Web音遊人(みゅーじん)

狙った音は決して逃さない、どこまでも洗練されたヴィルトゥオーソ/セドリック・ティベルギアン ピアノ・リサイタル

ロン=ティボーでの優勝をはじめ、数々の国際コンクールで輝かしい成績をおさめ、世界中から絶大な支持を得るティベルギアン。日本にもファンが多く、平日夜でも会場はほぼ満席だ。

プログラム前半はブラームス、ベートーヴェンと進む予定だったが、当日の変更でベートーヴェンからのスタートとなった。「プロメテウスの創造物」の主題による15の変奏曲とフーガ。《エロイカ変奏曲》の愛称で親しまれるこの曲は、後の交響曲第3番《英雄》に引用された序奏から始まる。オーケストラを思わせる華々しい和音が一気に広がったかと思うと、次の瞬間には息を呑むほどに繊細な弱奏。たった数小節で、その音色の幅に魅せられた。続く変奏では和音進行や形式が厳格に保持されるが、時に大胆に、時に甘く囁くような演奏は、一瞬たりとも聴衆を飽きさせない。特筆すべきは第6と第14変奏に登場する短調であろう。長調から移る折の絶妙な間に、自然と場の空気が変わるのを感じた。彼の研ぎ澄まされた感覚は、音色はもちろん、音のない瞬間さえも巧みに操る。最後のフーガでは、変奏で積み上げてきたエネルギーを解放するかのように、力強く高揚していく音の数々に圧倒された。

続いてブラームス。「シューマンの主題による変奏曲」は、恩師シューマンの自殺を受け、彼への感謝と、その妻クララへの敬意を込めて作られたものだ。鍵盤を撫でるような丁寧な指の運びは、まるで悲しみに寄り添うかのようである。中でも、シューマンが残した「クララ・ヴィークの主題による即興曲」からの引用が対位法的に展開する第10変奏は、一つ一つの動きを大切に、繊細に紡ぎ上げ、聴く者の心を強く捉えた。先のベートーヴェンとは異なり、主題に対して自由に書かれた変奏が続くこの作品。彼は自在に音色を操り、実にさまざまな表情で楽しませてくれた。

休憩後のドビュッシーは前半と一変し、爽やかな響きでホールを満たした。晩年の大作である「12の練習曲」は、指の機能性の追求と、洗練された音楽語法が絶妙に混ざり合う。5本の指を精巧にバランスよく使いこなし、積み上がる和音はまるで静かに重なるベール。そしてオクターブはどこまでもダイナミックに。音のぶつかりが多い場面でも、巧みなペダリングによって不快な濁りは感じさせない。アンコールの《沈める寺》(ドビュッシー「前奏曲集」第1巻より第10曲)は、深遠な響きの彼方へ誘うかのように、会場を柔らかく包み込んだ。

ティベルギアンは紛れもなくヴィルトゥオーソだが、自らの演奏に酔いしれるようなことは一切なく、その動きはどこまでも洗練されている。鍵盤を見つめ、感覚を研ぎ澄まし、狙った音は決して逃さない。そこから生まれる音楽に耳を澄ますうち、いつのまにか我々は彼の築いた音の世界に入り込むのかもしれない。

ステージを去る際、2時間近くに及ぶ演奏を共にした譜めくりスタッフとピアノに向け、小さく拍手を送る謙虚な姿も印象的だった。

小田実結子〔おだ・みゆこ〕
作曲家・編曲家。武蔵野音楽大学作曲学科卒業及び、同大学院修士課程作曲専攻修了。教育活動の傍ら、雑誌取材や楽曲紹介といった執筆、クラシック音楽の創作を行う。奏楽堂日本歌曲コンクールをはじめ、作曲コンクールにおける入賞歴多数。
https://otsukimiomiyu.wixsite.com/odamiyuko

 

特集

今月の音遊人

今月の音遊人:渡辺真知子さん「幼稚園のころ、歌詞の意味もわからず涙を流しながら歌っていたのを覚えています」

6985views

音楽ライターの眼

映画『ワンダーウーマン1984』を音楽で語ってみよう

2117views

練習用のバイオリンとして進化する機能と、守り続けるデザイン

楽器探訪 Anothertake

進化する機能と、守り続けるデザイン

4917views

楽器のあれこれQ&A

目指せ上達!アコースティックギター初心者の練習方法とお悩み解決

96750views

ぱんだウインドオーケストラの精鋭たちがバイオリンの体験レッスンに挑戦!

