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松居 慶子 さん(Matsui Keiko) 心に残るメロディーをファンにささげ続けたい。 この記事は2014年12月15日に掲載しております。

1987年、アメリカでデビューして以来、世界のコンテンポラリー・ジャズ界の中心で活躍する松居慶子さん。美しいけれど芯があって、凛とした曲の数々は世界中のファンを魅了し続けています。今回は、そんな松居さんの音楽体験にまつわる想い出や、今後の活動の展望など、お話を伺いました。

Profile

pianist 松居 慶子

pianist
松居 慶子
東京生まれ。ピアニスト・作曲家
1987年全米デビュー。ビルボード誌コンテンポラリー・ジャズ・チャートで日本人として初の首位獲得を始め,米国にて様々な賞を受賞。
自身のコンサート以外に,チャカ・カーン,フィリップ・ベイリーとの全米ツアーやボブ・ジェームス、ヒュー・マセケラ、パティ・オースティン等、世界を代表する数々のアーティストとも共演。'02年には米大統領の歓迎レセプションに出席、'04年Newsweek紙の「世界が尊敬する日本人100」へ選出。日米交流150周年記念に外務大臣賞を受賞するなど文化人としても評価が高い。乳癌撲滅キャンペーン、骨髄バンクプログラム、WFPアフリカ飢餓救済プロジェクト等、社会的にも音楽を通じ貢献。
ロサンゼルスで行われたニューヨークのテロ被害の救済と平和を願う為のチャリティ・コンサート「A Wave of Peace」に日本人として唯一招聘され、スティービー・ワンダーやケニー・Gらと共に共演。
東日本大震災復興支援アルバム「Jazz For Japan」に参加。
24枚目となる最新作「ソウル・クエスト」全米発売と共に、ワールドツアーを展開中。
※上記は2014年12月15日に掲載した情報です

ピアノと、広島で出会ったエレクトーンで音楽が広がる

「母が日本舞踊を習っていて、それで私にも何かを、と5歳の時にピアノのレッスンに連れていってもらったのが、音楽を習う始まりでした。母は本当は日舞をやらせたかったらしいですが、そちらには全然興味を示さなかったようで(笑)ピアノを続けたと聞いています。バイエルから始めて、先生がソルフェージュや聴音も同時に教えてくださり、自然にそういうことも身についていきました。今から思うと、それはとてもラッキーだったな、と思います」
小学校2年生の時に父親の仕事の関係で広島で過ごすことになるのだが、ここで松居さんにとってひとつの転機が。
「広島では方言に慣れなかったり、東京から来た子が珍しかったのでしょう、いじめっ子の男の子たちと戦ったりして(笑)もう東京に帰りたい、と思って、当時のピアノには涙の跡がついていたくらいでした。
そんな時に、エレクトーンでクリスマスソングを弾きませんか?という内容のヤマハ音楽教室のチラシが学校で配られ、どうしてもエレクトーンが弾きたくなった私は、母に『お願い!クリスマス会まで!』と懇願したんです。 でも、そこでエレクトーンを弾いたら楽しくて、習ってみたいと思いました」
ピアノも絶対やめないから・・・と母と約束してヤマハでエレクトーンのレッスンも受けるようになった。 「ピアノをやっていたので楽譜を簡単に読めて、すぐにコンクールに出場したり・・・。『聖者の行進』とかも弾いて、これがジャズだと当時は知りませんでしたが、いろんな音楽に触れるきっかけになりましたね」
その頃から、映画音楽やオスカー・ピーターソンのレコードなども聴いて楽しむようになったという。「それで、遠足とか楽しいことがあった時に、日記の代わりではないですけれど、自分でも小さな曲を、作曲するようになりました。当時はまだミュージシャンを目指していたわけではないですけれど、小学校の学芸会ではミュージカルのための曲を作ったりもしましたね。
その曲は憶えていないのですが、以前広島でラジオ出演した時に、局に当時の友人から『あのミュージカルの曲、今でも憶えていますよ』とFAXをいただいて、嬉しかったですね。学校では学級委員もやったり、楽しいことはたくさんありましたが、そこにいつもピアノはありましたね。エレクトーンを通じていろんな音楽と出会えたのもいい体験でした」

