ムーン・イクチュー

MOON Ick Choo ムーン・イクチュー

ロサンゼルス・タイムズ紙に「そのパワー、高度な演奏技巧、そして鮮やかで心を揺さぶる音色の弾き分け」と称賛された韓国生まれのピアニスト、イクチュー・ムーンは、モントリオール国際コンクール、ジュネーブ国際コンクール、ジュリアード音楽院のジーナ・バッカウアー国際ピアノコンクールなど数多くのコンクールで入賞。1989年、ジュリアード音楽院が同校でピアノを学ぶ学生に与える最高の賞の一つであるウィリアム・ペチェック賞の受賞者としてリンカーン・センターのアリス・タリー・ホールでリサイタルデビューを果たし、評論家の高い評価を得る。1979年にスタニスワフ・スクロヴァチェフスキ指揮のミネソタ管弦楽団との共演でアメリカデビューを果たして以降、アメリカ、カナダ、ロシア、日本、韓国など数多くの国で演奏を行い、アメリカ、カナダ、韓国のラジオやテレビで頻繁に放送されてきた。

母国の韓国以外にもアメリカとカナダで育ったムーンは、カーティス音楽院で学び、インディアナ大学ではシェベーク・ジェルジに師事して学士号と修士号を最優等で取得。その後、ジュリアード音楽院でサーシャ・ゴロニツキーに師事し、音楽博士号を取得した。

現在は韓国のソウル大学校ピアノ科教授。過去には12年間ピアノ科長を務めたカリフォルニア大学ロサンゼルス校でも教鞭を執っている。夏の間は、アメリカのブレヴァード・ミュージック・センターやシャトークア・インスティテュート、フランスのムジークアルプ音楽祭、イタリアのアマルフィ音楽祭および韓国国内の数々の音楽祭で指導・演奏活動を行ってきた

韓国

ピアノとともに人生を歩み、音楽を通して新たな自分を発見するたびに大きな喜びを感じます。

国際コンクールでの韓国人ピアニストの驚異的な活躍にはいつも目をみはらされるが、韓国のピアノ界を牽引するソウル大学のピアノ科教授で、第10回浜松国際ピアノコンクールの審査員に招かれているムーン・イクチュー氏に、今日までのピアニストとしてのご自身の歩み、韓国のピアノ教育についてなど、興味深いお話をうかがった。

子供の頃に両親とともにカナダ・アメリカに移住したムーン・イクチュー氏。30年以上海外で暮らし、20年前に韓国に戻った。 「私が韓国に戻ってからの20年間の若手ピアニストたちの躍進ぶりには、私も驚いています。今の20代、30代の韓国のピアニストの演奏レベルは、世界最高と言ってもいいのではないでしょうか。80年代から海外で学ぶ人が増え、韓国のピアノ界も発展を続け、2000年代にピークを迎えました。2009年の浜松国際ピアノコンクールでのチョ・ソンジンの優勝は、象徴的な出来事だったと思います。あのコンクールでは、6人のファイナリスト中4人が韓国人でした。 20年前にインタビューを受けたとき、「あと20年か30年必要でしょう」と答えたのですが、実際には10年しかかからなかったわけです。まさにアッチェルランド(accellerand:音楽用語で、次第に速くという意味)!(笑)」 浜松国際ピアノコンクールで優勝したチョ・ソンジンは、その後2015年のショパン国際ピアノコンクールで優勝。そのほか、2006年のリーズ国際ピアノコンクールでアジア人として初めて優勝したキム・ソヌク、2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクール第2位、2011年のチャイコフスキー国際コンクール第2位のソン・ヨルム、2016年の仙台国際音楽コンクールで優勝したキム・ヒョンジョン、2013年の仙台国際音楽コンクールで優勝した後、2017年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝したソヌ・イェゴンなど、若手ピアニストたちの活躍には、いつも驚かされる。韓国からなぜこれほど優れたピアニストが次々と出現するのだろうか。 「とにかく今の若い学生たちは、驚くほどよく練習します。この20年間で、いろいろなことが変わりました。ヨーロッパ、アメリカ、ロシアなどで学んだすばらしい音楽家が韓国に戻って来て、子どもたちを教えています。つまり、才能のある子どもたちは、初歩の段階から優れた教育を受けているのです。よい教師、そして子どもたちの並み外れた努力、それらの組み合わせによって今日の成功がもたらされているのでしょう。 ソウル大学だけでなく、韓国芸術総合学校ほか各音楽大学、音楽高校には、優秀な学生たちが集まって、互いに刺激し合いながら学んでいます。社会全体に競争心を煽るようなシステムが出来上がっている中で、すばらしい人材が育っているのだと思います。また、現在はインターネットやYou Tubeを通じて、20世紀初頭から今日に至るまでのありとあらゆる演奏や情報を手に入れることができます。それらに触れながら、広い視野で努力を惜しまず学んでいることが、彼らの成功に繋がっているのでしょう」 自身の子ども時代とは、隔世の感があると語る。 「私が子どもだった頃は、クラシック音楽はそれほど普及していませんでした。ごく限られた人たちの間で愛好されていたに過ぎません。1970年代は、クラシック音楽のコンサートもほとんどありませんでした。日本には海外からすばらしい音楽家が来てコンサートを開いていましたよね。韓国では、レコードを探すのも容易なことではなく、楽譜を探すのはもっと大変でした。ですから、日本に行く人がいると、楽譜やレコードを買って来てほしいと頼んだようです。当時は海外に行くことも厳しく制限されていましたから、本当に楽譜やレコードは貴重だったのです」

