この記事は2009年4月13日に掲載しております。
「スポット・ライト」はジャンルを超えて様々な分野で活躍される音楽家をご紹介。今回はピアニストとしてはもちろんのこと、多くのアーティストのプロデューサーを務め、作・編曲家として活躍中の「塩入俊哉」氏をお迎えしました。今まで関わってこられたアーティストや、この5月にリリースされる自身のアルバムについても語っていただきました。
- pianist
塩入 俊哉 - 桐朋高校(男子部)在学中、クラシックピアニストとしてデビューを飾る。
19歳、キーボーディストへ転向。フュージョン系バンド、カーティス・クリーク・バンドに加入。8枚のアルバムを発表する。国立音楽大学大学院音楽研究科にてクラシック音楽の研鑽を積み、修了後も音楽というフィールドで精力的な活動を続ける。演奏・作・編曲活動に於いて、アカデミックな理論に根差しながらも柔軟な音楽性がジャンルの融合を生み、繊細な感性とダイナミックで大きなスケールをもって紡ぎだされる音輪と多彩な楽曲は従来にはなく、時代が求めていた、先駆ける音楽の世界を創作し共感を呼び、多くのアーティストと共演している。1997年ソロアルバム【君のいた夏】2000年【CENEZOIC】を発表。及び2000年には作曲作品【動物たちのおしゃべり】が公演で文化庁芸術祭新人賞を受賞するなど高い評価を得ている。
ピアニスト・キーボーディスト演奏での卓越したテクニックと、作・編曲家、更にはアルバム、サウンドプロデューサーとして近年には【メランコリア】【Romantic Stories on cello】他発表。コンサートディレクターの領域でも常にクオリティの高い音楽を創作し、着実にキャリアを築きつつ活躍し続ける音楽家。
1960年6月22日生 東京都八王子市出身
「塩入 俊哉」オフィシャルウェブサイト
※上記は2009年4月13日に掲載した情報です。
母がラジオで江藤俊哉さんの演奏を聴いて感激、それで僕の名前が決まりました。
ピアノを始めたのは母の勧めです。特に音楽一家というわけでもなかったのですが、やはり母が音楽を好きで、息子にやらせたかったのでしょうね。何せ、名前は江藤俊哉さん(※)からいただいていますから。(笑)僕が生まれる前の日に病院のラジオから江藤さんの演奏が流れてきて、母はそれを聴いて感激し名前を決めたそうです。
5歳でヤマハ音楽教室に入りました。当時はまだ幼児科とかなかったのでいわゆるオルガン教室ですね。その中で、ちゃんと続けられそう、やれそうな子供がピアノにひっぱられるといった流れだったからその後ピアノの個人レッスンにつきました。小学校から桐朋だったんですが、国立の男子校の方。音楽教育に染まっている訳ではなく色々な事を幅広く勉強できたんです。でも音楽活動を先生方も周りの友達も温かく応援してくれて、ただ逆にコンクール出場の時は周りのその温かさが相当なプレッシャーにもなりました。
学生音楽コンクールの会場は銀座のヤマハホールでした。大人になってからもトラウマで丸の内線なんか乗るとあの時の極度の緊張感を思い出します。2-3年前にヤマハホールで川井郁子さん、それから西城秀樹さんらとのライブ・コンサートをやらせてもらって、それでようやく呪縛からめでたく解放されましたね。征服したぞってね。このホール、来年は新しくなると聞いているので実は相当うれしいんですよ。(笑)でもせっかく征服できたのにもったいなかったかな?
(※)世界的バイオリニスト(故人)
コンクールの本選で自分の前で弦が切れた、これで人生変わりました。
高校生の時に本選でリストのラ・カンパネラを弾きました。結構自信あったんです。ところが。。。僕の前が小川典子さん、あの人、弦を切ったんですよ!!!それで弦の張替えやら調律やらで時間がかかって、僕の緊張は極限に達してしまって。。。(人のせいにしていけませんが)でも彼女、これで優勝したんですからね(笑)。これで僕の人生変わりました。
最後の詰めが甘いのか(笑)、大学は東京芸大を受けて2回落ちました。まぁやるせなく国立音大へ(笑)。でも自由にしていられたし大切な人にもいっぱい会えたし今となっては良かったんです。高校の頃からバンド活動は始めていたので(だから落ちた?)大学に入る前からもう仕事はしていました。色々なところから声かけてもらえ、アイドルのサポートやなんかも。
アレンジとかやり出したのはJ-POPの世界で稲垣潤一さんに依頼されてから。色々やっているうちにそんなポジションが出来上がってきたように思います。
ポゴレリッチの演奏に感動、「よし!自分は違うことしよう。」
クラシックに未練がなかったと言えば嘘になるけど、大学4年の時に学内のホールでポゴレリッチのコンサートを聴いたんです。その時の演奏があまりにすごくて。。。自分のやりたかった表現をすべて鮮やかに、完璧にやってて、あまりのショックで椅子から立ち上がれなかった。「やられた!。。。」ってね。すぐさま、「よし! 自分は違うことしよっ!!」って。(爆笑)完全に踏ん切りがつきました。
それからは一生懸命にやっていると、結構見ててくれる人はいっぱいいるもので、仕事で声をかけてもらう機会がどんどん増え広がっていきましたね。
宮本文昭さんの申し出は大好きな女の子に告白してOKもらったくらい嬉しかった!
