奈良の中でもいくつか音楽祭は開催されていました。その中でも、春日野音楽祭は春日大社と私たち市民が新しいものをつくり出して、しかも一過性ではなく、続けていける土台ができました。これは大きな成果だと思っています。

というのは、音楽は昔から神社やお寺へ奉納してきたり、仏教では音声(おんじょう)菩薩がありますが、そういう原点を皆さんにお伝えできる音楽祭として開催できたからです。そこが春日大社さんと開催させていただいている大きな意義ですし、奈良ならではの音楽祭の意義だと思います。加えて、そういう新しい音楽祭をつくっていこうという仲間が、あれだけたくさん集まってできあがっていったというのも大きな成果でした。

これは次に向けた課題でもありますが、前回も多くの学生さんにご協力をいただきましたが、第2回以降はもっともっとたくさんの学生さんに関わっていただきたいと思っています。第1回春日野音楽祭では、学生さんには単に役割を与えるのではなく、ヤマハの吉田さんから奈良の歴史や街づくりについて学ぶワークショップを開催していただきました。“なぜこれをやるのか”“何のためにやるのか”というのは、どんな事業もそうですが、やっていくうちにどうしてもブレてきます。ブレたなと思ったときに、根本を確認することが大切なので、そこを春日野音楽祭では最初からきちんと教えていただいたのは非常に良いことだと思いました。だから学生さんにはもっと関わってもらって、そういった“ものごとの根っこ”を理解して、では、自分たちでこんなことをやってみようとか、この一ヶ所は私たちにやらせてくださいとか、こういう実験をしてみたいとか、そんな意見がどんどん出てきたら素晴らしいなと思うんです。

春日野音楽祭終演後の朝廣さん(前列中央)と学生ボランティアの皆さん。 春日野音楽祭終演後の朝廣さん(前列中央)と学生ボランティアの皆さん。
「街づくりは現場で学ぶもの。現場体験を重ねることで、いろんなことが勉強できる。
そこに学生時代から関われることはすごく幸せなこと」と朝廣さんは言う。

単にイベントのお手伝いでは続きませんし、それでは楽しさも感じられないでしょうから、こんなことが実現できたらうれしいね、ということを共有できる人たちをつくっていかなければいけないと思います。ものごとの根本から理解して進んでリーダーになるような人材をつくらないといけない。それは他のイベントをやっていた頃から奈良の課題として強く感じるところでした。

街づくりというのは現場で学ぶものだと思います。現場体験をいかに重ねるかで、いろんなことが勉強できると思いますし、そこに学生時代から関われることはすごく幸せなことです。そのことをもっと感じてもらって、学生自身が「おいでよ、一緒に春日野音楽祭やろうよ!」という風に誘い合えるようになっていけば良いですよね。やっぱり、見ているよりも関わったほうが断然面白いですから。「あぁ、もう、せっかく面白いのに。なんでやらないのかな」ってみんながそう思うようにしたいです。

これからは、奈良の古いものに若い人たちのアイデアを取り入れると、こんな面白いものが生まれるよ、というようなチャレンジができる音楽祭を目指したいです。昔の奈良だって、シルクロードを伝っていろんな人がやって来て、いろんなものが入ってきました。だから奈良の古いものだけを追いかけるのではなく、古いものを知ったうえで、そこから新しいものを生み出していきたい。音楽って、すごい自由じゃないですか。奈良の歴史ある街が、春日野音楽祭によってどう変わっていくのかなという楽しみがあります。チャレンジしていかないと、必ずマンネリ化していきますから、常に新しい何かを考えながら、守るべきものは若い人たちへ引き継いでいこうと思っています。
(掲載内容・役職等は取材時のものです)

継続した取り組みへ~第2回春日野音楽祭〜

第2回春日野音楽祭は2017年9月17日(日)に開催が決定しました。1日開催となりますが、前日16日(土)に、2018年に迎える春日大社御創建1,250年のプレ特別企画として、春日大社御本殿前の林檎の庭での特別奉納演奏を実施します。

春日野音楽祭を継続していくにあたり、第2回では重要なコンセプトとして「次世代育成」と「地域ブランディング」を掲げました。

奈良はシルクロードの終着点として、大陸の様々な文化を取り入れてきた場所であり、また、原生林の下に鹿がいて、人間がいるという理想郷とも言える場所です。史跡や寺社仏閣を含め、自然と文化が共存していることを奈良の魅力として発信していくことに取り組んでいきます。

