この記事は2014年3月10日に掲載しております。
2013年8月、第59回の「ブゾーニ国際ピアノコンクール」で、日本人としては12年ぶりに第3位入賞を果たした崎谷明弘。このコンクールは1949年に創設され、これまでにアルフレート・ブレンデルやマルタ・アルゲリッチなど、世界的に著名なピアニストを多く輩出してきたという歴史を持つ。今回は第1位の該当者なしで、2位が1名、3位が崎谷のほかにもう1名。第1位を選定する基準が厳しいため、かなりの実力がなければ入賞することのできないこの質の高い難関コンクールで、その実力を示した。さらに崎谷は、2013年12月にヤマハフルコンサートグランドピアノ「CFX」で演奏した「ベートーヴェンのピアノソナタ全集の第1巻」を発売。第1巻は「ピアノソナタ第1番、第2番、第3番」、以後32番まである全曲を収録し、全11巻の全集として順次発表していくというプロジェクトを始動させた。着実に基盤を固めつつ、新しい世界へとその一歩を踏み出した25歳の気鋭ピアニストの足跡を辿る。
- pianist
崎谷 明弘 - 1988年生・神戸市出身。6歳よりピアノを始める。ヤマハマスターコース/県立西宮高校音楽科を修了後、渡仏し、国立パリ高等音楽院にて入学時から卒業時まで満場一致の首席の成績を修める。ピティナ・ピアノコンペティション特級や日本音楽コンクールをはじめとする国内コンクールに上位入賞、全日本学生音楽コンクール、カラブリア国際ピアノコンクール、リヨン国際ピアノ国際コンクールで優勝を果たし、2013年には第59回ブゾーニ国際ピアノコンクールにて1位なしの第3位に入賞する。近年は欧州と日本を中心に精力的な演奏活動を展開。大阪交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団、ハイドンオーケストラ等と競演多数。現在東京藝術大学修士課程在籍。 これまでに渡辺純子、鳥居知行、クラウディオ・ソアレス、荒木美佳、ジャック・ルヴィエ、迫昭嘉の各氏に師事。'08~'10年度ヤマハ音楽支援制度奨学生。
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※上記は2014年3月10日に掲載した情報です
基礎を築いてくれた師たちとの出会い
崎谷は、6歳のときに母親の勧めでヤマハ音楽教室のジュニア専門コースに入る。(幼児科入学時は4歳で、ピアノは習っておりませんでした)
“ピアノを弾きたい”という自発的な気持ちがあって始めた訳ではなかったため、続けてこられたのは「辞めるきっかけがなかったから」だと語る。そんな崎谷を導いてきたのは、次々と出会ってきた指導者たちだった。彼に気づきを与え、その能力を最大限に引き出してきたのだ。
「僕は先生にとても恵まれています。最初に指導を受けた渡辺純子先生には、僕の“想像力”を養っていただいたと思います。演奏する曲がどのような場面なのかを具体的に話して、音楽を物語にしてくださるレッスンだったので、とても曲の世界のイメージが広がりました。先生は作曲を専攻なさっていた方なので、「JOC(ジュニア・オリジナル・コンサート)」にとても力を入れていらっしゃいました。先生の勧めで、小学校の3、4年生の頃、JOCのためにジュール・ヴェルヌの『神秘の島』を題材にして作曲したことがあります」
崎谷は音楽を聴くことのほかには読書が好きで、当時はジュール・ヴェルヌなどの児童文学を好んで読んだ。その後、推理小説を読むようになり、最近は『三国志』などの時代小説が多いという。崎谷は本を読むことで、「どう構成するか」ということにも関心を持つようになった。渡辺のもとで育んだ想像力で、演奏するイメージを持ち、それを決めたら、どう計画し、どう構成していくかを目指すようになったという。崎谷の“引き出し”は、その後についた師からも次々と増やされていく。
「鳥居知行先生から教わったのは“手の脱力”。堅くなっている部分をほぐすようなトレーニングをしていただきました。クラウディオ・ソアレス先生には、それまで積み重ねてきた音楽の基礎を演奏家としてどう繋げていくかということを叩き込んでいただきました。それは“自分の中に持っているものを情熱的に外に出す”ということ。ソアレス先生のもとで、7年間学ばせていただいたことが、今の僕の軸になっていると思います。荒木美佳先生は、ソアレス先生との意思の疎通を助けてくださって、男子が一人しかいなかった僕の高校生活もケアしてくださいました。今でも親しくさせて頂き、レパートリーの相談をさせていただくことがあります」
ピアニストとして生きる決断
良き指導者に導かれたこれまでの歩みを、崎谷は「学びに対して無駄な時間がまったくなかった」と振り返る。そんな彼がピアニストとして生きる決心をしたのは高校生のとき。このときもまた、崎谷の人生を変える師との出会いが、彼をこの決断へと導いたのだった。
