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シプリアン・カツァリス 氏(Cyprien Katsaris) わが心の友、ピアノと一緒なら、なんでもやり遂げられる気がします。 この記事は2009年11月19日に掲載しております。

ピアニストとして世界中を飛び回る中、常にユーモアを持って関わる人々を和ませるシプリアン・カツァリス氏。 プラモデルやリモコン飛行機が大好きと語る彼は永遠の少年のように目を輝かせ、「クラシックは退屈なものではない。どんなに感染してもまったく害のないウィルスで、 その上大きな喜びが得られます」と力説されました。

Profile

pianist シプリアン・カツァリス

pianist
シプリアン・カツァリス
フランス系キプロス人のピアニスト、そして作曲家でもあるシプリアン・カツァリスは、1951年にマルセイユで生まれ、幼少時代をカメルーンで過ごし、4歳の時ピアノを習い始める。パリ音楽院では、アリーヌ・ヴァン・バランヅァン、モニーク・ド・ラ・ブリュショルリからピアノを、ルネ・ルロワ、ジョン・ユボより室内楽を学ぶ。彼は、ユネスコ主催の国際青年演奏家演壇(1977年、ブラティスラヴァ)にて入賞、ジョルジュ・シフラ国際ピアノコンクール(1974年、ヴェルサイユ)においては最優秀賞を獲得。1972年ベルギーで開催されたエリザベート王妃国際コンクールでは、唯一西ヨーロッパ出身の入賞者だった。彼はこれまでに、ベルリンフィルハーモニー管弦楽団、シュターツカペル・ドレスデン(ドレスデン国立歌劇場管弦楽団)、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、クリーブランド管弦楽団、王立アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、ロンドン交響楽団、NHK交響楽団(東京)、モスクワ交響楽団等、多くの世界的に有名なオーケストラと共演してきた。またレナード・バーンスタイン、カート・マズール、チョン・ミュンフン、サイモン・ラトル卿、ムスティスラフ・ロストロボーヴィチ、シャルル・デュトワ、ニコラウス・アーノンクール、クリストフ・フォン・ドホナーニ、等の指揮者との共演も。さらには、1986年に、シュトゥットガルト室内管弦楽団と共に、閉幕コンサートに出演。指揮者カール・ミュンヒンガーが出演する際、彼は個人的にカツァリス氏を招待し、ハイドンのピアノ協奏曲ニ長調の演奏が実現した。
また1999年10月17日、カーネギー・ホールで開かれたリサイタルにおいて、ニューヨークのコンサート愛好家達のスタンディング・オベーションを受けたカツァリス。この日は折しも、フレデリック・ショパンの命日でもあり、この偉大な作曲家の没後150周年を記念に開催されたものだった。
2008年、2009年のツアーではYAMAHAのピアノを使用。ポーランドのショパンフェスティバルでもYAMAHAを指名した。ヤマハの新しいピアノ「アバングランド」のクォリティをとても気に入ってくれたそう。

彼の幅広い活動は演奏会にとどまらず、1977年には、ルクセンブルクで開かれたエッターナッヒの国際フェスティバルにおいてアーティスティック・ディレクターを任命される。1992年には、日本のNHKはシプリアン・カツァリスと共にフレデリック・ショパンを取り上げ、上級者向けの音楽教室と彼自身による演奏も織り込んだ13本のプログラムを制作。また、さまざまな国際コンクールの審査員を勤めるほか、各国でマスタークラスも開いている。2006年3月、ウェイマーにあるフランツ・リストの生家において、リスト自身がピアノを教えた1886年から時を経てマスタークラスを開いたのもカツァリスなのだ。

カツァリスの作品は、これまでにテルデック、ソニー・クラシカル、EMI、ダッチ・グラモフォン、BMG-RCA、デッカ、パヴェインの各レーベルより発売され、現在は、自ら立ち上げたレーベル「PIANO21」から作品を発表し続けている。
「Cyprien Katsaris」Official Website(英/仏/独語)
※上記は2009年11月19日に掲載した情報です

