この記事は2012年3月27日に掲載しております。
古典と現代を見事に融合させ、毎回鮮烈なパフォーマンスを繰り広げるピアニスト、フランチェスト・トリスターノ氏。 日本が大好き!と目を輝かせ、6月のヤマハホール公演や秋にリリース予定のアルバムの制作について最新のインタビューをお届けします。
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フランチェスコ・トリスターノ - フランチェスコ・トリスターノ・シュリメは、2004年のオルレアン(フランス)20世紀音楽国際ピアノコンクールで優勝、またルクセンブルク・フィルハーモニーによりヨーロッパコンサート協会の「ライジングスター」ネットワーク・アーティストに選出され、主にヨーロッパとアメリカを中心に精力的に活躍している。現在、ラ・ロック・ダンテロン国際ピアノ・フェスティヴァル、ルール・ピアノ・フェスティヴァル等著名な音楽祭に参加。またヨーロッパ、アジア、南アメリカの多くの演奏会でソリストとして演奏活動を行っている。2000年、19歳でミハエル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団とアメリカ・デビューを果たす。以来、ルクセンブルク・フィルハーモニー管弦楽団、リール国立管弦楽団、王立ワロニー室内管弦楽団、ニューヨークの新ジュリアード・アンサンブル等と演奏。また、これまでにミハエル・プレトニョフ、クラウス・ペーター・フロール、エマニュエル・クリヴィヌ等の著名指揮者と共演。
2001年、自らソリスト・指揮者として演奏する室内オーケストラ、ニュー・バッハ・プレイヤーズを設立。2004年、ルクセンブルク大劇場とブリュッセルのボザール劇場でヴィヴァルディの「四季」のピアノと弦楽のための編曲版の演奏会を開催し指揮とピアノを弾く。
幼少より作曲と即興に親しみ、例えば「それでも地球は動く」と「ヴィオラとチェロのためのソネット」はクラシック・スタイルの初期の作品である。現代の様式にも触発され、ソロ・ピアノやジャズ・アンサンブルのための曲も作曲している。また一方ではテクノ音楽の活動も行っている。
2001年の初レコーディングではバッハの「ゴルトベルク変奏曲」を、その後ニュー・バッハ・プレイヤーズとバッハの鍵盤の協奏曲の全チクルスをワルシャワで録音。2005年、フランスのSisypheレーベルからルチアーノ・ベリオの全ピアノ作品の録音をリリース、2006年、ペンタトーン・クラシックからミハエル・プレトニョフ指揮ロシア・ナショナル管弦楽団の共演でラヴェルのト長調の協奏曲&プロコフィエフの第5番の協奏曲をリリースし各誌で絶賛される。2007年Sisypheレーベルからジロラモ・フレスコバルディの12のトッカータ(第1集)をリリース。
2010年2月の来日では全国で6公演を行い大成功を収める。同年3月、ユニバーサル・クラシック&ジャズ(ドイツ)と専属契約を交わし、2011年3月にバッハ、J.ケージ、自作の新曲でドイツ・グラモフォンからCDをリリースした。
1981年、ルクセンブルク生まれ。ルクセンブルク音楽院、王立ブリュッセル音楽院、ラトヴィア音楽アカデミー、パリ市立音楽院で研鑽を積んだ後、1998年ジュリアード音楽院に入学、そこで修士の学位を得る。
※上記は2012年3月27日に掲載した情報です
ぼくはピアニストよりも音楽家と呼ばれたいのです。
1981年ルクセンブルクに生まれたフランチェスコ・トリスターノは、クラシックからジャズ、テクノ、コンテンポラリー、自作まで幅広く演奏し、しかもそれぞれの分野で高い評価を得ているピアニストである。
彼は5歳のときに母親からJ.S.バッハの「アンナ・マグダレーナ・バッハの音楽帳」の楽譜をプレゼントされ、美しくシンプルな「メヌエット」に魅了された。それ以前にピアノを習いたいと思っていたのだが、みんなに早すぎるといわれていた。