一方で、奈良は外部評価に比べて内部評価が低い地域です。1,300年もの歴史を持ち、今なお日本文化の創成期を感じさせる様々な文化的なルーツがあるにもかかわらず、それらが住民よりも外にいる人から見た方がより魅力的に感じているという調査結果が出ています(下記)。

“属”ブランド力の内部評価と外部評価 <出典>「博報堂 人に注目した都道府県の“属”ブランド力調査(2014年5月)」より。
奈良は内部評価を高めるべきと指摘されている。

地域にいる人たちがその価値に改めて気付くためには、地域外の人に奈良に足を運んでもらい、その価値を外から発信してもらうことがポイントだと感じました。この音楽祭を通じて「奈良に演奏を奉納しにいく」という新たな体験を定着させることで、奈良にいる皆さんにも自分たちの住む地域がそんなにも魅力的な場所なのだと再認識してもらいたいと考えています。

音楽祭を通じた街づくりと人づくり

「街づくり」という言葉の意味は広く、一般的には交通や生活環境の整備という意味が強いですが、音楽による街づくりの大きなコンセプトのひとつは「地域活動に関わる主体者づくり」です。

特に奈良は学生の県外流出率の高い地域でもありますので、学生や若い人たちにとって、自分たちの故郷が誇れる場所であることを実感してもらえるよう、まずは楽しみながら自分ごととして関われる地域活動として、この音楽祭を育てていく必要があると考えています。

演奏者・学生をはじめとして、小さなことから関ってくれる仲間を少しずつ増やし、貴重な体験を共有して、その根底となる思いを後世に受け継ぎながら試行錯誤を繰り返して継続する仕組みを形づくっていく。そのプロセスは1,250年続く式年造替の理念と同じであり、持続可能な街づくりにおける根底のあり方だと思います。

  • 街づくり記録 03
  • 街づくりの記録 03〜地域ブランディングと共有価値の創造〜
    文化と音楽による新たな街づくり
  • 文化と音楽による新たな街づくり

Project Report 街づくりの記録03
〜地域ブランディングと共有価値の創造〜

文化と音楽による新たな街づくり

Report by おとまち/吉田

春日野の若紫のすりごろも しのぶの乱れかぎりしられず(伊勢物語)

作者不詳の恋愛短編集である「伊勢物語」の冒頭、奈良の春日野で出会った姉妹に対して詠まれた歌から始まります。
現在の奈良公園一帯はもともと「春日野」と呼ばれる、春日大社・興福寺が所有する広大な敷地でした。若草摘みや打毬(だきゅう:ポロのようなもの)を春日野で楽しんだという記録もあり、昔から行楽の名所でもあったようです。「春日」という地名の由来は諸説あるらしいですが、「か(=神)・す(=住)・が(=処)」、つまり神様のいらっしゃる場所、という説が有力だそうです。

「春日野音楽祭」という名称はもちろんこの地名から取られています。奈良に生まれた新しい音楽祭を「奈良音楽祭」とせずに、あえて歴史の流れを辿り「春日野」という名称が付けられたところに、奈良の皆さんの地域に対する尊厳と誇りの高さを感じます。

目次
  • 「シルクロードの終着点」という価値
  • 日本文化の原点をたどる③
    〜春日大社 宮司インタビュー〜
  • 春日野音楽祭と街づくりへの想い③
    〜現実行委員長インタビュー〜
  • 地域の共有価値創造

毎月1日、11日、21日と1の付く日に欠かさず行われている旬祭の様子 毎月1日、11日、21日と1の付く日に欠かさず行われている旬祭の様子。
写真の中門・御廊の奥に春日大社の御祭神が祭られる4つの御本殿がある。

「シルクロードの終着点」という価値

4月の終わりに、春日大社で900年以上も欠かさず続けられている「旬祭」に参列させていただきました。これまで音楽祭の準備や打合せのために、何度も春日大社にうかがっていますが、御本社に足を運ぶたび、その場の持つ力に襟を正す思いになります。御本社の回廊の奥に祭られている御本殿に向かって、御神饌(ごしんせん)や神楽を奉納されている様子は清らかで美しく、心も清められる思いでした。

第1回春日野音楽祭では、この御本殿まえにある「林檎の庭」で世界的なギタリストであるウィリアム・アッカーマンさんをはじめとする4名の演奏者による特別奉納演奏を実施しました。

