この記事は2012年1月10日に掲載しております。
2012年10月からウィーンに行き、ザルツブルクのモーツァルテゥム音楽院の博士課程でパーヴェル・ギリロフの指導を受ける予定の吉田友昭氏。
今までの歩みとこの2月ヤマハホールでの演奏会に向けての意気込みを語っていただきました。
- pianist
吉田 友昭 - 2010年第79回日本音楽コンクール第1位、併せて井口賞、野村賞、河合賞、三宅賞、岩谷賞(聴衆賞)を受賞。11年は毎日新聞社主催による全国ツアーをはじめ、NHK交響楽団首席奏者との室内楽公演を行い日本での演奏活動を開始。4歳よりヤマハ音楽教室にてピアノを始める。東京藝術大学入学後、20歳時に渡仏。パリ国立高等音楽院を一等賞の成績で卒業した後、イタリア・ローマ国立サンタ・チェチーリア音楽院を審査員満場一致による首席で卒業。現在はロームミュージックファンデーション奨学生として同音楽院室内楽科に在籍。ローマを拠点に、さらなる研鑽を重ねながら演奏活動を行っている。ハエン、カサグランデ、ベオグラードの各国際コンクール入賞。10年ギリシャ・アテネで行われたマリア・カラス国際グランプリにて最高位受賞。ポントワーズ音楽院管弦楽団、コルドヴァ交響楽団、ベオグラード放送管弦楽団、バーリ交響楽団、ヤッシー・ルーマニア管弦楽団、サンクトペテルブルグ・エルミタージュ管弦楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、セントラル愛知交響楽団と共演。07年NHK教育テレビ「スーパーピアノレッスン~フランス音楽の光彩」に出演。これまでに三角祥子、宮澤功行、田中宏明、渡辺健二、青柳晋、ミシェル・ベロフ、エリック・ル・サージュの各氏に、現在はセルジオ・ペルティカローリ氏に師事。
※上記は2012年1月10日に掲載した情報です
東京発 パリ、ローマ、そしてウィーンへどこまでも挑戦を続ける若きサムライの軌跡。
2010年の第79回日本音楽コンクール・ピアノ部門で、見事第1位を得たのが、吉田友昭である。同時に野村賞、井口賞、河合賞、三宅賞、岩谷賞(聴衆賞)も受賞した本選での演奏曲目は、ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番」。
「日本音コンは、日本で演奏活動を始めるにあたっての、取りあえずの扉と考えていました。ぼくはもう28歳になりますし、第1位をいただいたことは、ぼくにとってとにかく安堵でした。将来はわかりませんが、この先音楽に関わっていけるという拠り所になりましたから…。本選では20曲くらいを選択することができました。その前の3月にアテネのマリア・カラス国際コンクールを受けたんですが、そのファイナルでラフマニノフの2番を弾いたんです。そこで何とか最高位(1位なしの第2位)をいただいて、その副賞でロシアのサンクトペテルブルクにあるエルミタージュ劇場などで、コンチェルトを弾くことができたんです。ぼくにとっては初ロシアでした。
今までラフマニノフって、いろいろ想像しながら弾いていましたが、やっぱりロシアに行くと、得るものがたくさんあったんです。それまでいろんなピアニストのCDも聴いていましたし、それにマリア・カラスの時の審査委員長がウラジーミル・クライネフ(注)さんだったんですね。彼に自分の演奏の感想を聞くと、やはり自国の誇りがあるんでしょう。“ラフマニノフを弾くんだったら、こう弾かないと…、もっとパワーを出さないと…”などと教えてくれたんですが、どうもピンとは来なかったんです。それがサンクトペテルブルクの血の上の救世主教会や他の教会などを訪ねてみると、“あぁ、こういうことか”と、身体で体感することができたんです。それが5月で、そろそろ日本音コンの締め切りだったものですから…(笑)」
(注) ウラジーミル・クライネフ氏はこの直後、4月29日に急逝されました。67歳でした。
1983年、札幌市に生まれた。4歳からヤマハ音楽教室に通う。吉田の兄がすでにピアノを習っており、母親が送迎する車にいつも同行していた。特に自分からピアノをやりたいと言った記憶はなく、いつのまにかやらされていたという。ちょうどその頃、習い事が盛んだった。また親もピアノ教師も指導は結構厳しく、裏を返せばそれだけ熱心だったのであろう。それにやや嫌気がさし、小学校3、4年になるとサッカーに熱中、ピアノは趣味程度になっていった。
「その頃は1週間に1時間しか練習しなかったですもん(笑)。もう宮沢功行先生に付いていたんですけれど、月謝だけ渡しに行ったり、コンクールなどを受けさせられましたけれど全部予選落ち。だから今の若い子に声を大にして言いたい。毎日そんなに練習しなくてもいいし、子どもの頃のコンクールがその後の人生を決める訳でもないってね(笑)。高校も進学校でしたが、高校2年になるまではサッカーに明け暮れました。そこで根性が培われたのかも…(笑)」
高校2年になると、進路希望を聞かれた。周りは京大、一ツ橋大、慶応大などと騒いでいる中、吉田はもう勉強は嫌だと思った。人と違うことをやりたい。では自分に何ができるか。自問した答えはピアノ。率直に進路希望を「東京藝大」とした。誰にも相談しなかったからすべてが自己責任。それからは、毎日10時間の猛練習を自分に課した。学校で寝て、消音機能のついたピアノで夜中の3時、4時までとことんさらう。練習のために学校を休んだ日もあれば、修学旅行にも行かなかった。そして高校3年からは田中宏明氏に師事、さらに田中氏の師である渡辺健二氏の元に1ヵ月に1度レッスンに通った。札幌から神奈川県海老名までの空路での往復だった。