「でも、5歳で楽譜を見ながらこの『メヌエット』を弾いてみせたら、ようやく習わせてもらえることになった。以後、ぼくにとってバッハの音楽は日々の糧となったんだ。いまでは、一日の始まりに必ず何かバッハの曲を弾き、新たな日の始まりとする」
12歳のときにグランドピアノを買ってもらい、それからはピアノとともに歩み、ピアニストになりたいと思うようになった。
「当時はまだあまり熱心に練習する子どもではなかった。でも、グランドピアノがきてからというもの、ピアノの音の質感にとても刺激され、音域の幅広さに魅せられた。それで、もっときちんと練習しなくちゃと思ったんだ(笑)。でも、あまりにも集中して練習しすぎたため、からだを壊し、腕や背中を痛め、自分のからだの限界を知ることになった。子どもというものは、こうして自分の限界を知り、それに対処することを学んでいくものなんだよね。ぼくも練習の仕方を考え直した」
そのかいあって、13歳で初リサイタルを開く。その後、ルクセンブルク音楽院に進み、王立ブリュッセル音楽院とラトヴィア音楽アカデミーで学び、パリ市立音楽院でも研鑽を積む。そして1998年にニューヨークのジュリアード音楽院に入学、ここで修士の学位を取得している。
「ぼくは幼いころから仕事をする母の背中を見て育った。母は忙しかったので、ぼくは休日のランチを作ったりしていた。だから、いまでも料理は得意なんだよ(笑)。母が大の旅好きだったため、いろんな土地に旅することができた。両親は音楽家ではないけど、音楽を深く愛し、母方の祖父母は南イタリアの出身で、祖父はアコーディオンやバンドネオンを演奏していた。こうして子どものころから世界中を旅していたため、それがぼくの音楽にも大きな影響を及ぼし、いろんな土地の学校で音楽を学ぶことにつながったのだと思う。一箇所にとどまらないという精神を生み出すことにもなったし…」
このコスモポリタン的な精神が、トリスターノの演奏にも大きな影響を与えている。彼のピアノは自由で自然で開放的。次に何が飛び出すのか想像できない即興性も魅力だ。
「ぼくはピアニストと呼ばれるよりも、音楽家と呼ばれたい。ひとつの枠にはめられたくないし、自分を自由に表現できる手段であれば、演奏の分野は問わない。作曲するときもジャンルを意識したことはないし、自分が感じたままを素直にそのまま綴っている。ただし、まわりは何かのカテゴリーを作りたがり、ぼくの曲はミニマル・ミュージックだというけどね」
トリスターノのピアノは、いずれの作品を演奏しても、どこかに静謐な空気がただよっている。急速なテンポ、躍動するリズム、嵐のような強音、疾走するような主題を演奏するときでも、そのピアニズムの奥には不思議な静けさが宿り、聴き手の心をとりこにする。
これまで何度か来日したことがあるが、2010年2月下旬の来日公演は各地で大喝采を浴びた。このリサイタルはレパートリーの根幹をなすJ.S.バッハの「フランス組曲第6番」とストラヴィンスキーの「ペトルーシュカからの3楽章」をメインに据え、自作とハイドンを加えるという多様性を表現する選曲。
次いで2011年6月に行われたリサイタルでは、J.S.バッハとジョン・ケージ、オルランド・ギボンズの作品を組み合わせて演奏した。
「ぼくは古い音楽と新しい作品を組み合わせてプログラムを作ることにしている。特にバロック音楽が好きで、それらを現代の解釈で演奏することに意義を見出しているんだ。クラシック音楽は、長い間かけて受け継がれ、培われ、現在に至っている人類の宝。もちろん、バッハやモーツァルトの時代にはクラシック音楽ではなく、それらはみな現代音楽だった。そうした時間と空間を経て伝わってきた音楽を現代に生きるぼくたちが演奏する場合、当時とは異なる解釈があってもいいのではないかと思う。ぼくはそれを実践しているつもり」
