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パスカル・ドゥヴァイヨン 氏(Pascal Devoyon) 人間の成長の手段のひとつとして音楽があるんだ、自分は音楽を喜びとして表現したいと再認識するようになった。 この記事は2011年10月27日に掲載しております。

パスカル・ドゥヴァイヨンは、世界中の若いピアニストが「レッスンを受けたい先生」として名を挙げる人気ピアニストのひとりである。ソロ、室内楽、コンチェルトなど幅広い演奏活動を行いながら、現在はベルリン芸術大学教授、英国王立音楽院客員教授として多くの生徒を抱え、多忙を極める。

Profile

pianist パスカル・ドゥヴァイヨン

pianist
パスカル・ドゥヴァイヨン
ヴィオッティー、ブゾーニ、リーズなど数々の国際コンクール入賞に加え、1978年のチャイコフスキー国際コンクールにおける、フランス人ピアニストとして過去最高位となる第2位の獲得により、パスカル・ドゥヴァイヨンの名は全世界に知れ渡ることになった。アメリカ、日本、ヨーロッパでの演奏会では揃って最高の賛辞を得ることになる。彼のレパートリーは、ベートーヴェンソナタ全曲演奏からバルトーク、メシアン、さらにはモリス オハナの作品まで、非常に幅広く多彩である。
ピアノ協奏曲のレパートリーは50曲を越え、シャルルデュトワをはじめとする著名な指揮者たちのもと、世界最高峰のオーケストラ:ロンドンフィルハーモニック、NHK交響楽団、ロッテルダムフィルハーモニック、モントリオール交響楽団、ヘルシンキフィルハーモニック、パリ管弦楽団などと共演。2006年12月にはNHK交響楽団とのモーツァルトピアノ協奏曲がCD化された。
室内楽は彼の芸術活動のもう一端を大きく担っている分野で、ドンスーク・カン、フィリップ・グラファン、スティーヴン・イサリス、タベア・ツィンマーマンをはじめとする著名な演奏家との共演も数知れない。
近年では夫人である村田理夏子とピアノデュオを組み、本格的に活動を開始。既にヨーロッパ、メキシコ、日本など様々な音楽祭から招待を受けている。またその精力的な活動の一つとして、2008年にはメシアン生誕100年を記念したCDをリリースし、続くCD“編曲の名手たち”はレコード芸術特選を受賞した。2011年にはリスト生誕200年を記念し、3枚目となるCD<リストそして悪魔>を録音。
そのほかリリースされた録音は40を超える。最近では上記のほか、フィリップ・グラファン、コリン・カー、チャールズ・ナイディックとの共演によるメシアンの世の終わりのための四重奏曲とヒンデミットの四重奏曲、ティルマン・ヴィックとの共演によるマルティヌーのチェロソナタ集、ヤン・ソン・ウォンとの共演によるベートーヴェンのチェロ作品全集、そしてNHK交響楽団とのモーツァルトなどがある。
現在ベルリン芸術大学教授、および英国王立音楽院客員教授。2003年より8年間、ドミニク・メルレ氏の後を継いでジュネーヴ音楽院教授も務めた。2011年、音楽の友社より初の著書<ピアノと仲良くなれるテクニック講座>が出版され好評を博している。
1999年より、ドンスーク・カンと共にヨーロッパ最大の講習会のひとつであるMusicAlp クールシュヴェール夏期国際音楽アカデミー(MusicAlp)の芸術監督も務めている。 2001年、フランス政府よりフランス芸術文化勲章"シュヴァリエ”を受賞。
※上記は2011年10月27日に掲載した情報です

人間の成長の手段のひとつとして音楽があるんだ、自分は音楽を喜びとして表現したいと再認識するようになった。

「私は昔から教えることにとても興味があったのです。実は、15、6歳のころから師事していた先生のアシスタントを務め、10歳くらいの子どもたちのレッスンを見ていました。先生は教えることは学ぶこと、学び続けることが大切という考えかたでしたから、私にこうしたチャンスを与えてくれたのです」
10代半ばですでに生徒に教えていたとは驚きだ。だが、子どもたちにレッスンをすることで、新たな発見も多くあった。
「教えるということは、どんなに易しい作品でも、あいまいな考えでは通用しません。自分が弾いているときになんとなくわかっていることでも、それを相手に完全に理解してもらえるように伝えるためには明確な説明が必要です。さらに初心者がどうしても弾くことができないところに関しては、なぜ弾けないのかと私が自分に問い正す。そうしたことの繰り返しがとても勉強になりました」