わが心の友、ピアノと一緒なら、なんでもやり遂げられる気がします。

 シプリアン・カツァリスの名は、80年代にベートーヴェンの交響曲全曲をピアノで演奏する録音をリリースしたことで、一躍世界に広まることとなった。これはカツァリス自身がリスト編曲版にさらに手を加え、研究を重ねてスコアを練り直して演奏したもので、非常に高度なテクニックと音楽性を必要とする。オーケストラの総スコアが頭に入っていなければならず、リストがこれをピアノに置き換えたさい、手を焼いた箇所がいくつかあるからだ。
「81年に第6番《田園》を入れてから、足かけ8年かけて全9曲の録音を完成させました。長かったような、短かったような…」
こう語るカツァリスは、この全曲録音ではリストが悩んだ箇所にこそこだわり、随所に和音を加え、演奏不可能と思われるほどの音符を追加し、まさにピアノ1台でオーケストラを思わせるようなスケールの大きな曲に仕上げている。

「私がベートーヴェンの交響曲をピアノで演奏するのは、ベートーヴェンをこよなく愛し、その作品に魅せられているからにほかなりません。ただし、当初はどうして交響曲をピアノで演奏しなくちゃいけないんだとか、オーケストラで聴いたほうがいいとか、演奏すべきピアノ作品はほかにたくさんあるだろうとか、さまざまなことをいわれたものです。でも、全曲録音が完成し、各地で演奏を続けていくうちに、みなさんがこれはオーケストラ曲とは別の魅力を持つ作品だと深い理解を示してくれるようになりました。いまでは、どうしてこれを弾かないんだとまでいわれるようになりました。不思議でしょう。実は、このリスト編曲版に関して、ホロヴィッツは“最高のピアノ作品だ”と賛辞を贈っています。私も同意見ですし、弾けば弾くほどベートーヴェンのすばらしさに魅了されていきます。もちろんリストの才能のすごさにも」

カツァリスはこれまで第6番「田園」は各地で22回、第3番「英雄」は79回も演奏している。特に「英雄」は日本のツアーで5回も立て続けに弾いたことがある。これは55分もかかる大作で、暗譜するだけでも大変な労力を要するわけだが。

「ですから、一時はもう第3番は弾きたくない、とまで思うようになりました。あるとき、シュトゥットガルトにいたのですが、夜中にガバッと目覚めてマネージャーに電話し、“私は今後「英雄」はもう弾かないから、そうした仕事は入れないでくれ!”とわめいたほどですよ(笑)。寝ても覚めても旋律が頭のなかでぐるぐる渦巻いていたからです。でも、なんとマネージャーは、直後にまた私にこの曲を弾く機会を作ってしまったんです、とても断れない状況の演奏会をね(笑)」

それは1988年6月30日のこと。1963年に当時の西ドイツのアデナウアー首相とフランスのド・ゴール大統領が締結した、独仏協力条約(エリゼ条約)の25周年記念パーティの席上で演奏するというものだった。このとき、カツァリスは「英雄」の第1楽章を弾くことになったが、これだけではたりないと考え、ドイツとフランスの国歌を盛り込んだ作品を作り上げて演奏した。
この新作は、両国の国歌に因んだハイドンの旋律と「ラ・マルセイエーズ」がミックスされ、ひとつのファンタジーのような楽曲で、多分に祝祭的な雰囲気を醸し出すもの。彼は右手で「ラ・マルセイエーズ」の旋律を奏で、左手は朗々とハイドンの美しい旋律を歌わせる。超絶技巧を要する曲だが、カツァリスはまるでピアノとたわむれているように遊び心をただよわせ、愉悦の表情を見せながら演奏する。きっと記念パーティは拍手喝采に包まれたに違いない。

「私が作曲や編曲をするのは、人々にピアノの楽しさ、音色の多彩さ、表現の多様さをもっと知ってほしいと願うからです。偉大な作曲家が書いた作品はあくまでも楽譜に忠実に演奏し、そのなかでさまざまな表現力、音楽性、解釈を広げながら作品の内奥に迫っていきますが、作・編曲作品ではかなり自由に遊べます。ピアノは私のパートナーであり、親友ですから、私が遊び心を満杯にして弾けば、ピアノもそれに応えて遊んでくれるのです」

 カツァリスは、生後5、6カ月のころからピアノとともに生きてきた。ピアノなしの人生は考えられない、というほどその結びつきは強く、深いものである。

「私はキプロスで生まれましたが、やがて両親とともにカメルーンに移住しました。当時、ここはフランス領でしたが、多くのギリシャ人が仕事のために移住したのです。私は両親が3歳上の姉のために買ったピアノが家に運ばれてきたのをいまでも鮮明に覚えています。なんてすばらしいものなんだと思い、5、6カ月の子どもでしたが、ちっちゃな1本指ですぐに弾き始めました。ひとときも楽器から離れないので、両親はこの子にも習わせようと考えたわけです。私の家はいつもレコードがかかっているような環境で、特に私はベートーヴェンの交響曲に魅了されました。その後、8歳でパリに移ったのですが、のちにベートーヴェンの作品のリスト編曲版を見つけ、私が探していたのはこれだ、と思ったわけです。自分の指でベートーヴェンのあのすばらしい交響曲が弾ける、これは神が与えてくれたチャンスだと思い、演奏し始めました。実は、私のベートーヴェンへの思いは、はるかカメルーン時代にさかのぼるんですよ」

