この記事は2009年4月13日に掲載しております。
2008年10月にスタートしたジョン・マクラフリンとチック・コリアの夢の競演“ファイヴ・ピース・バンド”がヨーロッパ・ツアーを大成功におさめ、2009年2月にいよいよ東京に上陸しました。多くの日本のファンを魅了し続けるその秘密に迫ります。
- pianist
チック・コリア - 1941年マサチューセッツ州チェルシーで生まれる。ジャズ・トランペッターの父親から影響を受けピアノを習い始める。1960年代にモンゴ・サンタマリア楽団、ハービー、マン、スタン・ゲッツのグループに参加。そして1968年にマイルス・デイビスの記念碑作品「イン・ア・サイレント・ウェイ」「ビッチェズ・ブリュー」に参加して話題を集める。1970年にアンソニー・ブラクストンとサークルを結成。そしてそして1972年、名グループ、リターン・トゥ・フォーエヴァーを結成、驚異的セールスを記録。1970年後半にはハービー・ハンコック、ゲイリー・バートンとのアコースティックな音楽への追求を見せる。1980年代に入るとクラシック音楽、ニュー・ビバップ論の展開など幅広い活動を続ける。1985年にGRPレコードと契約し、チック自身の名グループ、リターン・トゥ・フォーエヴァーを超えたと言わしめた最強グループ、 "チック・コリア・エレクトリック・バンド" を結成。さらに、メンバーにジョン・パティトゥッチ(b)、デイブ・ウェックル(ds)、とチック・コリア・エレクトリック・バンドを結成。2つのグループで活動を展開。そして1992年には念願の自己レーベル "ストレッチ・レコード" を設立。
「チック・コリア」オフィシャルサイト(ユニバーサルミュージック)
※上記は2009年4月13日に掲載した情報です。
―― 今回はファイヴ・ピース・バンドでの来日ですが、メンバーのジョン・マクラフリン(ギター)とは、1970年前後のマイルス・デイヴィス・グループ以来、久しぶりに同じバンドでの活動ということになりますね。
そうだね。ジョンのことは昔からものすごく尊敬していたから、いつかは彼と一緒にじっくりと音楽をやりたいと思っていたんだ。ところが、彼と顔を合わせる機会といえば、お互いのツアー先で一緒になった時ぐらいのものだったし、会ったとしても軽くあいさつを交わす程度だった。でも、生きているうちに彼と一緒に充実した時を過ごすのは良いことだと思っていたし、そのための一番良い方法はもちろん、一緒に音楽をやることだから(笑)、自分のスケジュールが空く頃を見計らって、クリスチャン・マクブライド(b)やヴィニー・カリウタ(dr)、ケニー・ギャレット(as)と一緒にバンドを組んでツアーをするという、ここ何年か温めていたプロジェクトのことを彼に打診してみたんだ。そうしたら、彼もそのアイディアを気に入ってくれて、実現の方法や時期について話し合いを始めた。それからは順調に事が運んで、めでたくこのバンドが実現したというわけさ。
―― このバンドでツアーするにあたって、あなたは新たに3曲書き下ろしていますが、曲はどのようなコンセプトで書いたのでしょうか。
実際には3曲書いて1曲アレンジしたんだけれど、新曲を書いたのは最初のリハーサルの1カ月ぐらい前だった。リハーサルが近付いていたし、たまたま家で過ごす時間があったから、新しいアイディアを盛り込む良い機会だと思って書いたんだ。
―― 40年近くもの間に何度も来日なさっていますが、日本の印象は変わりましたか。
時が経つにつれていろいろなことが変化したという意味では、日本も他の国と変わらないだろうけれど、日本は世界のどの国よりも高い生活水準を維持していると思う。もしもどこかの世界機関が、“最高生活水準維持”部門のグラミー賞のようなものを作ったとしたら、日本はその部門で功労賞を受ける権利があるだろうね(笑)。だからこそ、私も日本に来るのをいつも楽しみにしているんだ。もちろん、日本も他の国と同じようにいろいろな問題を抱えているとは思うけれど、精神面や倫理面である一定の価値観を維持しているから、これだけ高い生活水準も保つことができるんじゃないかな。それに、日本ではもともと芸術や音楽が大切にされていて、歴史的に見ても日本は世界でいちばん熱心なジャズ・ファンのいる国のひとつでもあるし、日本の専門家はジャズの歴史やレコーディングについてとても深く研究している。おかげで、私も故郷に帰るような気持ちで日本に来られるんだ。これはとても嬉しいことだよね。
