ウー・イン

WU Ying ウー・イン(呉迎)

父は作曲家で音楽学者、母はピアニストという上海の音楽一家に生まれたウー・インは、5歳で母から最初の音楽教育を受ける。北京の中央音楽学院を卒業し、修士号を取得。その後ウィーンに渡り、パウル・バドゥラ=スコダに師事。1984年にウィーン国立音楽大学を卒業し、同年、中国中央音楽学院の教職員となる。1991年、中華人民共和国国務院および教育部より特別貢献賞を受賞。1994年には上海音楽学院ピアノ学部に移り2004年まで学部長を務めた後、同年、教授および学部長として北京の中央音楽学院に戻る。
中国をはじめチェコ共和国、ルーマニア、オーストリア、スペイン、スイス、ドイツ、フランス、ギリシアなどヨーロッパ各国で演奏活動を行う。イギリスBBCの番組としてライブコンサート・シリーズで演奏。ルーマニア、ブカレストのエネスク音楽祭、ポーランドのショパン音楽祭でリサイタルを開催。中国では数多くのオーケストラとの共演でテレビ出演も多く、ソロ、室内楽、協奏曲の演奏はCDにもなっている。
ジュネーブ国際コンクール、ボルツァーノのブゾーニ国際ピアノコンクール、ワイマールのリスト国際ピアノコンクール、中国国際ピアノコンクールなど、数多くの国際ピアノコンクールで審査員を務めている。

中国

ピアノで歌い、あたたかく美しい音楽の世界を描き出したい。

目覚ましい経済発展とともにピアノブームに沸く中国。ラン・ラン、ユジャ・ワンなど優れたピアニストを輩出している北京の中央音楽学院のピアノ科主任を長年務め、第10回浜松国際ピアノコンクールの審査員に招かれているウー・イン氏に、激動した中国現代史と共に歩んだピアニスト人生、今日の中国のピアノ教育についてなど、さまざまなお話をうかがいました。


父は中国を代表する作曲家のウー・ズーチャン(呉祖強)氏、母はピアニストで教育者としても知られるチョン・リーチン(鄭麗琴)さんという音楽一家に生まれたウー・イン氏。ごく自然に音楽に親しみながら幼年時代を過ごしたと語る。

「私が生まれた当時、父はまだソ連に留学中でしたが、翌年帰国し、北京の中央音楽学院の作曲科の教授となりました。母もピアノ科の教授だったので、私は中央音楽学院の教員宿舎でさまざまな音楽を聴いて育ちました。
ピアノは母の手ほどきで始めましたが、「易子而教」(親が自分の子どもを教育するのは難しいので、友人に託した方がよい)という中国の古い格言に従って、母の学生時代の同級生で同僚のチェン・ホェイスー(陳慧蘇)先生に習うことになりました。といっても、最初からピアニストを目指していたわけではありません。私は、北京第一実験小学校(チョウ・エンライ(周恩来)総理の夫人、トン・インチャオ(鄧穎超)が教師を務めたことで知られる名門小学校)に入学したので、勉強が忙しくなり、ピアノを練習する時間はあまりありませんでした。そして、1966年8月、文化大革命が始まり……、ピアノを弾くことはできなくなってしまいました」

1966年8月、マオ・ツォートン(毛沢東)主席によって発動された文化大革命の嵐は、瞬く間に全土に広がり、多くの知識人、文化人が、ブルジョワ的な思想を持ち、贅沢な暮らしをしていると批判の対象となった。音楽家たちも家宅捜索を受け、楽器や楽譜を没収され、過酷な迫害を受けた。

