この記事は2009年4月13日に掲載しております。
この3月にショパン・シリーズ2枚目のアルバム「スケルツォ」をリリースされた宮谷さん。ピアニストとして経てこられた様々な経験と10年に渡るプロジェクトにかけた情熱を探っていきます。
- pianist
宮谷 理香 - 金沢に生まれる。桐朋学園大学卒業。
95年第13回ショパン国際ピアノコンクールに第5位入賞、一躍注目を集める。松岡貞子、アンジェイ・ヤシンスキイ、ピオトル・パレチニ、ハリーナ=チェルニー・ステファンスカ、園田高弘の各氏に師事。
第23回日本ショパン協会賞、他受賞。05年日本ショパン協会主催ショパンコンクールの審査員を務めた。現在2010年ショパン生誕200年に向けた連続企画「宮谷理香と廻るショパンの旅」等のリサイタルの他、レクチャーコンサート、室内楽、学校公演など幅広い音楽活動を展開し、その自然で知性あふれる音楽性が高い評価を得ている。08年12月に初の著書「理香りんのおじゃまします!~ピアニスト万華鏡」発売。これまでに5枚のCDをリリース。前作「BALLADE~Rika Plays Chopin」がレコード芸術(08年5月号)誌上にて準推薦盤の評価を得た。09年3月シリーズ第2弾CD「SCHERZO~Rika Plays Chopin」を発売。
宮谷 理香オフィシャルサイト
※上記は2009年4月13日に掲載した情報です。
ずっと離れずにやってきたショパンだからこそ、できるようになった表現があると思います。
辿り着いてこそ、見える情景がある。到達してこそ、吹く風がある。それを眼前に近付いてきたとき、人はどんな心境に至るのだろう。
ピアニスト、宮谷理香による10回のリサイタル・シリーズ「宮谷理香と廻るショパンの旅」が、今年で第9回を迎えた。このシリーズは、1995年の第13回ショパン国際ピアノコンクールで第5位に入賞した宮谷理香が、デビュー5周年の2001年から毎年ショパンの誕生日である3月1日に開催しているもの。初回の王子ホールを皮切りに、第2回からは会場を浜離宮朝日ホールに移して毎年連綿と続けられてきた。
「自分が単に弾きたい楽曲を並べるのではなく、自分の考え方と理念を演奏会に反映できないかと思ったのがきっかけです。また移り変わる環境や時の流れの中で、音楽への愛や感謝の気持ちなど、決して変わらないもの、つまり“変化と不変”を理念として掲げ、ステージに置き換えられたらと始めました。ですから前半はショパンに繋がる様々な作曲家を、そして後半は変わらないショパンに取り組んだのです」
第1回から第4回までは、前半にドビュッシー、スクリャービン、モーツァルト、シューベルトを弾いてショパンと対比させた。第5回からは、ショパンが芸術的価値を飛躍的に高めたポロネーズ、エチュード、ワルツ、夜想曲、そしてマズルカといったカテゴリーを取り上げ、多彩な作曲家の作品を紹介して一層興味深いコンサートとなっている。
ショパン国際ピアノ・コンクールは、ピアノ・コンクールとして世界の頂点に君臨するコンクールのひとつである。5年に1回開催され、アシュケナージ、ポリーニ、ツィメルマン、アルゲリッチ、そしてブーニンなど幾多のスーパースターを輩出したことでも知られている。ショパンコンクールに出場することは、新人にとって最大の憧れであり、同時に最大の難関でもある。数多の日本人が挑戦しているが、内田光子の第2位を最高に、第6位までの日本人入賞者はこれまで10名を数えるのみである。
またショパンコンクールは、ファイナリストに選ばれただけで、世界的な注目を得るほどの権威のあるコンクールでもある。第12回の第3位 横山幸雄、第5位 高橋多佳子に続く宮谷の入賞に、日本の音楽界は沸いた。その栄誉を起点として、宮谷はピアニストへの道を歩いていくことになる。
宮谷理香は、1971年金沢に生まれた。父親の転勤により3歳で東京へ。活発で勝気な女の子だった。遊び友だちはひとつ上の兄の友人たち。木登り、手打ち野球、泥遊びなどに興ずる毎日。
3歳になると、母親の希望でクラシック・バレエを習い始めた。牧阿佐美バレエ団に附属する橘バレエ学校。毎週3回のレッスンに通った。それが彼女のクラシック音楽初体験にもなった。そして運命の楽器、ピアノと出会う。
