Local Models: 多様な音楽文化に寄り添って
アラブ音階の再現から始まった地域性とのマッチング
ポータブルキーボードにMIDI機能が標準搭載されていく80年代の半導体技術の進化はめざましく、年を追うごとに多くの機能を一製品に凝縮できるようになっていきます。そのような進化のひとつに12半音の音階以外の音階を奏でるスケールチューニング機能があります。それまでの電子楽器はピアノなどの平均律を基本に作成されていました。しかし世界中の音階には一般的な12音の平均律に当てはまらない音階を使用している音楽文化が多く存在しています。これらは微分音などと呼ばれることもあり、スケール上に半音の半分(1/4音)の音程が使われていることも多々あります。アラブの音楽では『マカーム』と呼ばれるいくつもの音階があり、その多くにこの半音の半分の音程を使用するものが存在します。もともと弦楽器を主体に考えられた音階なので、ギターを例にとって説明してみましょう。
ギターの12フレットの位置では、開放弦のちょうどオクターブ上の音が出ます。5フレットの位置は弦を4分割したときの3/4の長さになる位置なのですが、ここでは元の弦長(開放弦)の4度上の音が奏でられます。一般的なギターではこの4度の間を5分割(※均等の長さではない)してフレットがつけられており、12音階の半音に相当する音程が得られるようになっていますが、これを1から5フレットまでのちょうど半分の長さの位置、すなわち弦長の7/8の位置にするとどうでしょうか?その位置は一般的なギターの2フレットと3フレットの間の位置に来てしまいます。つまり弦長を半分、半分、半分と分割していった時に現れる音程は、現在一般的に使用されている12平均律の音程上に存在しない音となってしまうのです。
アラブ諸国の音楽文化ではこの12音階に存在しない音程を使用した音楽や楽器が多数存在するため西洋の12平均律楽器では演奏ができません。しかしチューニングを自在に変更することが簡単な電子楽器では、これを再現した楽器を作ることができるので、そういった機能をポータブルキーボードに備えてさまざまな国の音楽を再現できるようにしようという動きが始まります。
1986年に発売された「PSR-62」はこのスケールチューニング機能を搭載し、『アラビック・スケール』が奏でられるポータブルキーボードとして登場しました。本体右上に1オクターブ分の鍵盤の画を伴ったスケールチューニング専用ボタンを配置し、ボタンを押してランプを点灯させた音が全オクターブに渡って1/4半音下がる仕様になっています。この下がり具合はFINE-TUNEスライダーで調節でき、微妙なチューニングに設定することも可能です。また、これらの設定を3つまで記憶することができるので、複数のマカームにも対応可能です。さらにこれらのチューニング操作はファインチューニングも含めて演奏中に可変することができます。この点も楽器らしさを考えて創られた証しともいえます。このように中東地域の楽器とのアンサンブルを十分に考慮した「PSR-62」は、この地域で人気を呼びセールスを伸ばします。
PSR-62のスケールチューニング機能
PSR-64のスケールチューニング機能
その後1990年には二代目のアラビックモデルである「PSR-64」を発売。このモデルでは鍵盤上部にパーカッション専用のパッドスイッチを配置しています。これまで鍵盤の一部をPCMのパーカッションサウンドに割り当てる機能はあったのですが、6つの専用パッドを搭載し、バリエーションボタンを組み合わせることで30種類のパーカッションサウンドをリアルタイムに演奏することができるようになりました。このパーカッションサウンドの中にはタブラやフレームドラムなどのサウンドも収録され、まさに中東向けの仕上がりになっています。
PSR-64(1990年)
PSR-A3(1995年)
中国市場におけるKBシリーズの功績
「KB」という型番が登場したのは1988年の「KB-2000」からになります。ヤマハは1990年に完成した中国天津工場でポータブルキーボードの生産を開始すると同時に、製造したポータブルキーボードの中国国内販売にも力を入れていきます。この牽引力となったのがKBシリーズで、1990年発売の「KB-100」、1991年発売の「KB-200」など次々と中国市場に製品を投入していきます。
中国国内では1986年に美育(いわゆる芸術的な分野の教育)を国家の教育方針に正式に取り入れる方針を打ち出したことにより、音楽教育の分野においても急激な変化が生まれていきます。1980年代半ばには中国国内の音楽大学にヤマハのエレクトーン指導者養成コースが設立され、その卒業生がさまざまな音楽大学で電子オルガンの専門コースを普及していきます。こういった流れの中で小さな子どもたちに音楽教育をおこなう第一歩としてポータブルキーボードが受け入れられ、急速に普及していきます。とはいえ、当時の中国の物価状況を踏まえると、ポータブルキーボードは非常に高価な楽器で、教育熱心な親御さんが懸命にお金を貯めて購入するといった状況でした。