「学校は夏休みに入ったまま授業がなくなり、混乱した状況が何年か続きました。まだ子どもでしたから、学校がないので、家で遊んでいました。大人たちは職場で批判大会などが開かれ、大変だったようです。父は作曲科の主任教授であると同時に学院の上部指導者の1人だったので、批判の対象となりました。両親は子どもたちにそのことは一切話しませんでしたが、恐ろしいことが起きていることはわかっていました。紅衛兵が家宅捜索に来たこともあります。幸いなことに、私の家で働いていたお手伝いさんの2人の娘さんが紅衛兵の中にいて、彼女たちが私たち家族をかばってくれたので、それほど酷い目に遭わずにすみました。
父は労働改造所に送られ、軟禁されましたが、まだ若く、地位も高くなかったので、しばらくすると家に戻ることができました。その後、中央音楽学院のすべての教師は、軍隊に所属する農村に下放して労働することになったのですが、父は『光明日報』という新聞の西洋クラシック音楽を批判するための研究グループに所属することになり、北京に残りました。父たちは、西洋クラシック音楽のさまざまな作品を分析し、これは進歩的、これは進歩的ではないなどという論文を書いたり、ソナタは標題がない音楽なので、政治的な内容はないということにしたり……(笑)、しかし、きわめて張り詰めた雰囲気の中で仕事をしていたのだと思います。母は農村に下放したので、家には父と私と妹が残りました。父は私たち兄妹と、友人の教授から預かった女の子の面倒をみることになりました。父は戦争を経験した人なので、何でもできたのです。家事のすべて、裁縫やセーターを編むこともできました(笑)」

文化大革命の混乱期が過ぎると、少しずつピアノを弾くことができるようになったという。

「私たちは中央音楽学院の校舎から少し離れた教員宿舎で暮らしていたので、ピアノを弾いても告発される心配はなく、再びピアノを弾くようになりました。当時、北京でピアノを弾くことができたのは私たちだけだったと思います。学校も閉鎖され、子どもたちはやることがなかったのです。当時、私が弾いていたのは革命歌曲や練習曲で、父が音の間違いなどを指摘してくれました。
そんなある日、ひとりの老婦人が訪ねて来て、「もうピアノを聴くことはできないと思っていたのに、この建物の中から聴こえて来ました。私にこの子を教えさせていただけませんか?」と父に言いました。彼女は、ライプツィヒで学び、中国で最初にリサイタルを開いた女流ピアニスト、ヤオ・チンシン(姚錦新)先生でした。父は喜んで私の指導を彼女に任せ、私は彼女のもとで2年ほど学びました」

1972年、文化大革命の発動とともに閉鎖されていた中央音楽学院が「五・七芸術学校(のちに五・七芸術大学)」の名称で復活し、翌年ウー・イン氏の入学が許可された。

「ピアノ科の教師はみな母の同級生や同僚で、私はチェン・ビーガン(陳比綱)先生に師事することになりました。チェン先生は教養豊かな方で、独自の信念を持って学生たちを指導していました。当時は革命歌曲などの中国の作品のほか、西洋クラシック音楽はチェルニー、ショパン、リストの練習曲、ベートーヴェンのソナタのごく一部しか弾くことができなかったのですが、チェン先生は演奏を禁じられていたバッハの作品なども教材にして、隠れて教えてくださいました」

当時の大学生は、大衆から遊離してはならないとする政府の方針で、教室での授業だけでなく、工場や農村で労働をしながら学ぶことが義務づけられていた。1976年春、ウー・イン氏は極貧の山村を人海戦術で開拓したことで知られる山西省の大寨村に赴いた。

「私たちが大寨村に行ったのは、現地の農民とともに労働することが目的だったのですが、行ったところで現地の農民のようには働けません。現地の女の子ほどにも役に立たなかったので、私たちは朝早く起きて、子どもたちが学校に行く前に音楽を教え、小さな楽隊を作りました。私はアコーディオンを弾き、胡弓などの民族楽器を弾く子どもたちを指導しました。私は民族楽器など弾けなかったのに、その楽隊のリーダーだったんですよ(笑)」

1976年秋、マオ・ツォートン(毛沢東)主席の死去とともに文化大革命が終息した。

「大寨村から戻り、私は五・七芸術大学を卒業しました。「四人組」が打倒されて文化大革命が終息した10月6日が、なんと私の卒業式の日だったのです。校名も元に戻ったので、私は中央音楽学院卒業ということになりました。
後年聞いたところによると、私を学校に残すべきという先生もいたとのことですが、当時はまだ職業の選択が政府にコントロールされていたため、私が学校に残ることは認められず、中央歌劇院に配属されました。私はまだ18歳でした。歌劇院で3年ほど、声楽の伴奏をしたり、オーケストラで打楽器を叩いたり……、トライアングル、ビブラフォンなど、ティンパニー以外の打楽器はすべて演奏しました(笑)」

