ピアニスト南杏佳さんが掛川工場を訪問。開発者と新C3X espressivo/C2X espressivo の魅力を語る
2024年ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリに輝き、国内外のオーケストラとの共演やソロリサイタルで活躍する注目のピアニスト・南杏佳さん。
そんな南さんがヤマハ掛川工場を訪れ、2026年3月に発売された新C3X espressivoとC2X espressivoを試弾。その印象や魅力について、開発を担当した篠原大志さんと語り合いました。
Profile 南 杏佳(みなみ きょうか)
京都市立芸術大学ピアノ専攻を卒業後、ボストン音楽院にて修士課程、Graduate Performance Diploma課程を修了。2024年ピティナ・ピアノコンペティション特級グランプリ・聴衆賞受賞。その他受賞多数。今年5月に完全帰国し、今後の活躍が益々楽しみなピアニスト。
目次
ファースト・インプレッション~初めて弾いた感じがしない
「運命の人って、なぜか懐かしい感じがしますよね。初めて会った気がしないというか」 南さんは、新しいespressivoとの出会いをそんな言葉で表現しました。
ピアニストにとって、初めて触れるピアノに素早く順応することは大きな課題。だからこそ、一音目には常に緊張や不安が伴います。しかし、espressivoに触れた瞬間、その感覚は不思議なほどなかったといいます。
「弾いた瞬間に、自分の世界へすっと入れました。音色の選択肢がたくさんあるのに迷うことなく、自分が思い描く表現にスムーズにたどり着ける。安心できるピアノだと感じました」
包み込まれるような響き
南さんがとくに印象的だったと語るのが、音の広がり方です。
「私のなかではピアノの響きは縦方向に積み重なり、それを前方へ飛ばしていくイメージです。でも、espressivoは横方向へ豊かに広がる響き。低中音から高音域までが自然に溶け合い、その響きに包み込まれるような感覚がありました」
その言葉を聞きながら、開発を担当した篠原さんは笑顔を見せました。
「espressivo」とは、「表情豊かに」という意。その名のとおり豊かな表現力を追求したピアノですが、南さんが抱いた感覚こそ、彼が重視した点のひとつだったからです。
「密度感のある豊かな中低音と、その中でも埋もれず抜けの良さがあるメロディー域。それらが美しく混ざり合うことで、演奏者が自在に音色を選べるよう工夫して設計しました」
新espressivoには、2022年発売のコンサートグランドピアノCFXの開発で培われたノウハウも投入されています。響板設計や響きづくりに受け継がれたCFXのDNAが、サイズを超えた豊かな広がりを生み出しているのです。
音域を超えてつながる音色
さらに南さんが感じたのは、低音から高音までの自然な一体感でした。
「どの音域も音質のバランスが良くて、弦楽器のような柔らかさがあります。音域によって弾き方を変えなければならないという違和感がなく、自然体で向き合えるのです」
ホールのフルコンサートグランドピアノでは、低音が強く響きすぎたり、その響きの反射が遅かったりするため、高度なコントロールが求められます。
「音質は統一したいのに、タッチは変えなければならないということがあります。でも、このピアノはそうした無理を感じません。環境が変わっても同じ服を着て歩けるような安心感がありますね」
篠原さんも、音域ごとの個性と全体の統一感を両立することを重視したと語ります。
「低音、中音、高音それぞれに役割がありますが、別々の楽器のようにはしたくなかった。さらに、ピアノはそれぞれ個性があるため、最終工程では整音者が一台ずつ丁寧に調整して全体のバランスを整えています」
タッチとレスポンス~指先のニュアンスに忠実に応える
演奏家にとって、わずかなニュアンスを音に変えられるかどうかは極めて重要です。 南さんがとくに惹かれたのは、音の終わり方でした。
「私はよく“句読点”と表現するのですが、音の最後を締める部分が雑に終わらず、温かい弦楽器のような響きが残ります。鍵盤を押す瞬間だけでなく、指を離すところまで応えてくれるので、こちらももっと丁寧に表現したくなります」
その背景には、徹底的に磨き上げられたアクション機構がありました。
「打鍵時に発生するわずかな摩擦を見直し、部品の形状や素材を改良しました。さらにハンマーや響板についても、タッチの差に反応できる多彩なパレットを用意したいと考えて設計しました」と篠原さん。
さらに南さんは、アーティキュレーションのつけやすさにも驚いたといいます。
「スタッカートひとつ取っても、バロックとロマン派では全く違います。その微妙な違いまで表現しようとしたときに、きちんと応えてくれる。だから時代や作品ごとの表現を深く掘り下げられます。こういったことは自分ひとりで練習しているときにはとくに重要で、音質や音色の引き出しを自分の耳で持つことにつながります」
こうした「タッチによる表現の引き出しの多さ」は、篠原さんが注力したハンマー設計の成果そのもの。
「フェルト素材を厳選し、その特性を最大限に活かせるよう徹底的に検討しました。演奏者がタッチによって音色を選び、作り出せることを大切にしました」
