ピアニスト:イリヤ・イーティン  - コンサートの時間が、身の回りのたくさんの美について思い出すことのきっかけになれば嬉しい ~イリヤ・イーティンさんインタビュー この記事は2020年11月24日に掲載しております。

モスクワ音楽院で学び、リーズ国際ピアノコンクール優勝などをきっかけに国際的な活動をスタートした、イリヤ・イーティンさん。2020年12月23日に東京文化会館で行われるリサイタルのプログラムは、オール・ショパン。演奏曲目や、久しぶりにステージに立つ意気込みについて、お話を伺った。

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ショパンはより大きな現実を見せてくれる

 コロナ禍をアメリカで過ごしていたイーティンさんにとって、今度の東京でのリサイタルは、久しぶりの舞台となる。今、オール・ショパン・プログラムを届けることに、どんな思いがあるのだろうか。

「今、多くの人が孤独や絶望を感じているはずですが、そんなときでも音楽はいつもそこにあり、我々に何かを与えてくれます。特にショパンの音楽は、私たちに広い視野で見ることの大切さを思い出させるのです。人は多くの場合、目の前の経験の中に閉じ込めてものごとを捉えがちですが、もっと大きな現実を見たほうがいい」

 プログラムはノクターン〈遺作〉に始まり、後期のワルツ作品、バラード第3番へと続く。
「私は、作曲家が曲をつくるときに近い感覚でプログラムを組み立てます。始めに起点Aとなる曲を置き、そこから幸せや悲しみなどあらゆる感情を経験して、終着点Zにたどり着く。まるで人生のサイクルのようです。

 ショパンは後期作品で、ミステリアスな未知の場所にたどり着きました。比類のない美、深み、複雑さと洗練、そして、我々の理解を超えた何かがそこにあります。その探究は、いくら続けても飽きません。この旅を聴衆の皆さんと分かち合うことは、大きな喜びです」
 オール・ショパンによる人生の旅は、ピアノ・ソナタ第3番で終わりを迎える。
「このソナタには、多様なニュアンスと思考が内包されています。美しさゆえに、その複雑さを忘れさせるかもしれませんが、実際にはソナタならではのしっかりとした構造を持ちあわせています。数々の美しい瞬間があり、このソナタだけでも一つの人生を表すようです。暗く望みの薄い2番のソナタに比べて、3番はより展望がひらけていて、悲劇を越えた、その先に見えるものを示すかのようです。今の私たちにはそんな、自分たちを上に引き上げてくれる音楽が必要でしょう」
 3番のほうがより死に近づいた時期に書かれているのに、より希望が感じられるのは、どうしてなのだろうか。
「ショパンは晩年のほうがむしろ、死から距離を感じていたのではないでしょうか。さらにいえば、死だけではなく、あらゆるものから距離をとるようになっていたのだろうと思います」

受け継いだ伝統は、自分にとって土壌なようなもの

 若き日、モスクワ音楽院で名教師レフ・ナウモフのもと学んだイーティンさん。当時のモスクワでは、20世紀ロシアの大ピアニストたちの演奏に触れることができた。そこから吸収した多くのものは、今も「DNAとして体の中にあります(笑)」と話す。
 ショパン演奏について、モスクワ音楽院の伝統というものはあるのだろうか。
「ナウモフ先生の師であるノイハウスは、ショパン演奏で名声を得ました。彼はモスクワで学びましたが、半分ポーランドの血を引いています。彼の演奏は、最高峰の録音の一つです。
 ノイハウスの伝統の根底にあるのは、人生にとって音楽はとても重要な存在であると捉えること。かつてのロシアでは、音楽だけでなく全ての芸術が、自分たちの考えや感性を表現する方法として大きな意味を持っていました。ほとんど宗教のような存在といえるかもしれません。
 私はそんなノイハウスから続く系譜にいます。こうした伝統は、私にとっていわば土壌のようなもの。植物と同様、そこに根を張っていますが、上に向かって成長した枝葉が、私の音楽といえるでしょう」

 それでは、過去から伝承するものと、新たに自分で創造することのバランスは、どのように保つのだろうか。
「過去から現在まで、世の中には優れたピアニストがこれほどいるのに、自分がステージでショパンを演奏する意味が何かということは、常に問いかけています。そこで大切なのは、どんな作品も、これまで誰も弾いたことがないかのようにとらえて演奏するということ。ショパンがインスピレーションをうけ、何かを手に入れて曲を書いたプロセスを追体験しながら演奏することが大切です。それができないなら、家でルービンシュタインの録音を聴いているほうがずっといいですよ」

瞬間的な変化をつけることができる完璧な“マシーン”

 今回は東京文化会館のヤマハCFXを演奏する。
「私が知る限り、ショパンがヤマハを弾いたことはなかったと思いますが(笑)、でも、もしその機会があったらきっと気に入っていたと思いますよ。ショパンの音楽は、繊細でときに移り気、刻々とムードが変化していきます。瞬間的に変化をつけながらそれを再現するには、ピアノに音を生み出すための完璧なメカニズムがないといけません。CFXは、聴き手の魂に届くような音を生み出すことのできる、パーフェクトなメカニズムをもった“マシーン”だと私は思います」

 長らく舞台に立てない時を経て、久しぶりにリサイタルを行うにあたって、どんな気持ちでいるのだろうか。
「コンサートがあってもなくても、私が音楽とともに生きていることにかわりはありませんし、家で自分のために演奏するだけでも幸せです。それでもやはり、ステージで弾き、社会の中で音楽家としての役割を実感する経験は、また特別です。自分は何のために生きているのか考えながら日々を過ごし、しかしあるときステージで弾き、聴衆の反応を目にして、自分が存在する意味を確認する。…公演が終わると再び、自分の存在意義を問いかける日々に戻るわけですけれど(笑)、そんなサイクルを繰り返すことこそが、演奏家の人生なのです。
 コンサートの時間が、みなさんに、空には星が輝き、鳥は歌って花が咲くという、身の回りのたくさんの美について思い出すきっかけになればと思います」

Textby 高坂はる香

※上記は2020年11月24日に掲載した情報です。