春日野音楽祭は駅前からこの御本殿前まで東西2kmに広がる音楽祭ですが、日没後、灯かりの点いた釣燈籠と中門に向かって音楽を捧げるという林檎の庭のロケーションは、春日野音楽祭のコンセプトの柱である「神様に奉納する音楽祭」を象徴する場として、全国を探しても他にない場所だと体感しました。

第1回春日野音楽祭 林檎の庭特別奉納演奏の様子。 第1回春日野音楽祭 林檎の庭特別奉納演奏の様子。
第2回春日野音楽祭では、「文化と生命の多様性」を象徴して2つの特別奉納演奏を行う。(Photo by sencame)

ウィリアム・アッカーマンさんも長いキャリアの中で、「モントルー・ジャズ・フェスティバルと、カーネギーホール、そして春日野音楽祭が3本の指に入る感動的な体験だった」と語られました。

春日大社の記録としても、欧米人がこの場で演奏を行うというのは1,250年の歴史の中で初めてだったとのこと。まさにシルクロードの終着点である奈良で、音楽祭を通じて日米の文化が響きあう新たな1ページとなりました。土地の記憶として「今ここ」にある価値を見出し、多様な組み合わせによって可能性を広げることが、地域に新たな価値を生み出す。そう感じました。

日本文化の原点をたどる③

春日大社
宮司 花山院 弘匡さん

新しいものを取り入れ、
残してきた日本人。だから、
日本の文化は豊かになった。

「旬祭(しゅんさい)」の様子 写真は「旬祭(しゅんさい)」の様子。「旬祭」は平安時代に宮中から春日大社に移された神事で、上旬、中旬、下旬と呼ぶ語源となったお祭り。春日大社は平安時代の中期くらいまでは全て宮中が管轄している神社で、春日祭には祝詞を奏上する神祇官をはじめ2,000人以上が奉仕のために京から来た。

春日大社には年間2,000以上のお祭りがあり、その中で月次祭(つきなみさい)という基本となるお祭りが「旬祭(しゅんさい)」です。毎月1のつく、1日、11日、21日に斎行(さいこう)され、国家国民の平和と幸せを祈るお祭りとして、900年間続いています。

年間を通じていちばん大きなお祭りは3月13日の「春日祭」です。天皇陛下のお使いが宮中からいらして、春日大神様に詔(みことのり)を奏上されるお祭りで、1,200年以上続いています。

そして、春日祭に次ぐ大きなお祭りは12月17日に斎行される「春日若宮おん祭」。神様に音楽や舞などの様々な芸能を捧げるお祭りです。その芸能のひとつである「猿楽(さるがく)」は奈良時代に中国から「唐散楽(とうさんがく)」として伝わり、日本古来の滑稽な芸へと変化し「猿楽」となり、さらに「田楽(でんがく)」と交わり、祈りの「猿楽呪師(さるがくじゅし)」となりました。室町時代初期の「春日若宮臨時祭記」には「猿楽」がストーリーを持ち「能」となったという最古の記録があります。そして、おん祭でいちばん長く演じられる「舞楽」も奈良時代にシルクロードから渡ってきたものです。この時代、シルクルロードの終着点である奈良には、ペルシャ、ベトナム、中国、朝鮮半島などから様々な芸能が伝わってきました。

「振鉾三節(えんぶさんせつ)」の様子。 舞楽のひとつ「振鉾三節(えんぶさんせつ)」の様子。
舞楽の始めに舞われる曲で国土安穏、雅音成就を祈る。まず鉾を持った赤袍の左方舞人、ついで緑袍の右方舞人がそれぞれ笛の乱声に合わせて舞い、最後に二人が鉾を振り合わせる。(提供 春日大社)

もともと日本人は新しいものを取り入れる能力が長けていて、それを自己化する能力にも長けていました。「舞楽」はまさにその代表で、アジアでは1,000年まえに廃れてしまったのですが、日本では伝統芸能として今に受け継がれています。もっと言ってしまうと、仏教もそうです。はじめ、仏様は外国の神様として日本に伝わりました。日本にはすでに八百万の神様がたくさんいらしたので、新しい一つの神様として迎えられました。

日本人はこのように吸収する力が強く、それを自分のものにしていく力もとても強いのです。奈良時代は中国からいろいろなものを取り入れ、自分のものとして、国風文化として、平安時代に受け継がれていきました。

