この記事は2009年4月13日に掲載しております。
デュオ、室内楽、など様々なスタイルで楽しむピアノ。「アンサンブルへの誘い」ではそんな分野で活躍中の演奏家をお迎えし、ピアノの魅力を探ります。第一回目は幼少時より世界中で演奏経験を積まれ、多くのアーティストから共演のオファーで引っぱりだこのピアニスト「浦壁信二」氏です。
- pianist
浦壁 信二 - 1969年10月生まれ。4歳からヤマハ音楽教室に学ぶ。81年 JOC(ジュニアオリジナルコンサート)国連コンサートに参加し、故ロストロポーヴィチ指揮ワシントン・ナショナル交響楽団と共演。その他にも各地で自作曲を多数のオーケストラと共演する。85年、都立芸術高校音楽科に入学。87年フランスのパリ音楽院に留学。和声、フーガ、伴奏で一等賞、対位法で二等賞を得る。94年オルレアン20世紀音楽ピアノ・コンクールで特別賞を得て優勝。ヨーロッパでリサイタルを行う。ヴェラ・ゴルノスタエヴァ、イェルク・デームスにも師事する。96年2月フランスでCD「スクリャービン:ピアノ曲集」をリリースし、好評を得る。現在は室内楽、伴奏でも活動を展開している。2003年、アウローラ・クラシカルから「ストラヴィンスキー・ピアノ曲集/ペトルーシュカ」をリリースした。
※上記は2009年4月13日に掲載した情報です。
バレエやバイオリンにも興味はあったけれど、ピアノを選んでしまいました。
あまりよく覚えてはいないのですが、兄がヤマハの音楽教室に通っていて、自分も自然にそのまま入ってしまったように思います。バレエやバイオリンにも興味があって、習ってみたいと親には言ったようですが、すぐに気持ちが萎えてしまってピアノを選んでしまいました。
小学校の時は、クラスでピアノを習っている男の子はあまりいなくて、「変な奴」と思われていました。スポーツなんかで目だっているとそれはかっこいいんだけど、文化系は「女の子の領域」みたいな雰囲気がありましたからね。気持ち悪がられているのを子供心に感じていました。(笑)残念ながらスポーツは得意ではなかったし、特に集団プレイが苦手だったのでしょうね。
流行の音楽をさらさらっと耳コピーして弾くと、クラスは「おぉー!!!」。
そんな中で、ヤマハのJOC(ジュニアオリジナルコンサート)の活動に参加していました。音楽教室は演奏技術だけではなくて、音楽そのものを創作することに注力するので、即興もどんどんやるし、初見も鍛えられます。流行の音楽をさらさらっと耳コピーして弾いてみせるとクラスは「おぉー!!!」とどよめいていました。(笑)普段やっていることが花開きましたね。(笑)自分も得意になっていたかも。
でも、この歳になると仕事をしていて、色々なところでヤマハ音楽教室の卒業生に会うんですよ。もちろんピアニストとして活躍している人もたくさんいますが、ポピュラーの世界で作曲や編曲を仕事としている人や劇音楽を書いていたり、ドラマ・ミュージカル。。。と多岐に渡ります。これって子供のときの音楽教室のおかげかなぁ、なんて。
初めての海外、ニューヨークでの記者会見はお腹が痛くて痛くて。
小学校6年生のときに初めて海外に出ました。アメリカ・ワシントンの国連総会議場でのJOCコンサートです。1981年だったかな。今はもう亡くなられた巨匠のロストロポーヴィッチさんの指揮でナショナル・シンフォニーとの共演でした。すべてが緊張の連続でした。長時間、飛行機に乗るのも初めてだったし(当時はアンカレッジ経由)、体調を崩してしまい、最初にニューヨークで記者会見があったのですが、もうずっとお腹が痛くて痛くて。。。
まわりは大騒ぎしているので、なんかすごいことなんだろうなぁと感じてはいましたが、理解はしていませんでした。本番は気がつかないうちに終わってしまったという感じ。国連でのコンサートに続けて数日後にワシントンでの公演でしたが、この時は少し余裕が出たかな。その後、あちこちで演奏旅行させていただきましたから、本当に良い経験を積みました。
高校の途中でパリに渡ったので、実は僕、中卒なんです。(笑)
音楽で生活していくんだと実感を持って決めたのは20才になってから。留学先のパリで。結構のんびり屋なんです。もちろん子供の時からなんとなく音楽の方向へと思っていたけれど、20歳になった時、「他にはもうやれることないしなぁ。。。」てなカンジです。(笑) 留学先にパリを選んだのは、中学2年の時、フランス地中海でのコンサートに出演するため、初めてフランスに行き、その時のイメージがよかったからと言うことと、高校1年ではパリ公演に行かせていただき、本当にいいところだなぁと。