1990年代前半までは各国でリリースされているポータブルキーボードと同様の音色、スタイルを搭載した製品を展開していましたが、1997年に発売された「KB-110」「KB-130」では、中国の民族楽器である二胡や嗩吶の音色を搭載するなど、中国国内での流通を意識した製品作りを開始します。また、伴奏スタイルも中国国内で演奏される音楽を再現できるスタイル(China 1、China 2)を搭載するなど、地域性のカスタマイズを充実させています。さらにデモソングに中国の伝統的な茶摘み歌である「采茶扑蝶」を搭載しており、こういったローカルモデルならではの製品開発が功を奏し、中国ではKBシリーズは現在でも「キーボードと言えばKB」というまでに定番のモデルとなっています。
1990年代後半には液晶ディスプレイを搭載した「PSR-288」をリリース。その後KBシリーズにおいても液晶ディスプレイが使用されるようになっていきます。2000年には操作パネルの文字を中国語表記にした「SKB-130」を発売。これまでローカルモデルでも表記はアルファベットだったのに対し、漢字を使用した完全ローカライズモデルとして市場投入されます。
この頃、世界的にも注目を浴びる女性音楽グループ『女子十二楽坊』が登場し、中国の伝統的な音楽スタイルと洋楽的なポップミュージックを融合させた音楽がブームとなり、電子楽器と伝統楽器を組み合わせたアンサンブルも普及していきます。
2006年には「PSR-C200」を投入していますが、その後は安定的な人気を持つKBシリーズに一本化。豊富な中国特有の楽器音やスタイルを装備し、中国国内の音楽教育を始め、趣味層にまで幅広く受け入れられています。
近年では、90年代にKBシリーズを子どもに買い与えていた世代が定年退職し、自らの趣味としてKBシリーズを愛用する層も増えてきており、まさに中国国内の音楽事情に、ヤマハのポータブルキーボードが深く根付いていることがうかがえます。
日本では光る鍵盤「ライトガイド」を導入
ポータブルキーボードの伴奏スタイル機能を使用した演奏は、世界中の多数の地域で広まっていったのですが、日本国内においては学校備品用としての役割や、子どものクリスマスプレゼントといったホビー市場向けのキーボードという位置づけが強くなっていきます。
こういった状況の中、2000年に初心者向けの音楽教育と知育玩具的な要素を兼ね備えたモデル「PSR-J20C」を日本市場に投入します。この「PSR-J20C」は鍵盤一つひとつにライトを装備し、演奏中に次に弾くべき鍵盤を光で教えてくれるというライトガイド機能を搭載しています。このライトガイドは、レッスン機能と組み合わせると非常に有効で、正しい鍵盤(光っている鍵盤)を弾くまで伴奏が待ってくれる機能も搭載しており、光る鍵盤をモグラ叩きのように追っていくと、伴奏も含めて演奏が完成するようになっています(マイペース機能)。他にも、メロディーのタイミングだけでどの鍵盤を弾いても曲を進められるタイミング機能や、伴奏が待ってくれないカラオケ機能など、レベルに合わせてさまざまな練習方法を選択できます。また、この時期に半導体メモリーのコストダウンが進んだことを受け、音声ガイド機能も搭載。白鍵のみですが、鍵盤を弾くと「ドレミ~」と歌う機能がついていたり、ボタンを押すとその操作が何の機能なのかを人の声で教えてくれる「おしゃべりガイド」がついていたりと、ユニークな機能を搭載したポータブルキーボードになっています。
この当時、日本市場では電子ピアノが急速に普及し、その市場規模も莫大に大きくなっていました。とはいえ、数万円で購入できるような低価格電子ピアノはほとんど無かったので、長く続けられるかわからない幼少期の子どもには低価格のポータブルキーボードを買い与えるという層も一定数ありました。このようにピアノの代替品としてポータブルキーボードを導入する層もいたことから「グランドピアノボタン」という機能を装備し、ボタンひとつでピアノ練習に最適な設定(オートベースコードが鳴らないなど)に変更できるなど、市場の事情を配慮した設計になっています。
その後、これらの光る鍵盤を搭載したポータブルキーボードはEZシリーズとして踏襲され、ライトガイドで演奏を楽しみたい層はEZシリーズ、純粋なキーボードとして演奏を楽しむ層にはPSRシリーズという棲み分けがなされながら現在に至ります。
初代光るキーボードPSR-J20C(1999年)
急速に成長するインド市場