カナダとアメリカで教育を受けたムーン・イクチュー氏。ハンガリー出身の名ピアニスト、ジョルジュ・シェベック氏との出会いが、自身の運命を変えたと語る。 「子どもの頃は理数系の教科に興味があったので、そちらの方向に進もうと考えていました。たまたま私の演奏を聴いた人の勧めでカーティス音楽院に入学しましたが、自分はここで学ぶレベルには達していないと感じ、1年でやめて医学部の予備科に入り、しばらく音楽から遠ざかっていました。 そんなあるとき、久しぶりに音楽に触れたいと思い、カナダのバンフで開催された夏期講習会に参加し、シェベック先生に出会ったのです。シェベック先生は幅広い知識を持った知的な方で、哲学、宗教、自然科学、物理、解剖学など、さまざまな学問に関連づけて音楽を教えてくださいました。私が禅や仏教に興味を持ったのも、シェベック先生のおかげです。禅と弓道を関連づけたオイゲン・ヘリゲルの本も紹介してくださいました。シェベック先生との出会いは、まだ若かった私のその後の人生を大きく変えました。レッスン室で語り合った日々を懐かしく思い出します。音楽家としてだけでなく、人間として、私にもっとも大きな影響を与えた方です」 インディアナ大学でジョルジュ・シェベック氏に4年間師事した後、ニューヨークのジュリアード音楽院で名教授、サッシャ・ゴロニツキー氏に師事した。 「シェベック先生は温かく穏やかな人柄で、音楽を人生の一部として捉え、精神生活と関連づけながら教えてくださいましたが、ゴロニツキー先生は、演奏技術そのものを重視する方だったので、そういう意味ではプレッシャーを感じました。目標とするレベルがあまりにも高かったので……。2人のまったく違うタイプの先生のもとで学び、私はラッキーだったと思います。ピアニストとして成長する上で、どちらも必要でした。 当時のゴロニツキー先生の門下には、すばらしい才能を持った学生が世界中から集まっていて、刺激を受けながら鍛えられました。ヤニーナ・フィアルコフスカ、アンドレ・ラプラント、そして小川典子さん! 彼女の演奏を初めて聴いたときのことは、今でも忘れられません。彼女は17歳か18歳くらいだったのではないでしょうか。高校を卒業してすぐにジュリアード音楽院に来たのだと思います。彼女のリストのソナタを聴いたとき、私たちは飛び上がって驚きました。本当にチャーミングで、みずみずしい魅力にあふれていました」

