【Z BLOG】菅野 浩:「2~3年」

こんにちは、サックス&クロマチックハーモニカ奏者の菅野浩です。
前回は僕の大学生のころの話でしたが、今回は大学を卒業してからの数年のお話をしたいと思います。

1997年4月、プータロー、フリーター、自称ミュージシャン、就職浪人、何とでも呼べる生活が高円寺で始まった。年始から住み始めたアパートは、古い木造四畳半一間、風呂無し、トイレ共同、家賃¥25,000-、日雇いバイトを3回やれば家賃は払えるところだった。
とにかくバイトしないと生きていけない。
自分で選んだ道だ。全て自己責任。
社交ダンスのレンタルフロアーの設営・撤去、ホテル宴会場の看板設置・撤去、家庭教師、飲食店のウェイター、家屋解体現場での肉体労働、交通量調査、葬儀屋などを転々とした。

もちろん一人暮らしの解放感を存分に味わいたい気持ちもあった。
高円寺には個人経営の小さな呑み屋が多くあり、お金に余裕があるときはひとりでそういったお店に飲みに行くようになった。いつだったかそのうちのとあるお店のマスターと話していたとき、僕の身の上相談になった。サックスでジャズやって生きていこうとしているが、全く仕事が無い。不安でしょうがない。などと伝えたと思う。そのマスターは、「どんなことも2〜3年やってみて、そしたら考えてみたらどうかな〜」と。
つまり、“石の上にも三年”とゆうことだ。この言葉が日々のバイト暮らしの生活から一日も早く脱却したいと焦る気持ちにわずかな余裕をもたらしてくれた。そんな誰でも知ってる諺なのに、なんでだろう、マスターの伝えかたが良かったのかな、その時の僕の心に強く響いた。
ようやく“石の上にも三年”とゆう言葉の使い方を覚えた。
すると何故か異様なほどプラス思考になった。
風呂のないアパートに最初は戸惑っていたが、銭湯は大浴場→うちの風呂は大浴場。
うちのリビングは街のカフェ。
うちの食卓は街に無数にある。
隣人や飲み仲間は兄弟親戚。
大家は祖母。
と思うようになり、高円寺とゆう街自体が自分の家になっていた(笑)

その2〜3年の間、音楽関係では、自分と同じような生活をしていた同世代のミュージシャンたちと一斉に知り合うことになり、彼らと元気にストリートで演奏をするようになっていた。
ポール・デスモンドをより深く研究するようになったのもこの頃。「Easy Living」を聴きながらアルバムを最後まで聴かずによく寝落ちしたものだ。
また定期的に演奏させてくれるライブハウス、カフェバー、パーティーや結婚式での演奏なども増え、98年にはラッキーなことに「ジャズ新鮮組」とゆう新人を紹介する企画CDに参加することになった。これは80年代の「ジャズ維新」に続く企画で、小林陽一(ds)さんが中心となってお声掛けいただいた。そして大学を出て3年経った2000年頃、バイト無しで生きてることに気づいた。
あの店のマスターの言ってたことが後で振り返るとじんわりと沁みてくる。


『ジャズ新鮮組』

あと、この2〜3年の間に気づいたことは、自分には全く世の中の常識が無い、とゆうことだった。
中学生時代からそれまで音楽関係のしかも学生同士の仲間としか交流してこなかったため、とても狭い価値観の中にいた。バイトする上で自分とは価値観の大きく離れた人と接する機会が多くなったにもかかわらずしばらくは自分の価値観で判断していた。それ故、周囲にご迷惑をお掛けしたと思う。
クラスの仲間、ゼミの仲間、教授、バイト先で知り合った大人、近所の大人たちなど多方面の人たちと接しながら学生生活を送った人は多いと思う。そこで常識を身に付けるとゆうことが僕にはなかったが、この2〜3年のあいだに急速に学習することになった。

つらつらと数回に分けて、自分の回想録を綴ってきましたが、まとめるとこんな感じだろうか。

中学生のころ、うっかり中二病を発症し…

高校生のころ、こじらせて…

大学生のころ、開きなおり…

2〜3年経て、それでいいと思ってる今

ミュージシャンは皆、今に至るストーリーがそれぞれあるので、そういう話を聞くのが好き。それらのひとつとして心に留めて頂けたら嬉しいです。


今でもスマホの待受画面になっている高円寺のアパートの襖の模様。