ブゾーニ国際ピアノ・コンクールとエリーザベト王妃国際コンクールの両方で第2位に輝き、日本を代表するヴィルトゥオーゾ・ピアニストとして活躍を続けている若林顕さん。3年間で3回にわたる新しいリサイタル・シリーズ「魔弾のピアニスト」が、2023年5月20日東京芸術劇場より幕を開けた。
2023年5月20日(東京芸術劇場コンサートホール)
■プログラム
メトネル:忘れられたメロディ第1集Op.38~回想ソナタOp.38-1
ラフマニノフ:ピアノ・ソナタ第1番ニ短調Op.28
ドビュッシー:映像第2集
ショパン:バラード第4番ヘ短調Op.52
ストラヴィンスキー:ペトルーシュカからの3楽章
■アンコール
ラフマニノフ:前奏曲第5番ト長調Op,32-5
ショパン:エチュード第12番Op.10-12「革命」
シューマン/リスト:献呈
マンシーニ/服部隆之:ムーンリバー
ヴィルトゥオーゾ・タイプのピアニストとして知られる若林さんだが、テクニックをひけらかすようなことは決してない。すべてのテクニックが豊かな音楽表現と結びついているところが最大の魅力だ。2022年の「ヤマハNew CFX コンサートツアー2022」では、若林さんとCFXとの出会いが奇跡だと思えるほどの、素晴らしい演奏を聴かせてくれていた。
今回から始まる3回のシリーズは、ピアニストとしての技量の真価が問われるような作品を並べた、意欲的な企画だ。その第1回公演は、若林さんが「弾くたびに、その可能性の豊かさを感じる」と語るCFXとともに舞台に上がった。
演奏は、近年ロシアやヨーロッパでの再評価が進んでいるメトネル作品から始まった。彼の代表作のひとつである「回想ソナタ」は、優しく透明な音色で弾き始められた。メロディ・ラインを強調しながら内声部の動きにも注意が払われた、繊細な演奏。作品の構成をしっかりと把握した上での表現に、大きな説得力があった。
2曲目はメトネルのメランコリックな作風と通じる、ラフマニノフ「ピアノ・ソナタ第1番」。深いメランコリーと激情の爆発が交錯する大きな作品だ。作曲された当時は「冗長だ」と批判され、作曲者自身による短縮版も作られたが、若林さんほどの弾き手にかかると、規模の大きさは聴きごたえの大きさとなる。
第1楽章から、ピアノという楽器の表現力の多彩さと豊かな響きに包まれた。若林さんは、楽譜の音数がどんなに増えようとも、透明感のある響きを失わない。
第2楽章はみずみずしい音色で、メロディを優しく歌っていく。長く続くアルペッジョの動きに、作曲者の心の動も聴き取れるかのようだった。
第3楽章では、多様なフレーズを多彩に表現していくことで、音楽を積み上げていく。そのさまざまな印象が積み重なり、最終的に聴き手の心を熱くさせた。
演奏後には会場から、思わずもれたというような「おう」という掛け声。ピアノ音楽のだいご味を味わった演奏だった。
後半はドビュッシー「映像第2集」の3曲でスタート。前半のロシア作品とはまったく異なるタッチと音色で始まった。ずっと軽くさらに透明な響きにもかかわらず、ピアノ全体が十分に鳴っている。
第1曲「葉ずえを渡る鐘の音」は、印象主義音楽らしい霞がかった響きを持ちながら、音の粒が立ち上がっていた。
第2曲「そして月は荒れた寺に落ちる」は、ドビュッシー独特の「音のレース」と呼ばれる作曲技法を生かしながら、終始、温かみのある音色を奏でていた。
第3曲「金色の魚」は、ドビュッシーの頭の中で泳ぎ回る金魚を連想させるような、血の通った演奏。
3曲ともに、大きな会場に溶け込んでいくような響きを作っていた。
次は趣を変えてショパン「バラード第4番」。前の作品とさらに異なる音色が、ショパンの世界へ引き込んでいく。4曲あるショパンのバラードは、彼と同郷のポーランドの詩人ミキエヴィッチの物語詩にインスパイアされて書かれた、と言われている。単調なリズムに乗って豊かに変化するメロディが特徴で、「ピアノ文学の傑作」とも評価される、ピアノで物語を語るような作品だ。若林さんはその趣旨をくみ取り、揺らぎや間を絶妙に作りながらメロディを歌い上げていった。
最後は、ストラヴィンスキー「《ペトルーシュカ》からの3楽章」。もとはバレエ作品で、魂が吹き込まれた3体の人形の物語。そこから抜粋し、作曲者自らピアノに編曲した作品だ。
第1曲「ロシアの舞曲」の冒頭、舞曲のテーマがフォルティシモで鮮やかに演奏されると、悲劇へと突き進む物語の世界が広がった。
主人公ペトルーシュカが部屋に投げ込まれる、荒々しい描写で始まる第2曲「ペトルーシュカの部屋」は、その後の主人公の失恋や葛藤が描かれた内容。若林さんは、そんな心のドラマまでも表現していた。
悲劇へと突き進む第3曲「謝肉祭の日」では、明と暗を鮮やかに描き分けて、ドラマティックに展開していった。
こうした多彩な音色による豊かな音楽表現は、若林さんが心から信頼し、そうした意味で彼の「盟友」ともいえるヤマハCFXが大きな力となっていたことは間違いない。思う存分をすべて表現し、その先の、さらに豊かな表現を両者で紡いでいるかのように思えた。
アンコールも充実。ラフマニノフ「前奏曲第5番」は前半のプログラムを追想するかのように優しい表情。ショパン「革命」では、圧倒的なピアニズムを披露。そして、温かい表情をたたえたシューマン/リスト「献呈」で締めくくられるかと思いきや、映画音楽でスタンダード・ナンバーでもある「ムーンリバー」を。選曲のセンスの良さと、緩急自在の絶妙な歌心に、思わずうならされた。
終演後、盛大な拍手とともに、会場のあちらこちらから「いいピアノを聴いた」という声が聞かれたことを、特筆したい。
Text by 堀江昭朗