ジュリアード音楽院を卒業した後、カルフォルニア大学ロサンゼルス校で教鞭を執りながら、演奏活動を展開した。 「学生を指導することで、私自身も学ぶことが多かったと感じています。若い頃、どんなに考えても、どんなに努力してもわからなかったことが、学生たちを教えていて突然わかるということがよくあります。私たちは音楽を通して、自分たちの外側の世界を知るだけでなく、自身の中にあるものを発見できるのかもしれません。永遠に終わりのないプロセスだと思います」 恩師のジョルジュ・シェベック氏は、チェロの巨匠、ヤノーシュ・シュタルケル氏の伴奏者としても有名だが、ムーン・イクチュー氏もチェロ奏者のヤン・スンウォン(Sung-Won Yang)氏とデュオ活動を繰り広げ、何枚かのCDをリリースしている。 「私はアンサンブルが大好きです。13歳か14歳くらいのとき、バンフの夏期講習会に参加し、初めて室内楽を経験しました。メンデルスゾーンのピアノ三重奏のレッスンを受けたのです。講師は堤剛先生で、チェロのパートを弾いてくださいました。ほかの楽器の奏者と一緒に音楽をつくり上げる室内楽の楽しさを初めて知りました。私にとっては忘れがたい思い出ですが、堤先生は私を覚えていないでしょう(笑)。 その後、シェベック先生の影響もあり、積極的に室内楽に取り組んできました。ヤン・スンウォンとは8年ほどデュオを組み、コダーイ、ラフマニノフ、ショパンなどの作品を録音しました。彼はすばらしいチェロ奏者です。残念ながら、私はこの10年ほど腕を故障して、デュオ活動を続けることはできなくなってしまいましたが……」 腕の故障で演奏活動ができなくなっても、毎日ピアノに向かい、新たな自身を模索しているという。 「自分のために、そしてピアニストの妻に聴いてもらうために、弾き続けています。そして、少しでも自身の成長を感じたり、新しい発見があると、大きな喜びを感じます。腕を故障したばかりの頃は落ち込みましたが、この年齢になっても、そのような喜びを感じることができるのは、とても幸せなことだと思います」

長年アメリカと韓国で教鞭を執り、さまざまな音楽祭に関わり、コンクールの審査員を務めているムーン・イクチュー氏。現在の若手ピアニストたちをどのように見ているのだろうか。 「今の若者たちの演奏レベルは全体的にきわめて高いと思います。今もし私が若かったら、ほかのキャリアを探したでしょう(笑)。これは謙遜ではなく、正直な気持ちです。しかし、コンクールなどで彼らの演奏を聴いていて思うのですが、これほど多くの優秀なピアニストがいても、輝くような個性を発揮して聴衆を感動させることのできるピアニストがどれだけいるかという意味では、100年前と変わらないのではないでしょうか。演奏を聴いただけで、これはホロヴィッツ、フリードマン、ラフマニノフ、ルービンシュタイン、シュナーベル、コルトーとわかるような、強烈な個性とピアニズムで聴衆を魅了するピアニストが、現在どれだけいるでしょうか。 これは私の意見ですが、今日の若いピアニストの演奏は均質化されていて、あまり個性が感じられません。100年前は、それぞれの国に違うピアノ楽派があり、すばらしい教師がいて、その国のピアニストに大きな影響を与えていました。現在は、あらゆる情報をインターネットによって瞬時に得ることができます。そのせいか、すべてが混ざり合い、昔ほどそれぞれの特徴が際立っていません。皮肉なことに、今の若い人たちは自分自身を表現するという意味で、あまり自由ではないのかもしれません。彼らが過去の巨匠のように自分だけの表現を手に入れるには時間がかかるでしょう。100年前、現在、100年後も、特別な個性を持った、真にマエストロと呼べる演奏家の数はあまり変わらないのではないかと思います。 また、現在これほど多くのコンクールがありますが、そこで優勝したピアニストが活躍する場は多くありません。50年前、60年前とは状況がまったく違います。昔は、ショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールに入賞することが、ピアニストとしてのキャリアに繋がりましたが……。しかし、やはり若いピアニストたちにとってコンクールは大きなチャンスです。コンクールを経ずに活躍できる子はごく稀です。もちろん、彼らが音楽を学び、音楽を通して自分自身を見つめ、人間のさまざまな感情について考えることはすばらしいと思いますが、現実的な生活ということを考えると、少し彼らに同情してしまいます。 とにかくコンクールは、世界中の同世代のピアニストたちの演奏を聴いてお互いに学ぶことができます。出会いの場、交流の場、自身を鍛える場としてポジティブに考え、音楽を真摯に探求し続けることが大切なのだと思います」 第10回浜松国際ピアノコンクールの審査員として招かれている。 「現在、大きな国際コンクールには200人から300人の参加申し込みがありますが、実際に参加できる人数はごく限られています。才能のある若者たちが予備審査の段階でふるい落とされていることを残念に思います。しかし、浜松国際ピアノコンクールには100人の若いピアニストが参加できるそうですね。個性あふれるフレッシュな才能に出会えるのではないかと楽しみにしています。 またコンクール後、入賞者たちにたくさんのコンサートが用意されていると聞きました。これは賞金以上に重要なことだと思います。セミファイナルで、モーツァルトの2曲のピアノ四重奏曲が課題になっているのも素敵ですね。ト短調の第1番は、私の大好きな室内楽作品のひとつです。技巧的な難しさはありませんが、それだけにピアニストが持っている自然な音楽性、新鮮な魅力が試されるのではないでしょうか。若者たちの能力を違う角度から判断するすばらしい課題だと思います。 最近のコンクールは短い期間に凝縮して開催されることが多いですが、浜松国際ピアノコンクールは3週間をかけて若者たちのピアノへの情熱を応援する贅沢なコンクールだと思います。3週間の審査はハードな仕事ですが、若者たちの才能に真剣に向き合いたいと思います」

ーー1.自分で影響を受けたアーティストは?

