コンサートレポート

コンサートレポート

水谷川優子 チェロリサイタルシリーズVol.9 Bach im Bach バッハ ~響きの鏡像~

2016年6月17日(東京文化会館 小ホール)

 国内外で活躍の場を広げるチェリストの水谷川優子さんのリサイタルが、伴奏にピアニストの黒田亜樹さんを迎え、東京文化会館小ホールにて行われました。

■プログラム
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第3番ハ長調BWV1009
杉山洋一:ベルリンのコラール「目覚めよと呼ぶ声す」によるチェロ独奏曲(委嘱・日本初演)
J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲第2番ニ短調BWV1008
休憩
アルヴォ・ペルト:フラトレス
アルフレード・シュニトケ:チェロ・ソナタ第1番
アルヴォ・ペルト:鏡の中の鏡

 今回リサイタルのテーマに据えたのは「J.S.バッハ」。しかし単にバッハの作品を並べるということではなく、「Bach im Bach(バッハの中のバッハ)」とリサイタルのタイトルにも掲げたようにバッハ自身の中に見出すことの出来るバッハ、また後世の作品の中に垣間見えるバッハの本質など、様々な角度から様々な作品を通じてバッハを感じ取ることにチャレンジした意欲的なプログラムです。

 幕開けはバッハの無伴奏チェロ組曲第3番。ハ長調の持つ純朴で大らかな雰囲気の中、バッハの生きた時代に一瞬にして誘うようなチェロの音色はホール全体を暖かく包みつつ、どこか郷愁を起こさせるような懐かしさも感じさせます。

 次の曲は、指揮者・作曲家であり、この日の伴奏者である黒田亜樹さんの夫君でもある杉山洋一氏による作品「ベルリンのコラール『目覚めよと呼ぶ声す』によるチェロ独奏曲」。この日のために書き下ろされた作品です。
 冒頭、タイトルにもあるコラールの有名な対旋律が流れ始めます。直前に演奏された曲の雰囲気を引き継いで奏でられる暖かい旋律に耳が馴染んできたその瞬間、突如不協和音が。一定間隔で軋むように挟まれる不協和音の後、それまでの包まれるような安堵感に満ちた夢から目を覚まされるが如く、一気に不安の世界へ聴衆を引きずり込みます。チェロのボディが鋭く鳴るほどの強いピチカート、弦が呻くような激しい弓さばき…目の前に苦悩や叫びの世界が広がり、エコーのような演奏技法がその世界を更に増幅させます。最後にようやく冒頭のテーマが再び現れ救いにたどり着こうとしますが、最後の音をかき消すようにステージの明かりが落とされて終了。そこに残ったのは、解決しない不安や報われる事のない悲しみそのものでした。

 ステージに再び明かりが戻ると、曲は再びバッハに。1曲目と同じく無伴奏チェロ組曲からですが、今度は第2番。前の曲でステージに残された不安げな影をそのまま拾うように、悩みや沈鬱に満ちたニ短調の旋律が続きます。プレリュード、アルマンド、クーラント…と表情は変えつつも一貫して悲痛な空気を保ったまま、最終曲のジーグで感情の高まりをピークに引っ張りあげてドラマティックな終焉を迎えます。

 休憩の後、後半はガラリと変わって現代作曲家二人の作品。ここからは黒田亜樹さんによるピアノ伴奏が加わります。まずはエストニアの作曲家ペルトの「フラトレス」。チェロの分散和音の後にヤマハCFXから鳴らされる重厚な低音は弦の震えが空気を伝わって空間を支配します。その後はピアノの音色がまるで雫のように、物悲しげなチェロの音色の合間を滴り落ちていきます。

 続いてシュニトケの「チェロ・ソナタ第1番」。ペルトとはまた異なる作風で、地面が震えるようなオスティナートは切迫感を増倍し、悪魔的な世界が広がります。息の長いフレーズの箇所では、伸びのあるヤマハCFXの音が下支えして独特のハーモニーを生み出していたのが印象的でした。

 最後は再びペルトに戻り「鏡の中の鏡」へ。先の「フラトレス」とは真逆の、まるで今日のコンサートの冒頭一曲目に回帰するかのように調性感を取り戻し、安らかな空気が優しくホールを包みます。インテンポで作られていく無限の世界は宇宙の広がりにも似て、聴き手が高みに連れて行かれるような錯覚を覚えます。優しくも終始抑制された弱音を紡いでいくことは、聴く印象以上に演奏者にとっては薄氷を踏むように難しいはずですが、それを一切感じさせない異次元の演奏に会場からは鳴り止まない大きな拍手が送られました。

 アンコールにはJ.S.バッハの「無伴奏ヴァイオリンソナタ第2番 アンダンテ(シロティ編)」が演奏されました。柔らかく包まれるような安堵感に満ちたチェロの音色で、コンサートの幕が閉じました。

 伴奏を務めた黒田さんは終演後、「今回のプログラムにはヤマハCFXがピッタリ合うと思っていましたが、まさにその通りでした」と笑顔でコメント。水谷川さんの表情豊かなチェロの音色を終始支え続けました。

 熟考に熟考を重ねた末のプログラムで聴衆を終始魅了した水谷川さん。次回はどのようなテーマで臨むのか、今から楽しみでなりません。

Text by 編集部