ドゥヴァイヨン自身は、本人いわく「先生にとっては難しい生徒、扱いにくい生徒だったんじゃないかな」。なぜなら、10代の反抗期のころはかなり反抗的な態度をとったからである。それは青春期特有の不安定な気持ちを抱え、常に自分の居場所を探し求めているような面があったからだという。
「いつも自分の存在とは何か、意志表示をするためにはどうしたらいいかを考えていました。音楽が生活のすべてでしたから、先生から演奏について自分と異なった意見や奏法を提示されると素直に従うことができなかったのです。でも、そのときは反論しても、家に戻ってから先生にいわれたことを必ず一度は試してみましたけどね(笑)。自分の意見はしっかり動かぬ柱のようにありましたが、興味深い意見は取り入れたんですよ」

彼は兄がピアノを習っていたため、4歳のころから見よう見まねでピアノの遊び弾きをするようになった。それを聴いた周囲の人たちが両親にきちんとレッスンをさせたほうがいいと提言、12歳から本格的なレッスンを受けるようになった。しかし、当時は練習嫌いでサッカーをしているほうが楽しかった。週に1度のレッスンでは直前に少し練習するだけ。だが、その割にはよく弾けるからと先生かがまん強く接してくれたのが功を奏し、次第に練習が楽しくなっていく。
「11、2歳で学校には通わず自宅学習に徹し、試験だけを受けて資格を取り、15歳でエコール・ノルマルに入学しました。翌年パリ音楽院に移り、その後もこの2つの学校の上級クラスで勉強を続けながら20歳でヴィオッティ国際音楽コンクールを受けて最高位をいただきました」
その時点でパリ・デビューを果たし、以後、ブゾーニ国際ピアノ・コンクール第2位、リーズ国際ピアノ・コンクール第3位、チャイコフスキー国際コンクール第2位と輝かしい成績を収めていく。
「コンクールで得たものは、入賞よりもいろんな国のピアニストに出会えたことが大きいですね。ヴィオッティとブゾーニではゲルハルト・オピッツが一緒でしたし、リーズでは内田光子とアンドラーシュ・シフ、チャイコフスキーではミハイル・プレトニョフと会いました。それが財産です。もちろん膨大な課題曲に集中して取り組み、作品を準備したこともピアニストとしての成長につながったと思います」

こうしたコンクール入賞を機に、さまざまなところで演奏するようになり、輝かしいキャリアが築かれていった。だが、20代のときにひとりの男性にいわれたことがいまでも頭を離れない。
「その人は、いまはうまくいっているからいいけど、それは長続きしない。キャリアというのは、最初は上から始まって最後は下で終わるといったのです。そのときは私も若かったため、なんとネガティブな考えをする人なのだろうと思っただけでしたが、いまになってみると非常に考えさせられることばです」
コンクール入賞後は、多くのピアニストが華々しい活躍をする。ドゥヴァイヨンもそうだった。しかし、40代になったとき、ある大きな壁にぶつかることになる。いつまでも仕事がくるわけではなく、音楽院の教授のポストなども簡単には得られない。マネージャー任せではなく、自分で仕事を見つけることもしなければならない。
「でも、私はそうした自分を売り込むことには向いていません。キャリアを築くことや名声を得ることにもあまり興味はなく、ただ音楽だけと対峙したいタイプなのです。ですから仕事が減ってきたときは、自分はもう以前のように必要とされなくなった、第一線ではないんだと考えてしまったのです。この思いが3年間ほど続き、ずいぶん落ち込みました。でも、あまり長くそれが続くと、演奏する喜びが失われてしまいます。それに気付き、私は人間の成長の手段のひとつとして音楽があるんだ、自分は音楽を喜びとして表現したいと再認識するようになったのです。自信が失われ、コンプレックスになる寸前で自分を取り戻し、壁を乗り越え、少しずつ前に進むよう努力をしました」
このドゥヴァイヨンの経験は、音楽家だけに限らない。多くの人が経験することではないだろうか。若いときは順調に進むことが、ある年齢に達したとき、急に歩みが止まってしまう。その壁にぶつかったとき、自分をどう立て直すか、ドゥヴァイヨンのことばは生きた経験として私たちの胸に迫ってくる。
「11月にリストの《交響詩 ファウスト交響曲》を演奏しますが、こうした演奏される機会に恵まれない作品をなんとかしてステージに乗せようと長年さまざまな努力をしています。自分の好きな作品をなんとしてでも演奏し、その魅力を聴衆と分かち合いたいと願っているからです。以前、悩んでいた時期のことを考えれば、いまはとても幸せです。ようやく自分の“本当の居場所”を見出すことができたのですから。私はこれからも自分が本当に敬愛する作曲家の大好きな作品を一生懸命演奏していこうと思っています」