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ぱんだウインドオーケストラの精鋭たちがバイオリンの体験レッスンに挑戦!

13032views

オペラ劇場の音楽スタッフの仕事 - Web音遊人

オトノ仕事人

稽古から本番まで指揮者や歌手をフォローし、オペラの音楽を作り上げる/オペラ劇場の音楽スタッフの仕事(前編)

30425views

弦楽四重奏を聴くことが人生の糧となるように/第一生命ホール

ホール自慢を聞きましょう

弦楽四重奏を聴くことが人生の糧となるように/第一生命ホール

8574views

東京交響楽団&サントリーホール「こども定期演奏会」

こどもと楽しむMusicナビ

子ども向けだからといって音楽に妥協は一切しません!/東京交響楽団&サントリーホール「こども定期演奏会」

10442views

小泉文夫記念資料室

楽器博物館探訪

世界の民族楽器を触って鳴らせる「小泉文夫記念資料室」

21760views

武豊吹奏楽団

われら音遊人

われら音遊人: 地域の人たちの喜ぶ顔を見るために苦しいときも前に進み続ける

1469views

山口正介さん

パイドパイパー・ダイアリー

「自転車を漕ぐように」。これが長時間の演奏に耐える秘訣らしい

5873views

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅 - Web音遊人

音楽めぐり紀行

ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブにサルサ!キューバ音楽に会いに行く旅

24718views

ホルンの精鋭、福川伸陽が アコースティックギターの 体験レッスンに挑戦! Web音遊人

おとなの楽器練習記

【動画公開中】ホルンの精鋭、福川伸陽がアコースティックギターの体験レッスンに挑戦!

10500views

武蔵野音楽大学楽器博物館

楽器博物館探訪

専門家の解説と楽器の音色が楽しめるガイドツアー

8184views

音楽ライターの眼

連載37[ジャズ事始め]留学先から“アメリカならではのジャズ”を持ち帰らなかった佐藤允彦が示したものとは?

1830views

ホールのクラシック公演を企画して地域の文化に貢献する/音楽学芸員の仕事

オトノ仕事人

アーティストとお客様とをマッチングさせ、コンサートという形で幸福な時間を演出する/音楽学芸員の仕事

11339views

ゲッゲロゾリステン

われら音遊人

われら音遊人:“ルールを作らない”ことが楽しく音楽を続ける秘訣

1324views

楽器探訪 - ステージア「ELC-02」

楽器探訪 Anothertake

持ち運び可能なエレクトーン「ELC-02」、自由な発想でカジュアルに遊ぶ

29942views

サラマンカホール(Web音遊人)

ホール自慢を聞きましょう

まるでヨーロッパの教会にいるような雰囲気に包まれるクラシック音楽専用ホール/サラマンカホール

20210views

山口正介 Web音遊人

パイドパイパー・ダイアリー

マウスピースの抵抗?音切れ?まだまだ知りたいことが出てくる、そこが面白い

5621views

ピアノやエレクトーンを本番で演奏する時の靴選び

楽器のあれこれQ&A

ピアノやエレクトーンを本番で演奏する時の靴選び

46029views

ズーラシアン・フィル・ハーモニー

こどもと楽しむMusicナビ

スーパープレイヤーの動物たちが繰り広げるステージに親子で夢中!/ズーラシアンブラス

13329views

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする Web音遊人

音楽めぐり紀行

太平洋に浮かぶ楽園で、小笠原古謡に恋をする

9602views