ピアノを習ったのは5歳からだ。近所の教室に通ったが、最初からドイツ音名を用い、実技の他に週に1度ソルフェージュがある高度な教育を受けた。栴檀は双葉より芳しというが、初見で何でも弾けるという才能を発揮、根が真面目な性格も幸いして、めきめき上達していった。練習記録を○×方式で欠かさずに記し、×があると自分を許せない気質がさらに向上心に結び付いた。
小学5年生になると、桐朋学園「子どものための音楽教室」に通う。その頃には受験のための塾通いもあり、バレエ、ピアノ、ソルフェージュ等と多忙な小学生は体力を消耗するバレエを一時休むことを決意、しかし結局バレエを再開することはなかった。即ち彼女は、ともに人生を歩むパートナーとしてピアノを選んだのである。
その後桐朋学園高校、同大学に進んだ彼女は、敢えて言えば平々凡々、伸び伸びと過ごした。日々真面目に研鑚を積んではいたものの、特に理想とするビジョンもまだ持ち合わせてはいなかった。
けれども転機はいつだって唐突にやってくる。大学2年の夏、先生の薦めでザルツブルクでのセミナーを受講したのである。それまで与えられた課題をこなし、試験に臨むだけの生活。それが世界中から集まってきた強い志を持った同年代の学生に触れ、その価値観に目を見張らされた。
「本当に驚きました。明確に将来の目標を語る人、目的のためにセミナーをどう利用するか考えている人、日本の音大生とはまったく異なる人たちに出会ってびっくりしたんです。演奏に対しても必然性があるんです。私にはそれはなく、習い事の延長だったので、自分を客観的に見る視点を持つことができたと思います。そのセミナーはオーディションに受からないと聴講生で終わってしまいます。それではせっかく来た意味がありません。それまでの私は、高いハードルに挑戦するタイプではなく、石橋を叩き過ぎて割っちゃうタイプ。今は叩くのを忘れちゃってますけど…(笑)。とにかくそこで、生まれて初めてピアニストになるための努力をしてみたいと思ったんです」
これを契機に、翌年も同じセミナーに参加、現在ショパンコンクールの審査委員長を務めるアンジェイ・ヤシンスキから、「あなたのエチュードは、ショパンコンクールに通用する」と言われた。忘れ得ぬ人生のターニング・ポイントであった。
そしてショパンコンクールに出場する日を迎えるのだが、そういったエピソードを綴った初の単行本を彼女は上梓した。「理香りんのおじゃまします!ピアニスト万華鏡(ショパン刊)」。生い立ちから現在までを振り返った半生が、自らの真摯な言葉で赤裸々に語られている。さらに軽妙かつウィットに富んだスタイルは実に読みやすく、宮谷理香ファンならずともぜひ触れていただきたい好著である。
「宮谷理香と廻るショパンの旅」は来年2010年、クライマックスを迎える。もとよりショパンの生誕200年となるメモリアル・イヤーを見据えてのプロジェクトではあったが、これまでをどう振り返り、そして何を思って彼女は最終回に臨むのだろう。
「当初は、最終章にまで自分が歩けるということを想像できず、いっぱいいっぱいでした。でも徐々に、私が何を想い、何を考えているかを音楽で表現するだけではなく、ピアニストとして、音楽家として、何かを発信していかなければならないと考えるようになったんです。今では私にとって、重みのある企画になりました」
有終の美を飾る第10回は、総集編となる予定。来年3月1日の浜離宮朝日ホールが今から楽しみである。加えて宮谷理香は最近、オール・ショパンによるアルバムを2枚続けてリリースした。1枚目はバラード4曲他が収録され、最新の2枚目はスケルツォ4曲他。
「ずっと離れずにやってきたショパンだからこそ、できるようになった表現があると思います。それを何か形に残していきたいと…。実は一昨年、父が突然倒れたんです。その瞬間まで元気だった人が、死の淵を彷徨った。本当にびっくりして、死は突如としてやって来るんだなと痛感したんです。幸い父は生還しましたが、もし私が今、と思ったら、これまで一生懸命やってきた演奏会では何も残らない。一番の心残りはショパンだから、その時一番のショパンを残しておかないと後悔すると思ったんですね」
ショパンに対する強烈な想いやこだわりのみならず、宮谷理香というピアニストの今のすべてが凝縮されたアルバムであり、人としてどう生きるかという精神性をも注ぎ込んだディスクである。深化し、円熟していく彼女の、今を堪能することができる。
Textby 真嶋 雄大
※上記は2009年4月13日に掲載した情報です。