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中村 紘子 さん(Nakamura Hiroko) 今のピアノが完成したのがロマン派の時代。ですから、ぜひロマン派を聴いて“胸キュン”になって欲しいですね。 この記事は2009年9月15日に掲載しております。

10代での劇的なデビュー以来、常にその名は日本人ピアニストの代名詞ともなってきた中村紘子さん。デビュー50周年を迎えた今年9月からのシーズンでは、全国47都道府県の代表都市でのリサイタルや、10枚組の記念アルバムの発売など、さまざまに意欲的な活動が予定されています。これまでの活動を振り返っていただきながら、今の心境を語っていただきました。

Profile

pianist 中村 紘子

pianist
中村 紘子
3歳で桐朋学園音楽科の前身となった『子供の為の音楽教室』第一回生として井口愛子氏に師事。10歳からレオニード・コハンスキー氏に学ぶ。早くから天才少女として名高く、全日本学生音楽コンクールの小学生部門、中学生部門と優勝を重ねた後、慶應義塾中等部3年在学中に第28回音楽コンクールにおいて史上最年少で第1位特賞を受賞。直ちに翌年、NHK交響楽団初の世界一周公演のソリストに抜擢され華やかにデビューした。その後、ジュリアード音楽院で日本人初の全額奨学金を獲得、ロジーナ・レヴィン女史に師事。第7回ショパン国際ピアノコンクールで日本人初の入賞と併せて最年少者賞を受賞。以後、今日に至るまで、中村紘子の名は日本のピアニストの代名詞となり、その演奏は国内外3500回を超える演奏会を通じて聴衆を魅了し続けている。レコーディングも活発で、1968年の40点以上の録音は、クラシックとしてはすべて桁外れの売れ行きを示している。また著書も多く、『チャイコフスキー・コンクール~ピアニストが聴く現代~』が文明論として高く評価されて第20回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞するなど、「文武両道」のスーパーレディぶりは名高い。近年は、広く国内外の若手ピアニストの育成や紹介に努め、浜松国際ピアノコンクール審査委員長、浜松国際ピアノアカデミー音楽監督等を務めるとともに、ショパン、チャイコフスキー、ロン・ティボー、ヴァン・クライバーン、リーズ、ダブリン、ブゾーニ、シドニー、パロマ・オシア、北京、上海等各国際コンクールの審査も数え切れない。さらに、「難民を助ける会」や日本赤十字等を通じてのボランティア活動にも積極的な役割を果たし、日本における「対人地雷廃絶」運動ではその先頭に立った。その長年の演奏活動に対しては、紫綬褒章、アルトゥール・ルービンシュタイン・ゴールドメダルを初めとして国内外から数多くの受賞・表彰を受けている。「デビュー50周年」を迎える今年9月からのシーズンには、全国47都道府県の代表都市でのリサイタルやN響を初めとする各オーケストラとの記念公演に加えて、『中村紘子デビュー50周年記念アルバム(10枚組)の出版など、意欲的な活動が予定されている。
「中村 紘子」オフィシャルウェブサイト
※上記は2009年9月15日に掲載した情報です。

予期せぬ感動との出会いが自分を成長させてきた

──まず、デビューからの50年を振り返っていただきたいのですが、50年は長かったですか? それとも短かったとお感じになりますか?

 長かったか短かったかと、何とも申し上げられない気持ちですが、この50年の間に私だけでなく、私を取り巻く日本と世界が大きく変わりましたね。まず何よりもソ連の崩壊という事件があり、ピアノの世界にも多大な影響を及ぼしました。また、私が学生だった頃の日本は第二次世界大戦の敗戦国として、お金のない貧乏国であり、あるゆる点で後進国でした。そんな時代と比較すると、日本で西洋音楽をやっている者に対する欧米の見方というのも、現在では大きく変化しています。そういう意味からすると、やはり長い時が経ったのかなという気がします。

──50年にわたって、日本を代表するピアニストとして活躍されてきたのは、やはり大変なことだと思います。その間、ご自身で転機になったとお考えになることはありますか?