私に影響を与えたアーティストとして一番最初に名前をあげるべき人物は、間違いなくジョルジュ・シェベック先生です。彼に出会っていなければ、私はピアニストになっていなかったでしょう。彼は私をピアニストへの道に導き、優れた音楽家になるべき道を指し示してくれました。彼自身その途上にいると語りながら……。私は今でもその道の上を歩いていると感じます。 シェベック先生は、まだ若かった私の目の前にさまざまなドアを開いてくれました。先生と語り合い、社会や芸術、文化について考えたことは、その後の私の成長の糧になっています。

ーー2.ヤマハのピアノに対するイメージと印象は?

私と妻はそれぞれ個性のあるさまざまなピアノを持っていますが、その中の1台、35年くらい前に買った6フィートのCシリーズの楽器は、粒立ちのよい美しい音色で弾きやすく、とても気に入っています。何よりも35年経っても変わらないクオリティを保っているのはすごいと思います。 それから、あるコンサートで弾いたSシリーズのピアノにも驚きました。繊細なニュアンスを表現することができ、あらゆることを可能にしてくれる楽器だと感じました。最近、SXシリーズが新たに発売されたそうですね。ヤマハのピアノは常に進化を続けているので、さらにすばらしくなっていることでしょう。機会があったらぜひ弾いてみたいです。

ーー3.あなたにとってピアノとは?

人生のそれぞれのステージで、私にとってピアノの存在の意味は変わっていますが、とにかく私はピアノにとても感謝しています。偉大な作曲家が書いた数々の作品を通して、私は人生について考え、多くのことを学びました。長年ピアノに取り組むことによって、さまざまな世界を発見し、新たな自身を発見してきたように思います。もうこれが限界だと思っていたのに、あるときふと今までとは違うところにいる自分に気づくと大きな喜びを感じます。ピアノとともに人生を歩むことができて幸せだったと思います。

ーー4.印象に残っているホールは?

モスクワ音楽院の大ホールで演奏したときのことは忘れられません。ホールという意味だけでなく、聴衆のすばらしさと相まって、忘れがたい経験となりました。大きなホールですが、ステージで弾いていて、自分の演奏が細部まですべて聴こえ、聴衆の反応を肌で感じ取ることができました。ソ連が崩壊して間もない頃で、多くの人々はあまり幸せではありませんでした。彼らにとって私は無名のピアニストだったのに、たくさんの聴衆がホールに詰めかけ、注意深く私の演奏を聴いてくれました。私の演奏がよいと熱狂的に反応し、そうでもないとそれなりの反応で(笑)……、いつも一定の反応に慣れていたので、とても驚きました。あれほど音楽を深く理解している聴衆に出会ったことはなく、私は心から彼らを尊敬しました。 そのときのツアーでは、サンクトペテルブルクやキエフでも演奏しました。キエフは小さな会場で、聴衆のほとんどが音楽を学ぶ小・中学生だったのですが、彼らはひとつの音も聴き漏らさないような集中力で私の演奏を聴き、コンサートの後、さまざまな質問を投げかけてくれました。実に自由で知的な質問で、驚かされました。ロシアからなぜあれほど多くの音楽家が生まれているのかがわかりました。

ーー5.ピアノを学ぶ(楽しむ)方へのメッセージ

アマチュアでもプロを目指す人でも、音楽をより深く探求してほしいと思います。音楽の世界は広く、深いので……。 まず、何よりも音楽を愛し、楽しむことが大切です。コンクールに参加しているような人たちにとって、それは難しいことかもしれませんが、音楽家としての人生を切り拓いていく上で、演奏することに喜びが感じられなければ、この厳しい競争の中を耐え抜いていくのは無理です。もうやめてしまいたいと思うことがあるかもしれませんが、頑張って続けていれば、想像もしていなかったような世界が広がる可能性があります。どんな状況にも耐え、楽しみながら学んでください。私もそうなのですから(笑)。