ウー・イン氏は歌劇院での仕事の傍らピアノへの情熱を燃やし続け、1980年の第10回ショパン国際ピアノコンクールに参加することになった。

「これまでの人生を振り返って、やはり私は幸運だったと思います。私は卒業演奏会でピアノ協奏曲《黄河》を演奏したのですが、中央音楽学院の名教授、チュウ・コンイー(朱工一)先生がそれを聴いて、私を教えようと言ってくださったのです。文化大革命が終息し、それまで禁じられていたクラシック作品を弾くことができるようになったので、私は毎日夢中でピアノに向かいました。もちろん仕事があったので、練習時間は多くはありませんでしたが……。チュウ先生は、オペラや京劇などさまざまな舞台芸術を例に挙げながら、旋律の歌い方、情感の表現などを丁寧に教えてくださいました。
1979年、中国政府は文化大革命後初めてショパンコンクールにコンテスタントを派遣することを決め、国内予選を実施したのですが、私はそこで運よく第1位の成績をおさめることができました。それと同時に、中央音楽学院に戻り、大学院で正式にチュウ先生に師事し、ピアノに専念できるようになりました」

コンクールまでの1年間、ウー・イン氏はチュー・コンイー(朱工一)教授のもとでショパンの作品に取り組んだ。

「まだ文化大革命が終わったばかりの頃でしたから、楽譜、レコード、書籍などの資料も限られていた上に、ピアノも酷い状態でした。私は壊れたピアノが集められた倉庫で、なんとか弾ける状態のピアノを見つけて練習しました。それでも、私は当時の中国で一番恵まれた学生だったと思います。そこに行けばいつでも練習できたのですから。
チュウ先生も熱心に教えてくださいました。文化大革命中はショパンの作品を弾くことはできなかったので、コンクールの膨大なレパートリーを準備するのはとにかく大変でした。チュウ先生が《ノクターン》を弾いてくださって、どの曲にしようかと一緒に考えたことなどを懐かしく思い出します」

ベトナムのダン・タイ・ソンがアジア人初の優勝者となった第10回ショパン国際ピアノコンクールは、審査員のマルタ・アルゲリッチが、イーヴォ・ポゴレリチがファイナルに残らなかったことに抗議して辞任するなど、話題の多い大会となったが、文化大革命後、中国から初めて参加した5人のコンテスタントたちにも大きな注目が集まった。

「中国政府はこのコンクールを重視し、文化部(日本の文部科学省にあたる)の担当者が私たちコンテスタントや教師を引率してワルシャワに赴きました。私たちはホテルではなく、駐ポーランド大使館に宿泊しました。当時のワルシャワの食糧事情はあまりよくなかったのですが、私たちは食べ慣れた中国料理を食べ、練習用のピアノも用意されていたので、恵まれていたと思います。
私にとって初めての外国でした。よく整備されたコンサートグランドピアノを弾くのも初めてでした。海外の情報から隔絶されて過ごして来たので、「生まれたばかりの子牛は虎をも恐れない」という状態で、中国人コンテスタントの第1次予選の演奏は、そんなに悪くなかったようです。「文化大革命後すぐに、こんなに優れたピアニストが中国から出て来るなんて」と、多くの人々に賞賛されました。5人の中から、私、チャン・ウェイ(趙威)、リュウ・イーファン(劉憶凡)の3人が第2次予選に進みました。残念ながら、3人とも第3次予選には進めませんでしたが、海外の若いピアニストたちの演奏を聴き、とてもよい経験になりました。
あの回の参加者の中から、すばらしいピアニストがたくさん出ています。ダン・タイ・ソン、イーヴォ・ポゴレリチ、タチアナ・シェバノワ、エヴァ・ポヴウォツカ、日本の海老彰子さん……。その後、コンクールの審査や音楽祭などで彼らに会うと、当時のことを懐かしく語り合います」