デビュー、そして世界へ

 その後もヤマハでのレッスンは続け、高校生になると、北大路欣也主演の映画『漂流』に音楽の制作チームの一員として参加し、テーマ曲を作曲するなど、音楽活動の比重が大きくなってきた。またヤマハオーディオのサンプル曲のレコーディングで訪れたアメリカ・ロサンゼルスでは、ベーシストのネイザン・イーストやドラムのヴィニー・カリウタなど、現在でも第一線で活躍するアーティストたちと共演する機会も得た。
「その時に、スタジオで音楽を生み出す喜びというか、言葉の違いを乗り越え音楽で会話する楽しさを知りました。ネイサンたちとは今でも友人として繋がっていて、お互いに、新しいアルバムができたり、何か賞を獲ったりする度にお祝いのメールをかわしたりしています」
1987年には、彼らと共にファースト・アルバム『水滴』をレコーディングし、発表する。これが全米メディアで絶賛され、一躍コンテンポラリー・ジャズ界注目の的に。「車に乗っていたら、いきなり自分の曲がラジオから流れてきて、ビックリしたのを憶えています。アメリカで初めてのライブをサンタ・モニカの〈at my place〉というライブハウスで行ったのですが、アルバムに参加し、そのショウにも参加してくれたシンガーのカール・アンダーソンが開場前に『ケイコ、もう外に何ブロックもオーディエンスが並んでるよ』って。新鮮な驚きでした」。
ライブの場はアメリカ西海岸から、徐々に全米へも広がっていく。
1991年にはパティ・オースティン、ジェームス・イングラムとの全米ツアーを行い、アルバムも発表するごとにチャートインするなど、アメリカでの人気は不動のものとなっていく。
そして、その人気が大きくアメリカ国外へも広がるきっかけとなったのが、制作したコンサート映像が、1998年にアメリカの公共放送局PBSで取り上げられたこと。サンフランシスコで行われたコンサートの模様のほか、広島の厳島神社で狂言師の野村万之丞とコラボレーションしたライブも収録されていた。この番組はヨーロッパをはじめ世界各国で放映されたのだ。
「その頃から自分の曲がひとり歩きを始めたんです(笑)。その年に初めて南アフリカでライブを行ったのですが、スタッフが『ケイコは向こうで大スターだから楽しいよ』って。そんな訳ないでしょ、と思っていたのですが、現地に着くと空港に横断幕も出て歓迎されて、ライブでは、みんな曲を演奏に合わせて歌ってくれるんです。メロディーをハミングしてくれるような感じで。よくよく聞いたら、その番組が放送されていたらしいんですね」

子どものための活動は、これからのライフワーク

さて、松居さんが今後のライフワークのひとつとして考えているのは、子どもたちのためのチャリティー活動。
「今年初めてペルーに行ったのですが、リマ郊外の水や電気も届かないような貧しい地域で、子どもたちが非行に走る代わりに音楽に興味を持って希望を見つけてもらえたら、と3回のワークショップをしました。現地で手配してもらった小さなキーボードで、自分が左手で伴奏を弾いて、右手で子どもの指をもってメロディーを弾いてもらったりしました。チャリティーコンサートも行いました」
そこで感じたのは、音は人と人をつなぐ魔法だということ。「自分はいま元気で、世界中を旅してまわることもできている。音楽で平和な空気を増やしたい。これは自分のミッションだと思いました。次回はパラグアイからお話をいただいているので、行きます。その時はイグアスの滝まで足を延ばして、そこで新しいアルバムの曲のためにインスピレーションを得られたら、とも思っています」

音楽があったから、ここまでやってこれた

「私は音楽を聴きながら勉強できるような器用なタイプではでなくて(笑)、同じように、ツアーが終わらないと、次のアルバムのことは考えられないんです」
何世紀経っても新鮮で世に残るような、人の心に残るメロディーを書きたい。この想いは音楽活動を始めた時から変わらないという。はたしてそのメロディーたちは、どうやってできるのか。
「ツアーが終わると、アルバムを作り始める前に、モチーフを集めたりする時間を作るのですが、ピアノの前に座って、だけど弾かずに、メロディーが聴こえてくるのを待つんです。とても神秘的な時間で、大切にしています」
以前、ファンから「ケイコの曲を聴くと、魂のふるさとを感じる」という手紙をもらったのが印象深いという松居さん。そういうメッセージをもらうたびに、自分の音楽がどれだけの人の人生に関わっているかを知らされ、ファンによって自分も生かされていることを実感する。
「生きていれば、辛いこともあります。だけど自分がここまでやってこれたのは、ライブがあったからだと思います。待っていてくれる人がいたから続けてこられたし、何か大変なことがあったとしても、ステージには戻っていった。その結果、自分はいま幸せだと思えるので、音楽をやっていて良かったな、と思います。コンサートでメロディーを観客にささげるのは、私のミッションなんです」

Textby 日暮尚実

松居 慶子 へ “5”つの質問

※上記は2014年12月15日に掲載した情報です