 しかし、カツァリスはトランスクリプション(編曲)ばかり弾いているわけではない。古典派から近・現代作品まで幅広いレパートリーを誇り、それらを巧みに組み合わせて常にユニークなプログラムを作り出している。そして2度と同じプログラムは登場しない。
彼は大変な努力家で練習魔としても広く知られ、徹底した完璧主義者である。ショパンの作品もとことん楽譜を研究し、さまざまな資料を調べ、世界各地で演奏にかけ、完全に納得のいく演奏ができた時点で80年代に多くの作品の録音に踏み切った。
そして85年には、過去5年間にリリースされたショパンの録音のなかからもっとも優秀な演奏に対して贈られる賞を受賞している(ワルシャワ・フレデリック・ショパン・グランプリ・ディスク)。

「私は昔からショパンの作品を愛してきました。ショパンの天才性は人間の可能性を超越したものだと思います。超自然的といってもいい。ショパンは常にさまざまな事柄から高度なインスピレーションを受けていました。その質の高さは音楽のなかに充分に感じ取ることができます。ピアニストとして彼が使用していた奏法のバラエティの豊かさにも、信じられないほどの数がありますよ。これは銀河系の星の数にも匹敵するんじゃないかな(笑)」

カツァリスは作品について説明し出すと、止まらない。ユニークな作品論や的確な解釈、作曲家の意図するところまで平明な言葉で饒舌に語る。その才能が全面的に現れたのが、92年のNHKの番組。このときはマスタークラスと演奏を含むショパンの13回のコースが放映され、大好評を博した。
「私はショパンやシューマン、ナポレオンといった人物の署名入りの手紙をオークションに行って買い求めるのが趣味なんですよ。その趣味が講座でも役立ったというわけ」

それに加え、カツァリスの学生時代の経験がこの講座には大きな影響をもたらした。彼はパリ音楽院で学んでいるが、各々の授業はとてもきびしいもので、それを必死でこなしたことが今日のカツァリスの糧となり、教えるときにも大きな力となっている。
「もっともきびしいレッスンは、スケールの練習と初見でした。まず30分すべてのキーでスケールの練習をし、その後20分間オクターヴの練習をする。それに疲れるとテンポを少し落として練習することが許され、再びテンポを上げていく。これは基本中の基本ですが、いまの生徒はこれらの練習をあまりしませんね。もっとスケールを弾くべきだと思いますが。ただし、正しいやりかたでなければ意味がありません。正しく練習すれば数分で済むことが、まちがったやりかたで行っていたら何時間もかかってしまいますから。もっとも大変なのは初見の授業でした。1分間楽譜を見てすぐに演奏するわけですが、第1楽章を弾いていると、もうそれは紙で隠されてしまう。すでに第2楽章を見ていなければならないというわけです。ここで常に先を読む、ということを学びました。いま、パリ音楽院でこのような授業が行われているかどうかわかりませんが、私の時代は初見の卒業試験に合格しないと即刻退学でした。ほかの課目がすべてよくてもダメだったんです」

そんなカツァリスは、これまでさまざまな作品を録音しているが、2001年に自らがオーナーとなってレーベルを立ち上げた。題して「PIANO21」。すでに20を超えるCDとDVDをリリースしている。ここには独自の選曲に基づくユニークなプログラムが多く含まれ、各地のライヴなども登場している。
「今後は各地の放送音源なども探し出し、CD化や映像作品としてリリースしていきたいと考えています。私は一度だけの演奏に命を賭けますが、それが納得のいくいい演奏だった場合は、なんとか多くの人々に聴いてほしいと思うからです。そのために、これまで各地で演奏してきた音源を発掘しているわけです。これは相手との交渉など根気のいる仕事ですが、私は結構粘り強いので大丈夫です。大変なときはジョーク連発で切り抜けますから(笑)。わが心の友、ピアノと一緒なら、なんでもやり遂げられる気がするんですよ」

Textby 伊熊よし子

シプリアン・カツァリス へ “5”つの質問

※上記は2009年11月19日に掲載した情報です