日本で音楽大学に進学することも考えましたが、「若いうちから海外に出て勉強するのもいいんじゃない?」と助言してくださる方がいて、真剣に検討しました。自分の性格からすると、アメリカじゃないなと。あのスピード感にはついていけません。(笑)モスクワは今ほど日本と接点がなかったし、社会情勢も不安定でしたから。じゃあ、ヨーロッパかな? ピアノはもちろんだけど作曲とか他のことも総合的に勉強するならコンセルヴァトワールだと、そしてパリに。。。 高校最後の年にパリに渡ったので、実は僕、中卒なんです。(笑)
パリは生活のリズムが日本と全く違うことに面食らいました。
言葉が全くできなかったので最初から大変な思いをしました。それに一人暮らしも初めてでしたからね。日曜日がすべてのお店が閉まっているのにはまいりました。外食は高いので学生の身ではそうそう。。。だから自炊しなくてはならないんですが、冷蔵庫は空っぽ、お店もお休み、なんてことがよくありましたよ。お腹すかせてばかり。。。(笑)生活のリズムが全く違うことと、フランス人の融通がきかないところに、最初はとても面食らいました。
留学して最初の頃は、日本人駐在員のお宅に世話になり、次にホテル暮らし、そして一人で部屋借りて、なんとかやってきました。住むところが落ち着くと色々な面でも安定しますね。
学校では理論や伴奏も徹底的に勉強しました。伴奏科って「大初見大会」!!! あらゆるジャンル、オケ中ピアノ、色々やりましたよ。「訓練」と言ってもいいかな。当時、日本の音楽大学で「伴奏科」として整えているところはあまりなかったと思います。多分ソルフェージュの授業に組み込まれているのではないかと。ヨーロッパにおいて伴奏科はスペシャリストの養成コースみたいな扱いでした。
1994年にオルレアン20世紀音楽ピアノ・コンクールに入賞してから、フランスを拠点に色々な所でリサイタルをさせていただき、随分実践的に鍛えられましたね。日本に戻ってからは演奏活動とヤマハ・マスタークラスで指導にも携わるようになりました。
結局は自分の引き出しを増やしてもらっているんだと思っています。
アンサンブルの醍醐味ですか?うーん、やっぱり一緒にいい舞台にしようと言う共通目標があり、片方がどんなにうまくてソリスティックに仕上げても、それだけでは音楽は成り立たないわけで、例えばこの曲のこの部分はお互いにもっと音を薄くして、交わる雰囲気を作ろうとか、そうやって作り上げていく過程が面白いですよね。
リハーサルではお互い暗中模索、でも本番では豹変 ! なんてこともあります。もちろんリハーサルと本番のテンションが同じ、と言う場合もあります。いずれにしてもリハーサル中にしっかりと緊密な関係を作っておくことが大事ですね。でもこれが面白い! 人間だから必ずしも合う人ばかりではありません。でも会話する。。。
ピアノは音が多いゆえに、一緒に演奏する声や管弦楽器などの限界をカバーできる部分もあります。だから何事もまずは受け入れて、自分に何ができるか考えます。やはり、なんと言っても沢山の人達と多くの濃い議論をしていくから、結局は自分の引き出しを増やしてもらっているんだと思っています。
時々、共演者からうるさいくらい細かな指示が出て、「わっかんないなぁー」と悶々として終わる。
何年後かにその時と同じ共演者とやり、「あっそうか! これが言いたかったのか!!」とぽろっとわかってしまう。「そうかー! これ、これ」ってね。自分に求められていたことに気がつくのに何年もかかってしまって。(笑)でもこれが面白いんです。自分がいっぱいいっぱいになってしまって、わからなかったことが後になって見えてくる。それって、その時は相手が合わせてくれていたんですよね。思い起こせばそんなことは沢山あって。。。まぁ音が多い分だけ要求されることも多いのですが、今はなるべく受け止めるよう心がけています。
そろそろ自分のリサイタルもまた考えたいですね。20世紀前半の作曲家を中心にプログラムを組んでみたいと思っているところ。近現代はなかなかとっつきにくいと思っている人もいるかもしれませんが、「なんだ結構面白いじゃん!」と感じてもらえるものになったらいいなと。
※上記は2009年4月13日に掲載した情報です。