―― 去年武道館で行われた上原ひろみとのデュオ・コンサートは、それまでジャズに縁のなかった日本の音楽ファンにも強い印象を与えたと思いますが、ジャズのファン層を広げるために、あなたはどんな工夫をなさっていますか。
良い質問だね。それはアーティストである私にとっても、人生で最も重要な課題なんだ。ピアノに向かったり何か新しいことを考えたりする時、私はいつもそのための方法を考えている。人間の心の中には、その人の文化的な背景や受けた教育の種類に関わらず、持って生れた美意識というものがあると思うんだ。人間が生きていく上で、「楽しむ」というのはいちばん大切なことのひとつだけれど、「美意識」という言葉を辞書で調べると、いろいろな説明がある中で、いちばん単純明快な定義は「楽しさを感じるもの」とある。つまり、「楽しさを感じさせるもの」という意味で、音楽というのは人間にとって自然なものなんだ。もちろん、好みの音楽の種類やスタイルは人それぞれだから、私は様々な好みを持つ人たちとコミュニケーションを取るために、ありとあらゆる種類の音楽や、コミュニケーション能力に優れたミュージシャンについて研究しているよ。60年代の頃、私は難解なジャズとクラシック以外の音楽に興味がなかった。でも、70年代になって出会ったスティーヴィー・ワンダーとジョニ・ミッチェルの音楽が、私の視野を広げてくれたんだ。
―― あなたの音楽はどちらかと言うと、リズム、メロディー、ハーモニーのあらゆる点で複雑なものが多いと思うのですが、そうであるにもかわらず、あなたは音楽の楽しさを人々に伝えることに成功しているのはなぜだと思いますか。
たしかに、私の音楽はある意味で複雑な部分が多いかもしれない。でも、私のプロジェクトは多岐にわたっていて、複雑な音楽しかやっていないわけじゃない。ボビー・マクファーリン(vo)やゲイリー・バートン(vib)との音楽や、先日ワイフのゲイル(・モラン:vo)が大好きだと言ってくれた「マイ・スパニッシュ・ハート」のメロディーみたいに、明快なものもあるからね。つまり、私はトリオやソロ、譜面で書いた音楽やインプロヴィゼーションという具合に手を変え品を変えて、ファンや私自身の興味を持続させる工夫をしているんだ。私はビル・エヴァンスやキース・ジャレット(共にp)のように、特定の表現方法に集中するタイプじゃない。彼らの音楽は非常に深いものだし、とても美しいし、彼らには自分の表現を深く追求するという確固たる哲学がある。でも、私はそうじゃなくて、常に新しい編成や表現方法を追求しているんだ。フリー・ジャズから私のいたクインテット、メロディーの美しいオーケストレーションが印象的なギル・エヴァンス(arr)とのプロジェクトまで、幅広い可能性を追求したマイルス・デイヴィスと同じだよ。
―― ところで、あなたは子供の頃、どんなふうにピアノを学んだのでしょうか。
私の最初の先生は、トランペット・プレイヤーの父だった。彼は私が5歳の頃から、譜面の読み方を教えてくれたり、演奏仲間と一緒にジャズの楽しさやスタンダード曲を教えてくれたりしたんだ。そして、8歳からサルヴァトール・スロという先生にクラシックのピアノを習い始めた。スカルラッティが得意で、ボストン・ポップスと毎年共演していた素晴らしいピアニストでね。断続的ではあったけれど、17歳ぐらいまで習ったんだ。ジュリアード音楽院を受験する時にも、準備を手伝ってもらったよ。ピアノは難しい楽器だと思っている人が多いけれど、気軽に触って遊べばいいんだ。6年前、生後半年の初孫に初めて会った時、私は彼を膝の上に乗せてピアノに向かわせてみたんだ。私がポンと1音鳴らしてみせると、彼はすぐに真似をしてポンと音を出した。違う音をポンと鳴らすと、彼も違う音を鳴らした。それが最初のレッスンで(笑)、1分もしないうちに、彼は両手で鍵盤を何度も叩きはじめたんだ。みんなもそういう感覚でやってみればいいんだよ。
※上記は2009年4月13日に掲載した情報です。