1982年、大学院を卒業したウー・イン氏はウィーンに留学し、巨匠パウル・バドゥラ=スコダのもとでさらに研鑽を積んだ。

「文化大革命後、第2期の留学生としてウィーンに渡りました。オーストリア政府からの1人分の奨学金を何人かで分けて使ったので、生活は苦しかったですが、とにかく素晴らしいコンサートを毎日のように聴くことができ、幸せでした。高いチケットは買えなくても、安い立見席でさまざまなコンサートを聴くことができたのです。この時期は、私の音楽人生にきわめて大きな影響を与えました。音楽に対する考え方が根本的に変わったと言っていいでしょう。
スコダ先生のレッスンは、それまで私が中国で受けたレッスンとはまったく違いました。彼はひとりの芸術家として私の演奏を聴き、アドヴァイスや作品についての考えを語ってくださいました。ですから、私は充分に準備してレッスンに臨まなければならず、最初の頃はとても緊張しました。スコダ先生のレッスンで、とくに印象に残っているのは、音楽と言語の関係を重視したことです。ベートーヴェンのソナタの旋律に即興で歌詞をつけて歌ってくださることもありました。ドイツ語の語調や語気を感じさせる旋律の自然な歌い方について多くを学び、和声についての意識も変わりました。
帰国後も親しくお付き合いを続け、90年代の初めに、妻のシャオ・タン(邵丹)、娘のウー・ペイシー(呉培希)とともにスコダ先生のお宅に1年ほど滞在しました。先生は私に仕事を紹介してくださり、私は仕事をしながらバッハ、モーツァルト、シューベルトなどの作品を再び彼から学び、ウィーンの音楽家たちと室内楽の経験を積むこともできました」

1984年にウィーン留学から戻ったウー・イン氏は、演奏活動、指導活動を意欲的に展開し、文化大革命後の中国のピアノ界を牽引した。

「中央音楽学院に正規の教育が復活したのは1980年頃からで、少しずつ教育体制が整っていきました。私の父やチュウ・コンイー(朱工一)先生など、古い世代の音楽家たちは中国にクラシック音楽が復活したことを喜び、理想に燃えて教育に取り組んだので、学校は順調に発展しました。全国的に学生を募集した最初の試験で入学した人たちの中から、有名な音楽家がたくさん生まれています。作曲家のタン・ドゥン(譚盾)、チェン・イー(陳怡)、チェン・チーガン(陳其綱)、イエ・シャオガン(葉小綱)、ピアニストのシュ・シャオメイ(朱小玫)など、皆この時代の人たちです。
文化大革命が始まる前、中国のクラシック音楽のレベルはすでにかなり高かったのです。1955年の第5回ショパンコンクールで第3位になったフー・ツォン(傅聡)、1960年の第6回ショパンコンクールで第4位になったリー・ミンチャン(李名強)、1958年の第1回チャイコフスキーコンクールで第2位になったリュウ・シークン(劉詩昆)、1962年の第2回チャイコフスキーコンクールで第2位になったイン・チェンツォン(殷承宗)など、優れたピアニストがたくさんいました。文化大革命ですべてが止まってしまいましたが、それが再び繋がったのです。海外との交流も頻繁になり、ウラディーミル・アシュケナージ氏、セルゲイ・ドレンスキー氏、ヤン・エキエル氏、ジェイコブ・ラタイナー氏、ユージン・リスト氏など、すばらしいピアニスト、名教授を迎えてマスタークラスを開講し、私たちの視野は広がりました」

ラン・ラン、ユンディ・リ、ユジャ・ワン、ハオチェン・チャンなど、世界的に活躍する若手ピアニストが次々に生まれている中国。しかし、ウー・イン氏は、現在の中国のピアノブームの問題点を指摘する。

「魯迅の『風波』という小説の中で、お婆さんが昔はよかったと言っていますが、私も歳をとってそのように感じるのでしょう(笑)。とにかく、私が音楽を学んだ頃は、両親が子どもに無理やり学ばせるということはありませんでした。私の両親は音楽家でしたが、基本的に私の自由に任せ、こうしなさい、あぁしなさい、この曲をやりなさい、あのコンクールに出なさいなどと言ったことはありません。先生の考え、私の意志を尊重して、一切口は出しませんでした」