2000年以降中国と同様に急速な経済成長を遂げてきたインドにおいても、ヤマハはポータブルキーボードを精力的に投入しています。インドには『シタール』をはじめ、『タブラ』や『ヴィーナ』など独自の楽器があり、それらの音をいかに再現するかがキーボードの開発ポイントとなります。インド専用モデルとして最初に投入されたのは2007年発売の「PSR-I425」で、インド独自の民族楽器音を多数収録したほか、スタイルについても「INDIAN」カテゴリーのスタイルを12種類搭載するなど、インドの音楽を再現するコンテンツを収録しています。
PSR-I425
2008年にはインド国内にヤマハミュージックインディアという販売会社を設立し、インド市場におけるポータブルキーボードの販売を加速させていきます。その後、2012年には「PSR-I455」を発売するのですが、このモデルではインドモデルとしての大きな進化を遂げます。
インドの民族楽器は一般的な旋律を奏でる楽器と異なり、独特な役割を持つ楽器があります。そのひとつが『タンプーラ』で、この楽器は4本(さらに多い場合もあり)の開放弦をひたすら鳴らすだけで背景音を奏でるものです。このサウンドが蜂の羽音に似ているところからドローン(雄の蜂を意味する英語)サウンドなどとも呼ばれています。また、このタンプーラとともにタブラのサウンドを鳴らし続けると、インド音楽特有の世界観を演出することができます。そこで、「PSR-I455」にはTABLA/TANPURA機能というものを搭載し、タブラおよびタンプーラによるループパターンを鍵盤の演奏とは別に奏でることができる機能が搭載されています。
さらに、インド特有の音階(音律)である『ラーガモード』を練習できるラーガプラクティスソングを10曲搭載。ビラーワル、カーマージ、バイラブ、カリヤン、アサヴァリ、カリャニ、ハムサドヴァニ、モハナム、ヒンドゥラム、サンカラバラナムといったスケールを学習することができるようになっています。
2019年には「PSR-I500/PSR-I400」を発売。同年に稼働を始めたインドチェンナイ工場での生産モデルとなり、名実共にMade in Indiaのポータブルキーボードとして普及します。「PSR-I500/PSR-I400」には、新たにRiyaz(リヤズ)機能が搭載されています。Riyazとは「練習」という意味を持ち、タブラ/ムリダンガム、タンプーラの伴奏に合わせて練習を楽しむことができるようになっています。さらに、インド楽器やインド音楽の特徴を引き立てるマスターEQ「India」を装備している点もポイントです。
2023年にはより多くの人にインド音楽を楽しんでいただけるようエントリーモデルの「PSR-I300」を発表し現在に至ります。近年、インド楽器のサウンドを取り入れたEDMミュージックなどが広がりを見せるなど、インド音楽をルーツとしたサウンドをさまざまな国で耳にするようになりました。インド映画なども世界的に話題になるなど、インドのエンターテイメント市場は盛り上がりを見せており、インド国内でも音楽イベントの開催数が急速に伸びるなど、演奏の機会、および演奏者の数も増加傾向にあります。そんな中でインドモデルのポータブルキーボードは、自国の音楽から海外の音楽までを自在に演奏できるツールとして、これらの演奏需要を支える大きな役割を果たしているといえます。
世界中にひろがるポータブルキーボードの輪
ヤマハのポータブルキーボードは、これまで紹介してきた中東、中国、日本、インド以外の地域にも各地域にマッチした専用モデルを投入しています。
1998年に発売された「PSR-B50/B20」はブラジル市場向けに投入された製品で、「PSR-B50」はPSR-530ベース、「PSR-B20」はPSR-195ベースで造られています。同年に発売された中国向けモデルの「PSR-288」と同様にパネル面表示をその国の公用語にするという変更が施されており、ポルトガル語での表記が使われています(※一部音楽用語は英語表記)。また、スタイルはブラジルスタイルを強化しており、一般的なサンバ、ボサノバといったリズムスタイルに加え、サンバ・カンサゥン、パゴージ、ボイブンバ、ショッチなど、ベースとなるPSRのモデルには搭載されていないスタイルが組み込まれています。
PSR-B50
また、同じ年にはこちらもPSR-195ベースの「PSR-GR200」というギリシャ市場向けモデルも発売されており、ギリシャ特有のダンスであるチフテテリやバロス、ハサピコといったスタイルを搭載しているほか、ブズーキ、バグラマといったギリシャ特有の楽器音も収録されています。
2006年にはロシア市場向けの「PSR-R200」をリリース。パネル面を全面ロシア語表記にしているのに加え、Y.E.S.(YAMAHA Education Suite)を搭載。音楽教育市場を意識したモデルとなっています。翌年には上位機種の「PSR-R300」(PSR-E313ベース)もリリースされ、このモデルでは2トラックのレコーディング機能が追加されています。「PSR-R300」と同じ「PSR-E313」ベースの「PSR-VN300」というベトナム向けモデルも2007年に発売されました。こちらはパネル表記こそ英語を主体にしていますが、搭載曲のカテゴリー名にベトナム語が記載されていたり、ベトナムの楽曲が搭載されていたりと、ベトナムのユーザーに受け入れられる工夫が施されています。