「2005年にピティナ・コンペティションの全国決勝大会で“ジャック・ルヴィエ特別賞”をいただき、ルヴィエ先生と出会い、指導を受けることになりました。実際のレッスンでの先生は、とにかく正しいと思いました。弾いたときにどうあるべきなのかということを示してくださる。それは、完成された音楽家にとっては難しくないことなのですが、先生の場合は“どうあるべきなのか”ということに達するために、何をどのようにして積み重ねるのかという過程を、まるでレントゲンで撮影したかのように明らかにしてくださるんです。先生に教えていただいたおかげで、それまで苦労していた技術的なことが、曲を最初に見た段階で、明確になりました。当時は、西宮高等学校の音楽科にいましたが、進路については必ずしも音楽の道にいかなくてもいいとさえ思っていたのです。ところが、何度かルヴィエ先生のレッスンを受けるうちに自ずから心が決まりました。先生は僕が楽譜をどう解釈するかは、僕に委ねてくださって、解釈するための引き出しを増やしてくださいます。感覚論ではなく、方法論を示してくださるのですが、この教えは、現在、僕が自分の生徒を教える上でも役立っています」
“パリ暗黒時代”を克服した現在
崎谷は西宮高等学校の音楽科を卒業後すると、ジャック・ルヴィエの誘いで渡仏し、パリ国立高等音楽院へと進学した。入学から卒業まで、審査員の満場一致で首席という高成績を修め続けたものの、パリでの暮らしは決して容易ではなかった。
「パリ留学の時期は僕にとって“暗黒時代”でした(笑)。当時はユーロ高で1ユーロが160円もしたので、生活するのがやっとという状態でした。収入源は親からの仕送りとヤマハ音楽振興会の奨学金。最初に滞在したホームスティ先ではホストとうまくいかなくなり、わずか3か月で引っ越すことになりました。その後に入居したアパートは、ピアノがある部屋でしたが、ボン・マルシェのあるセーヴル通りという好立地にあったため、家賃はなんと一か月で1000ユーロ。その後も屋根裏部屋のようなところへと引っ越しましたが、ピアノがないために家で練習できず、毎日学校で練習しました。一方で、学校では大きな学びを得ることができました。試験になると、先生たちは人が変わったように厳しくなりますが、毎週受けるレッスンが楽しい! それをモチベーションにしてパリ生活を乗り切りました」
留学を終えて帰国した2013年4月、東京藝術大学の修士課程に入り、迫昭嘉に師事している。
「迫先生には”身体の使い方”について教えていただきました。能動的に力をかけようとしなくても、手を下ろせば音は出る。それはちゃんとした意志のもとに下ろしているのですが、命令して力をかけるのとは異なります。この方法で演奏すると一音、一音に対する負担が減るので、すべてを演奏し終えた後の負担をトータルで考えると、かなり軽減されます。コンクールでは身体への負担の多い曲を演奏しなければならないこともあります。先生はいかにして自然に演奏するかを追究なさっているので、僕はそれを実践することでとても楽になりました。僕は迫先生を演奏家としても尊敬していますが、先生の舞台を拝見すると、弾いているけれど、弾いている感じがしません。先生が演奏するそのあるがままの姿から、音が沸いてくるように見えます。僕もそこを目指したいですね」
真の演奏家になるという覚醒
これまでの歩みを支えてくれた多くの師から受け取ったものは、すべて崎谷の引き出しとなっている。その証ともいえるのは、先述のブゾーニ国際ピアノコンクールでの入賞である。
「ブゾーニは、とにかく長いコンクール。1回の開催に2年の年月を要する特異なコンクールです。2012年の夏に予選が行われ、2013年の8月の本選に駒を進める27人が選ばれました。一年前からXデーが決まっているんです(笑)。ファイナルに進出できる6人に選ばれた時点で入賞が決まっているわけですが、さらに3人のグランドファイナリストとなるためにモーツァルトの指定された協奏曲で腕を競います。僕が弾いたのは「ピアノ協奏曲第27番」。慣れていない曲ということもあって、これまでにない緊張感を味わい、練習嫌いの僕が前日に14時間もの時間をかけて練習しました(笑)。本番では奏でる一音一音で10点を出さなくてはなりません。これまでに出演したコンクールで学んだことをプラスに転じるために生かそうと努め、無事グランドファイナルに進出したものの、あと一歩及びませんでした。僕がそのとき実感したのは、その結果に対しての悔しさよりも自分がいい演奏を出来なかったことに対する怒りでした。ミスをしたわけではありませんが、もっと聴衆や審査員を楽しませたかった。それができなかったことに、これまでにない腹立たしさがわき起こったのです。これからは“自分の音楽”が演奏できるように、いろんなものを吸収して、満足していただける演奏家になりたいと思います」
Textby 山下シオン
※上記は2014年3月10日に掲載した情報です