現在、北京の中央音楽学院、上海音楽学院などの有名な音楽学校の付属小学校、付属中学・高校の入学はきわめて難関で、地方の子どもたちは受験準備のために親とともに北京や上海に移り住んで、学校の近くに「陪読村」(子どもの教育のために地方から都会に移り住んだ親子が暮らすコミュニティ)が形成されている。

「音楽院の附属小・中・高校に入るのは、本当に大変です。親が熱心なのは、ピアノの演奏技術を鍛えるという意味では効果的だと思いますが、子どもをひとりの芸術家に育てられるかという意味ではどうでしょうか……、私にはよくわかりません。
私が育った時代は政治の影響で、正規の教育を受けることはできませんでした。しかし、おかげで私には時間がありました。私は家にあるさまざまな書物を読みました。父が子どもは読むべきではないと禁じていた本まで……。読書が唯一の娯楽だったと言っていいでしょう。でも、今の子どもたちは練習に明け暮れて、本を読む時間がありません。そういう子どもたちが真の芸術家になれるのか、音楽の中でさまざまなことを考え、自分自身の音楽をつくっていけるのか……、私は少し危惧しています。
もちろん今の子どもたちの演奏能力は、当時の私よりはるかに優れています。リスト編曲の《ドン・ジョバンニの回想》、ショパンのエチュード作品10-2など、なんて難しい曲だろうと思ったものですが、今では附属中学の1年生でも弾けます。それもきわめて完璧に美しく……。でも、その「完璧さ」は、先生に教えられ、彼らが必死に練習して達成したもので、彼らが自分の頭で考え、生み出したものではありません。私たちが頭の中でこう弾きたいと思っても、指の訓練が追いつかなかったのとは反対に……。私たちの時代とはあまりにも違うので、一概に語ることはできませんが……」

飛躍的な経済発展にともない社会全体が功利主義的になっていることが、音楽教育に与えた影響も大きいと語る。

「うまく言えないのですが、音楽というものは、学べば学ぶほど、これは「職業」ではないと思うようになりました。中国では「職業」と考えられていますが、そこに矛盾があるように思います。音楽は精神的な世界を体現するものです。お金や名誉とは関係のない世界なのです。
学生たちには、音楽を心で感じ、自分の頭で考えられるようになってほしいと思っています。コンクールに参加する学生に、よくこんなことを言うんですよ。「自分の指、自分の技術で審査員を征服しようなんて考えてはいけない。私たち審査員は、いつもあまりにもたくさんの音符を聴いているので、どんなに弾けても征服することはできない。征服するのではなく、感動させることができたらいいね」と。
ピアノの音は減衰するので「歌う」ことは難しいのですが、私は指導する上で、ピアノで歌うことを一番大切にしてきました。ピアノで歌うことができれば、聴く人は心地よく感じ、感動してくれます。それは、私自身が目指している方向でもあります」

忙しい指導活動の傍ら、演奏家としても活躍してきたウー・イン氏。近年は、夫人のシャオ・タン(邵丹)さん、娘のウー・ペイシー(呉培希)さんと、デュオやソロを組み合わせたコンサートを各地で開催し、好評を得ている。

「妻、娘との3人のコンサートは、これまで知らなかった作品に触れることができ、新鮮で楽しいです。素敵な2台ピアノや連弾の作品がたくさんあります。ユーモラスな曲、可愛らしくチャーミングな曲、優美な曲など……、ピアノ演奏の楽しさ、アンサンブルの喜びを伝えられたらいいなと思います」

現在、中国を代表する演奏家・教育者として多くの国際コンクールの審査員に招かれているウー・イン氏。コンクールの審査をしていて、複雑な想いが胸を交錯することがあると語る。