演奏者目線から生まれた譜面台
新espressivoのこだわりは、細部にまで宿っています。
南さんが高く評価したのが、新設計の譜面台。一般的に譜面台を立てると音の抜け方や聴こえ方が変化します。しかしespressivoでは開口部を設けることで、譜面を置きながらも自然な響きを確保しました。
「室内楽などで周囲の音を聴きながら演奏するとき、この違いは本当に大きいですね」
機能性と美しさを両立したこのデザインは、ヤマハのデザイン部門と協力して検討したものだそう。
「実はこの開口部の仕上げはとても難しく、現場の職人たちが何度も試行錯誤を重ねました」
篠原さんが、そんな誕生秘話を教えてくれました。
C3X espressivo、C2X espressivoそれぞれの個性
186cmのC3X espressivoと、ひと回り小さい173cmのC2X espressivo。南さんは以前、ラフマニノフ《パガニーニの主題による狂詩曲》の本番を控えた時期にも両モデルを弾き比べています。
「C2X espressivoは細かなアイデアをくれて、C3X espressivoではそこからさらに深掘りして色をつけていく作業をしました。すると、それまで見えていなかった表現に出会えたのです」
気づけば、試弾は1時間を超えていたそう。
「それぞれ異なる面で、いろいろな研究ができるピアノだと思います。たとえば、C2X espressivoではアーティキュレーションや指先の細かい変化を練習し、C3X espressivoは音質を掘り下げて研究したいですね」
良いピアノが育てる指と耳の連携
4歳からピアノを続けてきた南さんは、自身が恵まれた環境で育ったと振り返ります。グランドピアノがあったので、大人になるまで、アップライトピアノに触れたことはありませんでした。
「母は、幼いころから“耳の引き出し”を増やすことが大切だと考えていました。こう弾けばこう鳴る。その関係が腑に落ちると、その音を再現できるようになります」
だからこそ、子どものころから良いピアノに触れる意味は大きいと語ります。
「大切なのは、強弱といった音量の違いだけでなく、音色や響きの違いを耳で感じること。指と耳を連携させることです。espressivoは、こう弾いたらこう鳴るということをとても正直に返してくれる。学びのためにも理想的なピアノだと思います」
音を生み出す人たちへの敬意
この日、南さんはグランドピアノ製造工程の見学もしました。
曲練支柱製作や支柱の組み立て、アクションの取り付けやシーズニング、そして整音。espressivoではピアノに命を授けるといわれる整音に多くの時間が費やされていて、この作業ができるのは選ばれた数名のみです。
「ほんの少しの調整で音が大きく変わることに驚きました。それを耳で聴き分けながら仕上げていく職人技は本当にすごい。espressivoの響きは、こうした工程によって生まれているのですね」
木という生きた素材を扱うことから、職人たちによる手作業が多いことも心に残ったそう。
「音楽もまた、“生もの”の時間芸術です。木を使った繊細なピアノだからこそ、私たちの音楽も繊細でなければいけない。演奏家として、ハッとさせられました」
気づきを与えてくれるピアノ
南さんは、父親の仕事の関係で幼少期をアメリカで過ごしました。
「日本語もままならない状態でアメリカに行き、第一言語は英語。小学4年生で日本に帰って来たのですが、日本語も下手で言語化するのが苦手でした。そんなとき、自分の思いを素直に表現できたのはピアノ。私にとってのコミュニケーション手段でした」
だからこそ、良いピアノとは、自分の表現を邪魔しないピアノだといいます。
「無理にコントロールしなくても、自分の思いを自然に音にできるピアノ。それが私にとって理想のピアノです」
espressivoは、まさに演奏者が楽器を無理にコントロールしようとしなくても、自分の表現に集中できるピアノだと話します。
「ピアノの良さを引き出すのはもちろんピアニストです。でも楽器にも、演奏者の意図に応えてほしい。このピアノは表現を引き出し、互いに高め合える存在だと思います」
このピアノをひと言で表すなら——。少し考えたあと、南さんはこう答えました。
「気づきを与えてくれるピアノ、でしょうか」
表現したいことを音にしてくれるだけでなく、自分でも気づいていなかった可能性まで見せてくれるピアノです。
一方、篠原さんはこのピアノに込めた思いをこう語ります。
「表現力を徹底的に深掘りし、その実現のためにこだわりを詰め込んだピアノです」
設計者だけでなく、職人、製造スタッフ、整音者。多くの人が同じ思いを共有しながら、作り上げました。
立場はまったく異なるふたりですが、見ている景色は同じでした。演奏者がピアノに合わせるのではなく、ピアノが演奏者の思いに寄り添い、ときには新たな発見へと導いてくれる。開発者が追い求めた理想とそれを音として実感した演奏者の感覚が重なるC3X espressivoとC2X espressivo。演奏者が思い描く楽をより自由に、より豊かに表現できることが大きな魅力です。
取材・文/福田素子
撮影/武藤 章