ピアノ調律師/コンサートピアノ技術者:村上輝久  - 世界の巨匠ピアニストから絶大な信頼を寄せられたピアノ調律師 村上輝久

 アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリやスヴャトスラフ・リヒテルをはじめ世界の巨匠ピアニストから絶大な信頼を寄せられたピアノ調律師、村上輝久さん。ヨーロッパから帰国後はヤマハのピアノテクニカルアカデミーやアーティストサービス室を設立し、後進の育成に尽力された「レジェンド」と呼ぶべき存在です。95歳を迎えた今も浜松でお元気に暮らしているご自宅を訪ね、お話を伺いました。

Profile

●最初の赴任先は北海道 --------------------------

 子どもの頃から音楽は好きでね、父親が買ってくれたアコーディオンやギターを弾いていました。旧制中学校時代はラッパ班に入って、戦争中ですからラッパを吹きながら軍歌で行進していました。
 ヤマハ(当時は日本楽器製造)に入社したのは1948年。調律師になって最初の赴任先は北海道でした。私より先輩の調律師はずいぶん歳上の、戦前派の人たちばかりだったので、「ひさしぶりに若いのが来た」と言ってかわいがってもらってね。今日は帯広、明日は札幌だと、北海道中をくまなく歩きまわりました。
 北海道で5年過ごしたのち、東京に転勤になりました。私は技術の人間なのに、営業や音楽教室の立ち上げ、売り場の主任まで幅広く担当していました。

● 3ヶ月のヨーロッパ出張のはずが4年に --------------------------

 1965年、ミケランジェリが初来日するというので、徹夜で並んでリサイタルのチケットをとりました。衝撃を受けましたね。専用のコンサートグランドピアノを空輸し、専属調律師のタローネを伴っての来日です。リサイタルの最初に弾いたスカルラッティと次のベートーヴェンとでは、まるでピアノを取り替えたかのようにまったく違う音色で、とにかく驚きました。
 それで翌日、ヤマハの川上源一社長に思わず「生産台数世界一より、もっといいピアノを作ってください」と進言してしまったんです。怖いものなし、若気の至りですね。ところがその言葉を聞いた川上社長は、怒るどころか「私もミケランジェリのリサイタルに行きたい」と言い出して、私はまた必死でチケットをとる羽目に。
 その後、川上社長は世界レベルのピアノを作るべく新たなプロジェクトを立ち上げました。私は社長室に呼ばれて「私たちがいい仕事をするためには、技術者をヨーロッパに派遣して、現地の音を聴いてこなければダメだ。だから言い出しっぺのお前が行ってこい」と言われ……。「言葉が全然できませんから無理です」と言ったのですが、「なんとかなる!」と押し切られてしまいました。
 1966年、イタリアに行ってタローネの家に下宿しながら現地での生活がはじまりました。言葉に関しては、イタリア語はローマ字に近いので助かりました。イタリア人が話した言葉を手の平にローマ字で書いて、あとで辞書を引くと分かるんです。
 幸運なことに、すぐにミケランジェリに会うチャンスが訪れ、彼の別荘にあるピアノの調律を頼まれました。それで帰ってきた途端に、今度はリスボンでのコンサートに一緒に行ってくれと。カバンひとつで出かけたら、「お前、荷物はそれだけ? 演奏旅行だぞ」って(笑)。それからは世界のあちこちを巡る日々。3ヶ月の出張のはずが1年になり、気づけば4年の歳月が過ぎていました。

●ニューヨークで出会ったピアニスト --------------------------

 ミケランジェリに付いてニューヨークに行ったときは、こんなことがありました。
 終演後に楽屋を訪ねてきて「私はピアニストだ。どうしてもミケランジェリに会いたい」という人がいました。でもミケランジェリは誰にも会わないので、「今日はもう疲れて帰っちゃったよ」と嘘をついたんです。そうしたら彼は「お前は日本人か? 名前を教えてくれ」と。名刺を渡した5年後その彼が来日、自分のサインの入ったレコードを持って、日本に帰国していた私を会社まで訪ねてきてくれました。
 そのピアニストは誰だったと思います? レコードは『ポートレイト・イン・ジャズ』。そう、彼はビル・エヴァンスだったんです。

●リヒテルと築いた信頼関係 --------------------------

 最初はミケランジェリの専属調律師だけをしていましたが、ショパン・コンクールで優勝したばかりの若いマウリツィオ・ポリーニや、ジョルジュ・シフラ、ヴィルヘルム・ケンプなど、いつの間にか担当するピアニストが増えていきました。
 リヒテルに会ったのは1967年、フランスのマントン音楽祭の専属調律師を務めたときです。ドイツの新聞に「すべてのピアノをストラディバリウスに変える東洋の魔術師」なんて書かれたりしてね。これを機にリヒテルの調律も担当することになりました。
 1970年、大阪万博の年にリヒテルが初来日することになり、私は彼の専属調律師としてヤマハのピアノを準備するため、ようやく日本に帰国しました。ところが蓋を開けてみたら、主催者側が用意した他社のピアノを弾くことになっていて。そこで、ヤマハを含めた3社のピアノからリヒテルに選んでもらうことになりました。
 ところが来日したリヒテルは「私は試弾なんてしない、会場にあるピアノを弾く」と怒ってしまった。会場のピアノは他社のものだったので、私はお役御免ということで、その日のリサイタルは客席で聴いていました。そうしたら次の日の明け方、6時くらいにトントンとホテルの部屋をノックする音がしたんです。出たらリヒテルの奥さんが立っていて、「ごめんなさい、マエストロが今すぐ行ってこいと言うから。今夜からやっぱりムラカミのピアノで弾くと言っている」とのこと。その日からリヒテルは、ずっとヤマハのピアノを弾いてくれるようになりました。

●ヤマハ ピアノテクニカルアカデミーを設立 --------------------------

 1980年には、調律師としての技術だけでなく、あらゆる音楽の知識や、人とのコミュニケーション術を総合的に学ぶことができる養成機関として、ヤマハ ピアノテクニカルアカデミーを設立しました。
 音楽家や音響学者、音楽学者、社交術の先生……あらゆる専門家を呼んで授業をしました。10期生までは私も直接教えていましたが、卒業生には優秀な調律師がたくさんいて、今も世界の第一線で活躍しています。
 調律師という仕事に向いている人は、手先が器用な人、この仕事が好きな人というのはまず大前提。さらにアーティストの調律師として必要なことは、その人の演奏を深く理解し、個性を十分に出せるようなピアノに仕上げることです。そのためには、ときに友だちになることも必要。とはいえ相手は世界の巨匠ですから、距離感が難しいですね。アカデミーではそういったコミュニケーションのとり方、人間として大切な部分も学んでもらえればと思います。
 あと5年経つとアカデミーが創立50周年、その頃には私は100歳です。さすがにそれまでにはお迎えがくるでしょうけれど。とにかく私は運がよかったと思います。

Textby 原典子、©武藤章