「欧米の音楽家と一緒に国際コンクールの審査をしていると、彼らは若いアジアのコンテスタントの新鮮な才能や技巧を高く評価する傾向にあるように感じます。たしかにテクニックは大きな武器です。しかし、私は音楽は歌うもの、あたたかく美しいからこそ人々を感動させるのだと思っています。作品への理解、演奏スタイルも重要です。そういう意味で、クラシック音楽の本場の欧米の審査員たちがアジアのコンテスタントを高く評価することに驚くことがあります。現在は、世界中の情報を簡単に手に入れることができるので、コンクールの演奏レベル、作品の解釈、演奏スタイルが均質化してきたように思います。音楽は本来競うべきものではないので、審査はいつも難しいですね」

2018年11月に開催される第10回浜松国際ピアノコンクールの審査員にも招かれている。

「浜松国際ピアノコンクールのレベルはきわめて高く、アジアで一番重視されているコンクールだということはかねてから知っているので、審査員に招かれ、大変光栄に思っています。入賞たちがその後、ショパンコンクールやチャイコフスキーコンクールなど世界最高峰のコンクールで優勝していますよね。中国の学生たちの多くが、このコンクールを目標にしています。私も世界中から集う若いピアニストたちの個性と才能あふれる演奏を聴くのを楽しみにしています」

ーー1.自分で影響を受けたアーティストは?

やはり師事した何人かの先生方から受けた影響は大きいと思います。それぞれの先生が、その時期に私がもっとも必要としていた教育を与えてくださいました。その中でも、パウル・パドゥラ=スコダ先生の影響はとくに大きかったと感じています。スコダ先生のレッスンは、中国で師事した先生のように細部にわたって注意するような指導ではなく、多くは語ってくださいませんでしたが、そのおかげで自分自身で考えることの大切さを学びました。
また、私は成長の過程で、さまざまなピアニストの演奏に心を惹かれ、影響を受けたと感じています。子どもの頃、大好きだったのはホロヴィッツです。もちろん今でも大好きですが……。マルタ・アルゲリッチに夢中になっていた時期もあります。内田光子のモーツァルト、シューベルト、ドビュッシーも大好きです。グレン・グールドにも魅力を感じます。彼のように演奏しようとは思いませんが、録音を聴くたびに啓発されます。そして、フリードリヒ・グルダ。彼も変わったピアニストでしたが、自由闊達で洗練されたウィーン古典派作品の演奏など、素敵だなと思います。

ーー2.ヤマハのピアノに対するイメージと印象は?

長年弾く機会はありましたが、コンサートではあまり弾いていません。私がコンサートで弾くときに出会ったヤマハのピアノは、明るく華やかな音色に特徴があるように思いました。そして、いつも安定していて、信頼感があります。あたたかく柔らかく歌うベーゼンドルファーの音色や響きも大好きです。

ーー3.あなたにとってピアノとは?

難しい質問です。私にとって音楽はあまりにも大きな存在で、それをピアノで表現しようと思っているのですが……。私の音楽に対する気持ちは、信仰に似ていると思います。膝まずき、すべてを捧げるような気持ちで向き合っています。絶対におろそかにしてはいけない、心から崇拝し、真剣に向き合うべき存在、それを体現するのが、私にとってピアノなのだと思います。

ーー4.印象に残っているホールは?

中国では、広州の星海音楽ホールが好きです。ステージでオーケストラと一緒に演奏するとき、すべての音をコントロールしているという感覚を持つことができるのです。必死になってこうしよう、あぁしようと思わなくても、ほしい響きをつくることができ、聴衆とのコミュニケーションが自然にできます。国外で印象に残っているのは、ルーマニアのジョルジュ・エネスク国際音楽祭で演奏したアテネ音楽堂です。

ーー5.ピアノを学ぶ(楽しむ)方へのメッセージ

まず言いたいことは、ピアノを学ぶことを職業のひとつの選択肢のように考えないでほしいということです。音楽家というのは、職業ではないと思うのです。音楽を愛し、音楽に自分の気持ちを託すことができたらいいですね。結婚式での誓いの言葉のように、健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、富めるときも、貧しきときも……、ずっと音楽と一緒に生きていこうと思えたら、素敵だと思います。こんなメッセージでいいでしょうか(笑)。