松田有季乃(まつだ・ゆきの)
エレクトーン文化を活性化させたいと仲間たちと立ち上げた自主公演「Electonism」シリーズでも注目を集める若手演奏家・松田有季乃さん。若手ならではの熱い思いと活動に、期待が高まります。
—エレクトーンとの出会いは?
出身は盛岡なのですが、父の仕事の都合で転勤が多く、子どもに音楽をさせたいと考えていた母は、どこへ行っても続けられるヤマハ音楽教室を選んでくれ、二戸にいた2歳のころ、ひとつ上のクラスに入れることになって、通いはじめました。すごく活発な子だったらしいです。その後、引越しの度に教室は何度も変わりましたが、小学校4年生から八戸店のセンターに行くようになりました。住んでいた十和田市にジュニア専門コースがなくて、1時間以上かけて通いました。八戸店はエレクトーンに熱心でした。市川侑乃さんも在籍していて、小学生時代からの憧れの先輩です。
—レッスンが楽しかったのですね。
友達と会って、グループレッスンするのが楽しかったですし、ディズニーの曲が大好きで、ただただ楽しく弾いていました。毎年、グレード試験でレベルアップして行く実感もあって、できることが増えていくのがうれしかったです。
—エレクトーンの演奏家になりたいと思ったのは?
小学校の授業で『将来の自分史』を書いたときに、「エレクトーンで演奏している」と書いていました。小学校5年生のコンクールで「禿山の一夜」を選んだのはディズニー映画『ファンタジア』の影響です。初めて「頑張ってアレンジしてみようか」と先生に言ってもらいました。オーケストラスコアを見るのも初めてで、普段見ている楽譜とは違い、ひとりひとり頑張って集まってオーケストラができているんだと実感がありました。そのコンクールの店大会で金賞をいただき、内海源太先生に就くことになりました。6年生のコンクールでは、ラヴェルの歌劇『子供と魔法』の複雑な和声に挑戦、中学生になると調性のあまり感じられないような曲を書いてみよう、と自作曲を作りはじめました。高校は寮のある聖ウルスラ学園高校音楽科、大学は国立音楽大学に進学。大学4年生になって、「演奏をしていこう」と心を決めました。
—初めてのお仕事は?
卒業して初めての仕事はマスネ作曲のオペラ『シンデレラ』でした。エレクトーン2台で、2時間、スコアを見ながら演奏するのも初めての経験で、とにかく必死でした。大道具など大勢のスタッフのいるオペラの舞台は、大変でしたが、うれしい気持ちもありました。その後、オーケストラの一員として打楽器やチェレスタ、オルガンを担当するなど、いろいろな経験を積んでいるところです。オーケストラの中の演奏では、エレクトーンは音によって発音のタイミングが違うので、指揮者の先生や周りのオケの方に音を出すタイミングが違う、と何度も檄を飛ばされ、貴重な経験もできました。高校の友人のピアニストに頼まれ、ふたりでピアノコンチェルトのコンサートを地元で開催、お世話になった方たちの前で演奏したのは感慨深かったです。オーケストラと演奏するコンチェルトとは違い、エレクトーンとはデュオ的な側面があり、新しいアプローチだと思います。今後もいろいろなソリストと協奏曲をやっていきたいです。
—2015年から、自主コンサート「Electonism」を行い、注目を集めています。
国立音楽大学の同期は、コンクールでも活躍するメンバーも多く活発な学年で、最初は同期で自主公演をやろう、と考えて始めました。ただし、みんなが弾きたい曲を集めて行うのなら、卒業コンサートと変わらない。お金をいただいてコンサートするからには、毎回、目的を持ってやったほうが見ている方たちも楽しい、と第1回目は「バレエ」をテーマにしました。みんな忙しいので、夜中にSkypeで会議してプログラムなどを決めています。2回目は「フィギュアスケート」、3回目は「日本文学」といったふうに、毎回のテーマによって演奏メンバーも変わり、ほかの大学出身の腕の確かなメンバーも加わって続けています。普段は演奏の機会のないメンバーが演奏するために帰ってこられる場でもあるのですが、エレクトーン文化を活性化していきたい、という思いが一番です。活性化は、若い人たちがやらなければ、と思ったときに、「若い人たちって自分たちなんじゃないか」と気づいて、やっていこうと。
—新しい風を起こしていってください! 最後に、松田さんにとってエレクトーンとは?
言葉ではあまり上手に伝えられない自分の思いを、思ったままストレートに表現できるツールがエレクトーンだと思っています。演奏をとおして、私自身が一体化して見えたらいいな、と。エレクトーンがないのは考えられないくらいの存在です。