戦国時代は、ポルトガルからさらにいろいろなものが入って来てそれらを吸収しました。戦国時代の終わりに日本には100万丁の鉄砲があったそうで、当時は欧州でもこれだけの鉄砲をもつ国はなかったと言われています。日本人は、その時代時代で、中国を取り入れ、ポルトガルを取り入れ、ヨーロッパを取り入れ、アメリカを取り入れ、取り入れたものは全部、自己化していく。新しく素晴らしいものは受け入れ、古くても良いものは残す。そういういうことに日本人は実に長けていたのです。

外国だったら今日はイエスにお祈りをして、明日はアラー、明後日はブッダというわけにはいかないと思いますが、日本人は多神教ですから、今日は春日さんにお参りをして、明日は伏見さん、住吉さんをお参りしてもいい。それぞれの神様の力があって、我々を守ってくださるのですから。寛容力が高いのは日本的な気質と言えるでしょう。

良いものを取り入れていく気質は今の奈良にも生きています。奈良という場所には、これまでの長い歴史の中で、常に素晴らしいものが残って来ています。その奈良に新しい春日野音楽祭を市民が共に楽しめる場として始めたのです。人々が集って、共感し合って幸せな時間を過ごしていくことは、文化を豊かにしていくことであり、神様もお喜びになります。その思いが発展すれば、もっともっと後世へ繋がっていくものになるに違いありません。

春日野音楽祭と街づくりへの想い③

現実行委員長 増尾 朗さん

これから20年かけて
世界に誇るイベントへ育てます。

現実行委員長 増尾 朗さん 第2回春日野音楽祭実行委員長。前実行委員長の乾さんと前事務局長の朝廣さんから実行委員長を託された。「乾さんも朝廣さんも春日野音楽祭はもっと学生さん中心でやってほしいという思いもあり、その部分を私に期待されているのだと思います」。

春日野音楽祭は立ち上げから関わらせていただきましたが、音楽をど真ん中に置いた事業というのは初めての経験でした。なので、どういう姿が成功なのか、ゴールがよくわからない中で手探りでつくっていきましたが、プレの一日も、第一回の二日間も、ものすごく楽しく事業をさせていただけたと思っています。やっぱり私もそうですが、みんな音楽が好きなので、音楽をど真ん中に置いた事業って純粋に良いなと思いました。演者さんがいて、それを聴いて盛り上がってくれるお客さまがいて、みんなで盛り上がって初めて完成する事業というのは、たぶん音楽祭ならではだと思います。思っていた以上に、通りがかりに立ち寄って楽しんでくれるお客さまや、純粋に楽しもうといらしてくださるお客さまがたくさんいて、伸び代はしっかりあるなと感じました。

春日野音楽祭はおとまちの吉田さんがリードしてくれたのですが、奈良に関わりのない吉田さんの存在は我々にとって非常にありがたかったんです。外から見た奈良の魅力、我々が気づいていない魅力をたくさん挙げてくれました。我々にとっては当たりまえのことも外の方には魅力に映るから、こういう演出にしましょうとかね。実行委員のメンバーはみんな街づくりの経験があって、自分なりに「奈良ってこんなんや」っていうのがありました。そこと、吉田さんからの見え方のギャップを話し合うことが、春日大社や奈良でやる音楽祭の魅力を見つける作業になりましたし、この作業プロセス自体がそれに向かって非常に良い力になったんじゃないかなと思っています。吉田さんは我々の翻訳者なので、奈良人が「素っ頓狂なことをいう」と思える人を外部からどんどん連れてきていただいて、今後も奈良に楽しい影響を与えていただけたらなと思います。

増尾実行委員長と第2回春日野音楽祭実行委員の皆さん。 増尾実行委員長と第2回春日野音楽祭実行委員の皆さん。
前列中央の増尾さんの両となりには、前実行委員長の乾さんと前事務局長の朝廣さん。
お二人とも増尾実行委員長をサポートする立場として参加してくれている。

私は実行委員長として、音楽祭をつくっていく過程も楽しんでもらえるような、20年後まで続くような事業をつくっていきたいと思っています。なので、今回は、もっと学生さんに関わっていただくのと同時に、春日野音楽祭での飛火野や林檎の庭が、みんなが「ここで演奏したい」って思ってもらえるような特別な憧れのステージにしたいなと思っています。加えて、それをベースにもっとキャッチーな事業もできそうです。「え、ほんとにこんなとこ来てくれるの?」っていうようなアーティストを呼んだり、演者も観客もみんなで楽しめる企画をつくったりと、知恵を絞ればいろいろ出てくると思うのです。