 最大の転機は、18歳のときニューヨークのジュリアード音楽院に留学して、当時の世界最高峰の先生のお一人だったロジーナ・レヴィン先生に師事したことだと思います。日本でそれまで身に着けてきたことを、すべて根底から変えられたのです。幼いときから身に着いたメソードというのは、悪い癖ほど抜けにくくて、それを直すのは本当に大変です。ですから、レヴィン先生との出会いがなければ、今日の私はなかったという気がしています。
 そうしたメソードの改良に取り組んでいながら、なかなか直すことのできない宙ぶらりんの状態で、ショパン国際ピアノコンクールに参加しました。だから、自分としては心の中に悔いが残ったまま、意気消沈した気持ちでコンクールに出ていたのです。そこで本選まで残り、ワルシャワ・ハーモニーと共演したとき、奇跡が起きました。初めて心がぱっと開かれたような気持ちになり、とても伸び伸びと楽しく演奏することができ、それが日本人初の入賞という結果にもつながったのだと思います。それまでいくら努力しても私一人の力ではどうにもならなかったものが、ワルシャワ・ハーモニーの音楽に触れたことで劇的に変わったのですね。この50年の間に折に触れて、思いがけないところで予期していなかった素晴らしい感動に出会い、刺激を受けたことで、私自身が成長してきた。そうしたことが今日までずっと続いてきたからこそ、演奏家としてずっと活動してこられたのだと思っています。

才能、努力、そして幸運だったから50年間第一線で活躍できた
──50年にわたって第一線で活躍してこられた要因を、ご自身で挙げるとしたら?

 それはそんなに複雑なことではなくて、基本的にピアノが好きでしかたがなかったから。それと、健康に恵まれたこと。そして、大変に幸運だったこと。それに尽きると思います。

──えっ、「幸運」ですか?

 そうです。私がピアノを始めた頃は、第二次世界大戦ですべてを失った日本が文字通りゼロからスタートして、新しい価値観のもとに再生しようとしていた時でした。世界の中ではすべての敗戦国がそんなふうに復興していけたわけではないのに、日本は幸運にも大変な勢いで経済大国に成長していきました。それは言い換えると、国際的な存在感を増したということです。そういった国の成長に自分自身の成長をうまく重ねることができた。これはやはり幸運以外の何物でもありません。そういうタイミングで生まれなければ、やりたくてもできることではありませんから。今つくづく思うのですが、一人の人間がその生涯をかけて何かを達成するには、まずは才能、そして努力が必要です。でも、この二つを備えている人はたくさんいます。そこに桁外れの幸運があって、初めて可能になることなんです。私は才能には多少恵まれていましたし、自分なりに最大の努力はしてきました。でも何といっても、一番大きいのは幸運に恵まれていたこと。そんなふうに思います。だって、その通りなんですよ、本当に……。

ゴザを敷いた会場や温泉の大広間、鳩と一緒にピアノを弾いたことも
──デビュー当時のことを思い返すと、興味深いエピソードもたくさんあるのではないでしょうか?

そうですね。50年前といえば、東京にもコンサートホールと名のつくものが殆どありませんでした。私がデビュー・リサイタルを行った上野の東京文化会館でさえ、オープンしてまだ1年目だったんです。その一方で、左翼的な文化運動組織として労音という音楽鑑賞団体ができ、1960年代には全国に60万人もの会員を擁するようになりました。その全盛期に私が演奏活動を始められたのも、私にとっては幸運だったと思います。例えば北海道だけでも、何十という数の演奏会を開かせてもらうことができたのです。でも、会場はその町一番の温泉旅館の百畳敷きの大広間とか(笑)、学校の講堂、体育館などでした。そんな滅多に演奏会など開かれない場所でピアノを弾くと、会場はもう超満員で、皆さん本当に感動してくださいました。そして、「ピアノって、生で聴くとこんな音がするの?」「こんな豊かな音が出るものなんだ!」と、とても素朴な感想を聞かせてくださるんです。

でも、珍談奇談も多かったですよ。リハーサルでポン!とピアノを弾いたとたん、ハンマーがピョーンと空中を飛んでいったことがありました(笑)。私があっけにとられていたら、調律師の方が頭をかきながら、「いやあ、やっぱり駄目だったか!この間ハンマーが折れたので、セロテープで留めておいたんだけど……」(笑)。
また、ある会場では私がピアノを弾き出すと、鳩が「ポッポー、ポッポー」と鳴き出すんです。「困ったな」と思いながら、1曲終わって舞台袖に引っ込んだら、主催者の方が「ここの会場には鳩がいるんです。梁に巣をかけているんですよ」と得意そうにおっしゃる。それで、私も何も言えなくなり、とうとう最後まで鳩と一緒に演奏会をしました(笑)。
ゴザを敷いた会場に皆さん、30分も前から正座して待っておられ、私が出ていってお辞儀をすると、お客様も黙ってお辞儀を返してくださる(笑)。主催者の方がカーテンから顔を出して、「皆さん、いい演奏だと思ったら、拍手をしてあげましょう」と言うと、やっとぱらぱらと拍手(笑)……なんてこともありましたね。本当にあの頃のことを思い出すと、感無量になります。その後、日本の高度成長で、全国に山のようにコンサートホールができました。そのあたりで、すべてががらりと変わりましたね。

