ピアニスト:仲道郁代  - 自然のなかにある音が身体の細胞を通り抜けていくような感覚。そんな音の在り方がドビュッシーの世界なのだと思います。~仲道郁代インタビュー この記事は2021年6月4日に掲載しております。

仲道郁代は、アルバム「ドビュッシーが見たもの」をリリースする。これは、2020年10月に東京文化会館で開催したリサイタル「The Road to 2027 」の秋のシリーズのライヴ録音である。

Profile

新たな境地へ──。オール・ドビュッシー・プログラム&ソロ・リサイタルの初ライヴ録音

 ベートーヴェン没後200年と自身の演奏活動40年目に向け、仲道は2018年から「The Road to 2027 リサイタル・シリーズ」に取り組んでいる。春と秋にリサイタルを開催し、春のシリーズではライフワークのひとつであるベートーヴェンのピアノ・ソナタを軸とし、秋のシリーズでは新たなピアニズムに挑む。
 2020年秋にはオール・ドビュッシー・プログラムを披露。オール・ドビュッシーはほぼ20年ぶりで、そのリサイタルはライヴ録音された。
「ホール・トーンをなるべく避け、ピアノ本体の響きをより近く録る手法で録音しました。すると、ppからpまでピアノのさまざまなタッチを工夫したことが、マイクによく入りました。ppのなかでハンマーが弦にあたるとき、シュっと弱い力であたる最後の瞬間までのアクションの揃え方が素晴らしく、ピアノのさまざまな打鍵の違いを十分に表現できました。通常、マイクを楽器に近づけるとダンパーのノイズなども入ることが多いですが、当日使用したヤマハCFXにはそれがほとんどありませんでした。何という調整と楽器の状態のすばらしさ! 驚きました」

 仲道にとって、初となるソロ・リサイタルのライヴ録音である。
「出来上がったものを聴いて嬉しく感じたのは、聴いてくださる方のいるところで弾いている音が収録されたからなのだと思いました。コロナ禍でコンサートがなかった時期、私にとってのコンサートの意味を嫌が応にも突き付けられました。音のなかに何かを見出そうと聴いてくださるお客さまに対して、私は私の音を奏でる。その相互作用が私にとっての音楽の根本なのです。その環境で録音できたことは、喜びです」

ドビュッシーのミクロな世界も描き出すヤマハCFX

 仲道は、「ドビュッシーを演奏していると、ピアノという楽器から魔法で今までなかったものを空中に浮かび上がらせているような気がしてくるのです。マジカルな感覚を持ちます」と語る。
「その感覚を持つためには、細かにコントロールできる楽器が必要です。ドビュッシーを弾くときにはミクロのコントロールが必須。CFXは音の切れもよく、アクションの性能がかなり良いので、ミクロのコントロールが自在にできました」

 ドビュッシーの音楽と言えば、ヴェールに包まれたような柔らかな響きをイメージする人も多いだろう。仲道のドビュッシー演奏には、曖昧さやぼやけた感じはなく、響きもクリアーに伝わってくる。
「ドビュッシーの音楽は決して曖昧ではなく、一つひとつの音はとても明確だと思います。彼は音がどのように発せられるかにとてもこだわって書いているので、それを実現すると得も言われぬ空気感が生まれます。これまで弾き続けているベートーヴェンとは違う感覚で、感覚の世界で音を捉えるということが面白かった」

ドライでセッコで……気配を描く作曲家ドビュッシー

 仲道が《前奏曲 第1巻》を初めて弾いたのは、アメリカで過ごした中学時代だ。
「アメリカの先生に最初に学んだ作品です。6曲くらいかな。面白いな!と思いました。それまでは、ドビュッシーの音楽に対してきれいにペダルがかかったふわりとしたイメージを持っていました。でも、もっとドライでセッコな音楽であり、『言葉をしゃべるような音楽なのだ』ということはアメリカで学びました。印象派の絵画を近くで見ると、筆のタッチが点だったり線だったりぐっと立っていたりします。ルノアールが描く女性の肌は、赤青黄白など原色的な筆遣いで描くことによって、遠くから見るとあの滑らかなあたかも生きている人の肌のようになる。そのような印象派の絵画の手法とドビュッシーの音楽には通じるものがあると思います。ドビュッシーの作品には細部にわたってさまざまなタッチの在り方が明確に書かれています。実際に弾く音には曖昧な音は使われていなくて、むしろ原色です。さまざまなアーティキュレーションやペダルを駆使し、ピアノという楽器をどのように扱うかによって、無限大の色の可能性が生み出されるのです」

 ドビュッシーの音楽には主語がない、と仲道は言う。
「例えばわかりやすくいうと、ベートーヴェンは『我々はこう生きるのだ』という主語が、ショパンは『私は辛い、悲しい』という主語が、シューマンは『私は愛を求める』という主語が感じられますね。でもドビュッシーは、「私」も「我々」もありません。主語というものが音楽の外に出てしまっていて、自然やその情景をあるがままに表現しています。ドビュッシー研究家の松橋麻利先生が、「気配を描く初めての作曲家」とおっしゃっていましたが、とても共感しています。

 ドビュッシーの作品には、自然にちなんだタイトルが多い。例えば『西風の見たもの』について、
「偏西風の荒々しい海の上の嵐などを、フランスでは古くから「西風」という言葉で言い表しました。ドビュッシーはその西風を音にしました。ドビュッシーは、西風を描くことだけで、その西風に吹かれている「私」がそこにいなくても、私たちの心に何か『わかる!』という共感を生むことができる人なのです」

 アルバムのジャケット写真は、海辺で撮影したそうだ。
「ホールというのは閉じた空間に音があるもので、それは楽器から出てきてみなさんに届きます。撮影当日は外にピアノを運び出し、朝焼けと夕焼けの頃に、海風や波、陽光の煌めきを感じるなかでピアノを弾きました。すると、自然のなかにある音が身体の細胞を通り抜けていくような感覚があったのです。そんな音の在り方が、ドビュッシーの世界なのだと思います」

Textby 道下京子

※上記は2021年6月4日に掲載した情報です。