この時期のPSRシリーズにはすべての地域で「Musicsoft Downloader」というソフトウエアを提供しており、Windows PCを使用して楽曲データをダウンロードしてPSR本体にインストールできる仕様になっています。インターネットがどの国においても同じように普及したことにより、地域独自のコンテンツを提供することが可能となり、結果としてポータブルキーボードの付加価値を押し上げることにつながっていきます。毎年のように生まれてくるヒット曲を「Musicsoft Downloader」で対応するというシステムは、製品のライフタイムサイクルを長くするという意味でも貢献しており、2016年に発売された中東向けモデル「PSR-A350」などは10年近く経った現在でも販売されており、中東地域の音楽教育分野においても重要な役割を果たしています。
文化を創造したポータブルキーボード
このように日本から発信したヤマハのポータブルキーボードは、世界中の地域や人々に愛され、使われてきました。各国の音楽文化に特化したモデルを投入した1980年代後半から1990年代は、どちらかというと初心者向けの楽器や教育目的の楽器という要素が強かったのですが、当時のポータブルキーボードを使用して育った人々が、その国のエンターテイメントを支える立場に成長すると、高音質で多機能なポータブルキーボードを求めるプロフェッショナル層も増えていきます。
こういったプロフェッショナル需要を受け、ヤマハは2002年には中東向けモデルの「PSR-A1000」を発売します。これは前年に発売されている「PSR-1000」にアラビック・スケールを設定できるスケールチューニング機能を搭載したもので、3.5インチのフロッピードライブを装備し、スタイルファイルフォーマット(SFF)への対応、大型ディスプレイによる歌詞の表示機能など、ナイトクラブ等での演奏にも十分に耐えうる仕様になっています。その後、このアラビックモデルのプロフェッショナルラインは、2011年発売の「PSR-A2000」へと進化します。「PSR-A2000」では演奏性の向上を図るためにモジュレーションホールとピッチベンドホイールを一体化したジョイスティックを装備。スケールチューニング用のスケールセッティングボタンもジョイスティックのすぐ上に配置するなど、ステージでの演奏に配慮したモデルになっています。2015年発売の「PSR-A3000」ではカラーディスプレイの導入、任意のオーディオファイルを使ってオリジナル音色を作成することができる「Yamaha Expansion Manager」の導入など、より本格的かつプロフェッショナルな機能を取り入れています。
PSR-A1000
現行機種の「PSR-A5000」(2021年発売)では、中東地域の伝統楽器音を新しくサンプリングし直し、表現力を高めたほか、トルコで有名なストリングセクションである『イスタンブール・ストリングス』のサウンドを収録するなど、音質面を大幅に向上させました。スムーズで表現力の高いポルタメントを実現するクロスフェードポルタメントの追加や、コードシーケンスを記録してループ再生させ、両手演奏を可能にするコードルーパー機能など、より高度な演奏表現ができるようなポータブルキーボードに仕上がっています。
ローカルモデルを投入した当初は、単にその地域の音楽性を再現できるツールとしての役割と言語的なローカライズを行うことを主目的としていましたが、教育分野をはじめその国の音楽文化にポータブルキーボード自体が根付いたことにより、ポータブルキーボード演奏者(電子楽器演奏者)という新たな職業を生み出したことも確かです。また、伝統楽器の音をヘッドフォンで演奏できる点や、個人宅では導入しにくいドラムセットやグランドピアノといった楽器の演奏を簡単に楽しめる点でも、ポータブルキーボードが各地域の音楽人口を増やすきっかけになっているといっても過言ではないでしょう。
しかし、一方で伝統的な楽器を実際に演奏できる演奏者の数は年々減っており、音色として残すことができてもリアルな演奏を保全することは困難になりつつあります。伝統楽器の奏法や各地域の伝統音楽を保存しつつ、新たな音楽を創造するためには、より深く各地域の音楽文化を理解する必要があります。日本の楽器メーカーであるヤマハは、他国の音楽文化への理解を深めるために、現地との協業など、さまざまな取り組みを通じて製品を作り続けることが不可欠といえるでしょう。