それほどの思いで入学した東京藝大を、3年で中退、パリ国立高等音楽院に移った。
「ここにいたらピアニストになれないと思ったんです。もっと厳しい環境でやりたいと思ったんですが、ジュリアードやモスクワだったら藝大を卒業してからでも行ける。だから21歳までという入学年齢制限があるパリ音楽院を選んだんです。そしてそこにはベロフ先生がいました。当時は大変な人気で、ぼくの憧れだったんです。それで学部の1年から入学したんですが、パリ音楽院も実は思ったほど厳しい環境ではなかったんです。歴史がある学校ですから、説得力をもって伝統を伝えてはいるんですが…。ベロフ先生からは、ピアニストとして生きるにはとか、ピアニストとして音楽と対峙するにはということを教わりましたが、もっと外を体験しなければとも言われました」
だから国際コンクールも数多く受けた。でも当時はまったく成果を得られなかったと振り返る。それでもパリでは100回を超えるコンサートに行くことができた。一番安い席だと、500円でツィメルマンが聴ける。オペラやバレエ、美術館にも足繁く通った。ピアノ科で4年、室内学科で1年、計5年間のパリ生活はそういう意味で充実していたと笑う。
「パリに行って3年目くらいになると、日本人的なものが剥がれてくるんです。そうすると途端に国際コンクールにも入賞するようになったし、もっと外の世界に行きたくなりました。じゃぁパリと正反対の街に行こうと思い、ローマに目が止まったんです。パリは真面目で整っているけど冷たい。ローマはちょっと適当だけれど差別がなくて温かい。そういう所に行くことで、自分の幅が広がると思ったんです。パリでマスタークラスを受けていたセルジオ・ペルティカローリ先生もいらっしゃいましたし…」
門を叩いたのは、ローマ国立サンタ・チェチーリア音楽院。ピアノの指導者はペルティカローリ唯一人だった。
「レッスンだけでしたら、学校へは1週間に1回行くだけ。パリより広い所に住めましたし、物価も安い。何より人々が温かく、ぼくの話を聞いてくれるから、余裕をもって自分の音楽に取り組むことができました。自分自身が楽になったかもしれないですね」
ピアノ科を卒業し、2011年11月から室内学科で1年間の研鑚を積んでいるが、確かにパリとローマでの経験は吉田友昭というピアニストを、物事を総合的に鳥瞰しながら鑑みることのできる、視野の広い人間に育て上げたようである。この後、ベートーヴェンや他の作曲家に対する海外や日本人の対峙から演奏法、国別の音楽教育の是非などに至るまで、興味深い持論が展開されたがそれは別の機会に…。
そして2012年2月18日、銀座のヤマハホールにおいて、山根一仁(バイオリン)、木越洋(チェロ)との演奏会が予定されている。ソロ、デュオ、トリオという編成で、モーツァルト「ピアノ・ソナタ第11番《トルコ行進曲付き》K.331」、チャイコフスキー「なつかしい土地の思い出」、「ワルツ・スケルツォ」、そしてピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出に」というプログラム。
「山根さんは、同じ札幌出身なんです。同じ年の日本音コンでやはり第1位でしたし、既に一緒にデュオ・リサイタルもやっているんです。木越先生とはシューベルトの《鱒》で共演させていただいたこともありますし…。ぼくのいろんな面を見てもらえると思います。トリオに関して言えば、3人が3人とも遠慮することなしに100%で行きたいと思っています。そうでないのは室内楽とは思えませんし、年齢層も違うそれぞれが感じているチャイコフスキー像をぶつけていきたいと思っています。
ピアノもヤマハのCFXを使わせていただくんですが、コンサートで弾くのは初めてなんです。今までのCFと比べてもすごく変わってきているし、触るとわかるんですが、ピアノの欠点がよく見えるんです。ということは、人と同じで長所があるということで、みずみずしいとか、音が美しいとか、遊び心もあるし、言葉で説明するのは難しいんですが、貴公子みたいだと思っています。ぼくはラテン気質なんですが、そういう意味ではCFXはすごく想像力を掻き立ててくれるピアノなんです。だからこの貴公子と一緒に、ぼくも成長していきたいと思っています」
豪胆にして細心である。歩むべき道をしっかりと極め、さらに自らを過酷な環境に置いて修練を課す、熱い気概にも満ち溢れている。一方で心根はあくまで優しく、周囲の気遣いに感謝することを忘れない。それは日本人が忘れかけたサムライの精神にも似ているのだろう、或いは吉田が海外へ留学したからこそ身に付いた人間性なのかもしれない。
けれどもそういう人としての根源が顕著に表れるのが演奏である。日本音コンの折のラフマニノフは、まさに快哉。
盤石なテクニックに立脚した決して透明感を失わない強靭なタッチ、縦横無尽に駆け巡る疾走感とダイナミズム。翻ってみずみずしく清新な息吹、香り立つロマンと揺れ動くように移ろう独特の色彩感は、その鮮烈な閃きとも相俟って聴くものの心をひたすらに掻き立てる。何より作品の核心に迫るように音楽を進めていく駆動力は秀抜であり、四望開豁として行く手を遮るものはない。
またひとり、強烈な個性を持ったピアニストが現れた。
Textby 真嶋 雄大
※上記は2012年1月10日に掲載した情報です