今年のリスト生誕200年のメモリアル・イヤーには、数多くのリストの作品が演奏されているが、「交響詩 ファウスト交響曲」(ゲーテによる3つの性格像)は、なかでも珍しい作品として注目される。
「私はリストという作曲家に昔から魅了されています。人物が好きなのです。リストはあらゆることを体験し、その経験が音楽に投影され、奥深く肉厚な作品になっています。この《ファウスト》は、長大で技巧的に難しく、しかもテクニックと考えの合ったふたりのピアニストを必要とするため、なかなか演奏される機会に恵まれません。加えて、楽譜を見つけるのも大変です。私は15年ほど前に2台ピアノ用の楽譜を見つけ、練習を続けてきました。ファウストに関する古い映画を見たり、小説や戯曲を読み、人物像を掘り下げ、イマジネーションを広げる試みをしてきました。この作品は、ひとつの主題をもとにファウスト、グレートヒェン、メフィストフェレスという3つのまるで異なった性格のキャラクターが展開されていきます。そこがもっと興味深いところです。ふたりで演奏する場合に一番大切なのは、互いに同じ方向性を持つことです。作品の内容に関して見ている方向が同じでないと、デュオはうまくいきません。深い絶望を表現するのに、同じ感覚と方向性を持ち合わせていないと、濃密で劇的で、表現の深い音楽が生まれないのです」

 今回は村田理夏子とのデュオが行われるが、彼女に対しては自分の作品に対する深い思い入れを語ったものの、それ以上要求することは避けたという。
「自分のなかでは明確なイメージがあるのですが、それを相手にも要求してしまうと、相手のピアニストのイマジネーションをつぶしてしまうことになりかねない。それは避けなければなりません。あくまでデュオなのですから、各々の自由と創造性を大切にしたいと思っています」
この思いやり、柔軟性に富む深い心遣いがドゥヴァイヨンの人間的な温かさにつながるように感じられる。彼のレッスンもとてもきびしいものだが、その奥にひとりひとりの生徒を大切にする気持ちが潜んでいる。それゆえ、弟子入りを志願する人があとを絶たない。ドゥヴァイヨンのレッスンを聴講した人の多くがこんなことばで評する。
「彼はその生徒に必要なポイントをつかむことがとてもうまい」

ドゥヴァイヨン自身は、10代半ばから教えることを始めたため、非常にこの仕事に誇りを持っている。そして教える際のモットーは。
「私は自分がこう弾きたいからそれを教えるということはしません。その生徒のためになることを指導するというのが一番大切」
ただし、大好きな教える仕事にもひとつだけ大変なことは存在する。それは自分がコンサートで弾くために準備している作品をたまたま生徒がレッスンに持ってきたとき、自分はこう弾きたいと考えて集中して練習しているため、それを押しつけてしまうことにならないかと懸念することである。
「どんな作品にもいえることですが、コンサートで演奏するためには全身全霊を傾けなければなりません。ですから、ときにはそういう難しさも出てくるわけです。でも、ピアノはいつも私の助けになってくれるので、大抵は大丈夫ですけどね(笑)」
反抗期、壁にぶつかった時期を超え、いまドゥヴァイヨンはおだやかな語り口で好きなリストについて幸せそうな表情をして話す。彼は「私は前世は日本人だったんだよ」と笑いながらいうほどの日本通。和食と日本酒に目がなく、勤勉さと人の和を大切にする。11月17日の「ファウスト」でも、2台のピアノが息の合った雄弁な音の対話を繰り広げるに違いない。

Textby 伊熊よし子

パスカル・ドゥヴァイヨン へ “5”つの質問

※上記は2011年10月27日に掲載した情報です