また、年一回のイベントではありますが、昨年の第1回から今年の第2回までの一年間で何をするかによって、地域とのつながりをどれだけ深められるかにつながってくるとも思っています。例えばこの一年間で、音楽祭の学生スタッフが商店街に声をかけてスピンオフ企画をやってもいいと思うんです。「この広場で演奏してもいいですか?」とか、そんなコミュニケーションをとっていく中で、実はギターがめちゃめちゃ上手な商店の方がいたり、練習して春日野音楽祭に出るよ!と言ってもらえたり、そういうことができるのではないかと思います。今、我々が無理だと思っていることの理由のほとんどは、人間関係の問題で「知らない」ということに起因することがほとんどだと思います。だから学生さんには地域の皆さんに一緒に楽しもうよという土俵の中で関係性を築いていけば、いろんなことが実現できるのではないかと思います。

春日野音楽祭はできたばかりのお祭りです。つまり何でもできるお祭りです。これは絶対ダメということはまったくありませんので、どこのどなたでも、奈良というキャンバスで、「こんなんできるよ」「一緒にやりませんか」ということがあれば、ぜひ、ご参加ください。演者としてでも、観客としてでも、スタッフとしてでもOKです。これから20年かけて世界に誇るイベントとして育てていきます。その第一歩に関わってもらえたら、きっとラッキーなことなんじゃないかなと思います。春日野音楽祭をもっと知っていただいて、ぜひ、ご参加ください。

地域の共有価値創造

新しいものを生み出すことには不安がつきものです。特に音楽祭という形のないものを具体化していくためには、関係する皆さんとイメージを共有するプロセスが重要になります。

プレイベントを開催する1年前、実行委員会の皆さんにこれから始める取り組みを具体化していくために、ふたつのご提案をしました。

ひとつは、音楽祭の目指す姿の共有。テーマとなるキャッチコピーとコンセプトビジュアルを作成し、奈良ならではの音楽祭をつくり上げていくことを視覚でお伝えしました。

千古の日本文化に音楽を捧げ、人と未来をつむぐ プレイベント立上げ前に作成したコンセプトビジュアル。
御蓋山への「奉納演奏」が奈良の音楽祭の特徴であるということをイメージいただくために作成。

そしてもうひとつ、市民音楽祭がどんなものであるか、肌で感じていただくために仙台の「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」を視察に行きました。市民の手で25年以上続く音楽祭を肌で感じていただき、奈良にもこんな風景をつくりたいと実感していただきました。

さらに、「プレイベント」として、実質的な1回目にあたる音楽祭を実施することで、音楽祭を運営する実体験を通じて「第1回」の音楽祭開催に繋げていきました。

未来へのイメージを、主体者・演奏参加者・来訪者とで共有していくことによって気付きを生むことが地域のブランディングであり、それが日常として落とし込まれていくことで地域の「文化」になっていきます。

文化とは、その地域での営みの積み重ねそのものです。時代と共に消え行くものがあれば新たに生まれるものがあり、良いもの・大切なものが人々の想いを乗せて伝えられていくものだと思います。

音楽による街づくりの最大の特徴は、音楽それ自体は消え行くものでありますが、繰り返すごとに新たな価値(感動)が生み出されていく可能性を含んでいることです。

春日野音楽祭の核となる企画は公募によるまちなかの演奏者のステージ企画です。もちろん毎年出演者も変わり、ステージの場所も増減していくことになります。メイン会場での奉納大合奏企画や林檎の庭での特別奉納演奏、これらのプログラムについても毎年アイデアを膨らませて、変化させていくことで徐々に奈良のオリジナリティが生まれていくことに繋がります。

何層にも積み重なった土地の記憶を少しずつ紐解いていく中から、地域の本質的な価値を見出し、そこに新たな光を当てること。そこに音楽をツールとして活用することで、一見無関係なもの同士が繋がり新たな価値が生まれるのです。そのプロセスに楽しさを見出し、共感者が増えて地域の文化となっていく。それが音楽による街づくりによる「共有価値創造」の目指す一つの理想像です。

Project Report

奈良県奈良市春日野音楽祭

奈良県奈良市
春日野音楽祭
http://kasuganofes.jp/