現在は、世界各地で年間80公演を行い、こうしたプログラムを披露している。そして時間の許す限り作曲も行い、次なるプロジェクトに向かってじっくりと歩みを進めている。
「3月には、京都でドイツ・グラモフォンのセカンド・アルバムを録音することになっているんだよ。デビュー・アルバムも自分の希望する選曲で思いっきり自由にレコーディングできたけど、今度はヤマハのCFXを使って収録することになっているので、いまから本当に心が高揚する思いにとらわれている。曲目はまだ発表できないけど、デビュー・アルバムで経験したこと、学んだことを生かし、もっといい演奏ができるよう最大限努力するつもり。また、古い音楽を新しい解釈とテクニックを用いて紹介するから、期待してて!」
ピアニストは、ふだんは部屋にこもってひたすら練習に没頭し、それをステージで披露する。その二面性に慣れるのはとても難しく、大変なことだという。
「本当にこれは対極にある生活だと思うんだ。日々練習に時間を費やし、孤独な生活をしているわけだけど、そこから一転して輝かしいステージに出ていくわけでしょう。最初はこのギャップになかなか慣れず、スイッチがうまく切り替わらなかった。僕はコンピュータを使ってミキシングなどもするから、それも穴倉生活のよう。でも、いまはその極端な生活が楽しいし、スイッチが簡単に入るようになった。なんでも経験を積むことが大事なんだね。でも、3年前だったら、いまの数のコンサートはこなせなかったと思う」
その経験は、演奏の成熟度にもつながっていると彼は考えている。演奏すればするほど、上達すると実感しているからである。
「たとえば、ツアーで短期間に10回コンサートがあるとするでしょ。これは大変だけど、月に1度だけ演奏するよりも、気分的にはずっと楽なんだよ。いまはそういう状況に慣れたし、自分をコントロールする術も心得ている。昔は、からだと精神のバランスを保つのに苦労したこともあるけど、いつどんなときにどうやって集中したらいい演奏ができるかを、経験から学ぶことができたから」
実は、トリスターノは2010年の事実上のデビューとなる日本公演の1カ月前は、ヨーロッパの仕事をすべて断り、日本での演奏のために練習に没頭した。本人いわく「指も頭も心も集中した」そうだ。
彼は大の親日家で、何度も来日しているが、そのつど日本語の単語が増え、和食の好みが広がっていく。最初は銭湯を好み、布団で寝ることを希望していたが、最近は秘湯巡りにまで発展した。揚げ出し豆腐やユズ胡椒に舌鼓を打ち、いまでは日本のものはなんでも食べられるそうだ。そして昨年の震災に心を痛め、自分ができることは何でもしたいと考えている。どこでも要請されれば、演奏に出向くという。
「日本は大好きで、心が落ち着く。聴衆はとても熱心に静かに聴いてくれるし。ぼくはどこに行ってもだれとでも平気で親しくなれるので、ヘンなガイジンと思われているみたい(笑)。最近、オリーブオイルにぽん酢を入れてみたら、すごくおいしくて大発見だと思っている。これは野菜やパスタ、リゾットにかけてもいいし、ヘルシーでしょ。ルクセンブルクの料理はみんなバターをたっぷり使うので、ぼくは苦手だけど、和食はいいよねえ、あっさりしているから」
子どものころからのコスモポリタンとしての生活は、6カ国語が堪能ということにつながった。いまでは日本語を学びたいと、意欲満々。片言を話しては、笑いを生んでいる。
「ぼくがピアノを弾くのは、指が求めているから。さまざまな語学を学んでいるのは、人々とコミュニケーションしたいから。よく音と音の間が絶妙だといわれてうれしいと感じているけど、これは休符も音楽だと思っているから。ぼくは内声に深く入り込んでいく音楽が好きなんだ。表面的な演奏ではなく、味わい深い音楽が表現できるピアニストになりたい。それが聴いてくれる人たちひとりひとりの心のなかに沁み込んでいくと信じているから」
Textby 伊熊よし子
※上記は2012年3月27日に掲載した情報です