優れた才能だけでは人々を感動させられない時代
──最近の若いピアニストには想像もつかない光景でしょうね。そしてソ連の崩壊があり、世界の演奏家事情も大きく変わりました。

 クラシック音楽の先進国であり本場であるはずの西欧の衰退というのは、1950年代から既に始まっていたのですが、国家の手厚い保護を受けたソ連のピアニストたちのレベルの高さに隠れて、あまり目立ちませんでした。ところが、1991年のソ連の崩壊とともにロシアもあっという間に西欧化してしまいました。その「西欧化」とは何かといえば、「生活が豊かなところでは職業としてピアニストを選ぶ人が少なくなる」という現象です。結果として、中国、韓国などのアジア勢が、数とレベルの両面で存在感を大きく増してきています。これからは、日本のピアニストたちがたとえ若くて素晴らしい才能を持っていたとしても、才能だけで世の中に出ていくのはますます大変になるでしょう。というのは、昔はどこかのコンクールで優勝したというだけで、みんな「素晴らしいわね!」と言って、聴きにきてもらえました。でも、今はコンクールの優勝者なんて山のようにいます。聴衆もメディアから入るさまざまな情報でしたたかになっていますから、それぐらいでは注目してくれません。それに加えて、音楽以外の話題で刺激してくれるライフストーリーのようなものがないと、聴衆は感動しません。しかも、刺激には慣れが生じますから、ますますより強烈な刺激を与えるライフストーリーを人々は求めるようになります。ピアノが大好きで、優れた才能があり、いい演奏をするというピアニストにとって、これからはますます残酷で厳しい時代になっていくでしょう。そういう時代になる前に、私は演奏家として活躍することができた。だからこそ、幸運だと思っているんです。

全都道府県を巡る記念公演と10枚組の記念アルバム
──50周年記念公演と記念アルバムについて聞かせてください。

9月から始まるシーズンでは、全国47都道府県の代表都市でのリサイタルや、N響を初めとする各オーケストラとの記念公演を予定しています。リサイタルのプログラムは既にいくつか自分で作り、各地の主催者に状況に合わせて選んでいただくようにしています。その中の一つとして、17歳のときに東京文化会館で行ったデビュー・リサイタルとほぼ同じプログラムも用意しているんですよ。
記念アルバムはCD9枚とDVD1枚の10枚セットを予定しています。全部新録音なので、収録を終えるのに2年半ほどかかりました。短期間にレコーディングしなければならなかったため、その間は脇目も振らず、まるで受験生のように過ごしていました(笑)。その最後の収録を軽井沢・大賀ホールで行ったのですが、ここで素晴らしいヤマハピアノに出会いました。てっきり私は自分のレコーディングのために、ヤマハの工場から特別に運んでくださったのだと思っていましたら、それはホールのハウスピアノだったのですね。ハウスピアノでこんなに良いヤマハピアノがあるのかと、本当にびっくりしてしまいました。そこでスタッフと相談し、もう一台置かれていたミケランジェリが使ったピアノをさしおいて、このヤマハピアノでレコーディングすることにしたんです。

そして、同ホールでの最後の録音のときは、ヤマハが新たに開発した試作ピアノを使わせていただきました。このピアノは本当に「すごかった」です。どう「すごい」かというと、自分の心の中というか頭でイメージしたその音が、手を介さないで、頭と楽器が直結したみたいになって、望んだ通りの音が出てくるのです。これほどまでに高度にセンシティブで、しかもダイナミックで力強いピアノというのは、ピアノの歴史の中でも初めてではないでしょうか。本当に素晴らしい楽器です。ヤマハピアノは既に10年ぐらい前から、とても優れたレベルに達していると感じてきました。それをさらにここまで改良できたのは、ヤマハの方々の中に私たちの想像を超えるような、いっそう良いピアノを作りたいという、大きな願望があったからこそでしょうね。

Textby 一色真理

軽井沢・大賀ホール レコーディング現場に潜入! 2009年5月11~14日

※上記は2009年9月15日に掲載した情報です。