最初にプロデュースに関わった人ですか?宮本文昭さんです。いきなりクラシックの頂点に来ちゃいました!!!(笑)驚きですよね?クラシックもポピュラーもやれる人を探しているとかで。1994年くらいからご一緒して、2回目ぐらいの時の沖縄でいきなり「色々やって来たけど世界でだってこんな風に音楽を創れることって相当むずかしいんだよ。もし良かったらこれからもずっと一緒にやってってくれる?」と言われ、本当に本当に心の底から嬉しかった!大好きな女の子にOKもらったような気分だってそのとき思った(笑)。いや、僕は宮本さんに告白はしていないけれど。。。とにかく最高の気分でした。この日は打ち上げがあって宮本さんと呑みながら、「あぁ、これからやっていけるかな」と実感した夜で忘れられません。これは人生の大きなターニング・ポイントでした。
次は川井郁子さんとの活動。比較的宮本さんとは二人でやることが多かったけれど、川井さんは色々バンド・メンバーを組んで多彩な音楽を創る人だから一緒に随分議論して物事を創ってました。今一緒にやるミュージシャンは彼女とのコンサートで出会った人が中心ですから、彼女にも相当影響受けた気がします。
とっても印象的だったのはチェロの古川くん(注:チェリスト古川展生氏)。彼はとにかくすごい! 初めて一緒に仕事したのは、なんと本番前日のリハーサルで。わずかな時間ですごいエネルギーを放出するし、しかも完成度がむちゃくちゃ高い。彼の為に新曲を書いた時も合わせる1回目で何も言わなくてもこっちの考えている表現を見せてくれる。そう言う意味では宮本さんもそうだったし、世界に出ていくアーティストってやっぱり相当違うものです。
STBは僕のホームグラウンド。
今回、自分のライブがやれたことは本当に幸せでした。
この5月に久々、自分のアルバムを出します。タイトルは「Tokyo 3.a.m.」。テーマは「過去は全て今に繋がっている。。。」「哀しい時とか、ひとりでいたい時に寄り添えるアルバム」、そんな感じのものを作りたかったんです。ついこの2月に六本木のスイートベイジル(STB)でアルバムの曲で構成したライブをやれた時は幸せでした。最強のメンバーにサポートしてもらえて。。。制作や裏方さんまでみんなスペシャル級!STBは僕のホーム・グラウンドとも言える場所で「あぁ、帰ってきた」、STBのみんなも「お帰りなさい」ってカンジで。新しい挑戦はまずここでやりたいっていつも思ってる。
音楽とは哀しみを癒すもの、自分にとってはそうでないと意味ないよ。
それから自分の曲の楽譜が作れたらいいな。僕の曲って結構弾きやすいと思うし。(笑)誰かにピアノを聴いてもらいたいと思った時にぜひ使って欲しいんです。難しい曲はたくさんあるけれど、気持ちを簡単に込められる曲ってそう多くはないでしょ?探すのも大変だし。ぜひ僕の曲をみんなに弾いて欲しい!そしてそれを聴いてくれる人にどんな気持ちになってもらいたいのか、とにかくそこを大切にして欲しいんです。
僕は小さい頃から、何のために音楽があるのか、自分にはそれを通して何ができるのかってずっと考えてきたんですけど、「音楽とは哀しみを癒すもの」そう思うんです。僕にとってはそうでないと意味無いかなって。でもそれって本当は誰でも出来ることだと思うんです。 難しい曲を弾ききるのも大事なんだけれど、簡単な曲でだって人に気持ちを伝えることはできるし、自分も変われる、優しくなれる。。。「ピアノ」って本当にすごい楽器です。
ヤマハピアノと私。
※上記は2009年4月13日に掲載した情報です。