作曲家・ピアニスト 荻野清子さん

 
子どもはみんな作曲家。自由に作ったその曲が子どもにとっての宝もの。

私の気持ちを表現できる、自由な楽器。

—荻野さんとエレクトーンの出会いを教えてください。
おもちゃのピアノを買う軽いノリで楽器店に連れてってもらった時が、私とエレクトーンの出会いです。そのとき丁度、店頭でエレクトーンの演奏をしていたのが、すごくカッコ良かったみたいで、私が「これが欲しい!」とへばりついて、親に買ってもらいました。親には思わぬ出費になってしまい申し訳なく思っていますが。ただ、両親もちょっとやってみたいと思ったんでしょうね。私よりも先に、ヤマハの「大人の音楽教室」に通い始めました。私はというと、親と一緒にレッスン会場に通っていたのですが、実は親よりも先に弾けるようになっていました。
—ということは、もうその頃から、才能があった!?
いやいや(笑) 子どもは柔軟だから、一回聞いたものをそのまま同じコード(和音)を探して弾いて、耳コピもできちゃうんですよね。4歳から晴れてエレクトーンの幼児科に通うようになりました。
—はじめてエレクトーンを弾いた時の印象は?
カラフルなレバーやリズムボックス、ひとつボタンを押すだけで、すごい発見をしたような、エレクトーンをいじっているだけでそこから流れる音にワクワクしていた気がします。
—エレクトーンを単に楽しむから、自ら作曲をして楽しむようになったのはいつ頃ですか。

幼少の頃エレクトーン発表会での様子

だいたい小学3年生の頃でしょうか。JOC(ジュニアオリジナルコンサート)にも出ていたので、その頃には曲を作り始めていた気がします。

—その頃から作曲の楽しさを感じていたんでしょうか。
そうですね。面白いなぁと、漠然としながらも思っていたんでしょうね。
—譜面にある曲を弾くというよりも、自分で作曲する、楽しさが先行していたということでしょうか。
そうですね。身近なところから曲を自由に作るということを自然に学ばせてもらったのが今の自分につながっている。だから曲を作らなくてはというハードルみたいなものがなくて。例えば、今日はあれが美味しかったから、その思いを曲にしよう!みたいな軽い気持ちで作る。特別なことじゃなくて、当たり前のことに思えていました。
—小学校の頃、自然体で「音」を楽しむというのが、やはりエレクトーンに触れていないとなかなか生まれないことだったのかもしれないですね。
そう思います。

音楽の楽しさを思い出させてくれる存在。

—中学校の頃になって、私は本気でエレクトーンをやっていくぞ、という何か目標のようなものはあったんですか。
エレクトーンを極めるというよりも、作曲をもっと勉強したいなと思っていました。影響のひとつに、JOCの特別講師で来ていた先生方がことごとく芸大を卒業された方で、意味もわからず芸大作曲科というところに行けばああいう先生になれるんだって、すごい憧れがありました。
—エレクトーンはいつ頃までやっていたんですか。
個人レッスンで高校2年生くらいまでですね。芸大付属の高校だったんですが、高校に入ると、周りのみんなはピアノで、いわゆる本当にプロの演奏家やプロの作曲家を目指す人ばかりで。その頃から、私もピアノを本格的に始めました。
—徐々にピアノへと向かうようになったということですが、その時、エレクトーンというのは、自分にとって、どんな存在でしたか。
私にとってのエレクトーンは、「勉強」するものじゃなかった。そもそもはじめて買ってもらった時も、おもちゃの楽器を買うという気持ちだったので、エレクトーンと向き合う時は、自由な時間というか、型にはまってやるものでもない。当時、ピアノは自分でやっていかないと大変なことになるっていう、追われながらの取り組みというか。エレクトーンは「ホッ」とできる、音楽が好きだといつでも思わせてくれる存在だったと思います。

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