【Z BLOG】三木 俊雄:「やりがい搾取」と「勝手我慢」 その2

「ブラック」な労働環境における「やりがい搾取」の問題。

(前回:「やりがい搾取」と「勝手我慢」 その1)

では音楽の世界はどうだろう?
僕も「好きな音楽をお仕事にしていいですね」と、よく言われる。
いや、本当にそう思う。
音楽に限らず、あらゆる芸術、芸能はこの「やりがい搾取」「愛情搾取」によって成り立っていると言えるだろう。

いや、違う。
そもそも「搾取」という言葉は労働に対して使われるものだ。

「労働」とは自分以外の誰かのために働くこと。
先の漫画家のアシスタントについても、単なる「背景画家」としての労働を「夢を叶える足掛かり」にすり替えてしまったために起こる問題だろう。

では、音楽は「労働」なのか?

テレビのCMの音楽をスタジオで録音する、これは「労働」だ。
最盛期に比べ今はめっきりその数は少なくなったが、いわゆるスタジオミュージシャンなどがこれにあたる。しかしこの仕事において「搾取されている」と感じるミュージシャンは少ないだろう。それくらいスタジオの仕事に求められる職能と専門性は高く、またそれに見合う対価が用意されている。

では一方、例えば自作の楽曲を披露するジャズのライブなどはどうだろう?
誰もそれをやれと命令していなければ頼んでもいない、特別必要というわけでもない。皆勝手にやっている。つまり、そういう意味で「やりがい搾取」の反対は「勝手我慢」だ。

「ホワイト」な労働環境を作るべきなのは、それが社会の仕組みとして必要としている分野だからだ。
音楽や漫画、演劇やお笑い、ダンスや舞踊、お茶やお花、etc…
これらはすべて「社会の仕組みとして」は無くても良いもの。
つまり誰かの求めに応じているのではないので、皆んなが一律に働いた分だけ支払われる、という世界ではない。
それでもやりたいという「ちょっとヘンな人」だけがやればいいのだ。
「ブラック」はケシカランが、かといって「ホワイト」になってしまったらその分野そのものが無くなってしまうだろう。

音楽家は音楽を作っているのであって、社会の仕組みを作っているのではない。それに文句がある者は、仕組みを作る側に回れば良いのだ。
それも一つの才覚であり、それを持たない者は今ある仕組みの中で何とかやって行けばいい。
マイルスは自伝でこう語っている。
「俺のやるべきことはいかに白人の会社を儲けさせるかだ」そして「コロンビア・レコードは俺にその扉を開けてくれた。俺はその扉に飛び込み、決して振り返らなかった」

そして今やそんな扉も、おそらくどこにも用意されていないだろう。
皆それぞれ、自分の扉を自分で用意し、開けていかなければならない。