コンサートレポート

コンサートレポート

ロシアに生まれ、モスクワ音楽院で名教授レフ・ナウモフ氏に師事し、いまや世界各国で幅広い活動を展開している
イリヤ・イーティンさんの演奏は、伝統的なロシア・ピアニズムの継承者としての資質に富んでいます。

2021年10月12日(東京文化会館小ホール)

■プログラム
[J.S.バッハ:パルティータ第6番ホ短調BWV830
J.S.バッハ:ピアノの為の無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番ホ長調BWV1006(S.ラフマニノフ編曲)
ラフマニノフ:「音の絵」Op.39

 2021年10月12日に東京文化会館小ホールで行われたイリヤ・イーティンさんのピアノ・リサイタルは、J・S・バッハのパルティータ第6番で幕を開けました。トッカータ、アルマンド、コレンテ、エール、サラバンド、テンポ・ディ・ガヴォット、ジーグという各々の舞曲のリズムと表現が、生き生きと美しく奏でられていきます。
 バッハはこうした舞曲をひとつずつ個性的に、またリズミカルに、愉悦の表情を備えた作品に仕上げましたが、それらをイーティンさんはあたかも自身が心のなかで踊っているように奏でていきます。

 とりわけ印象的なのは、打鍵の深さとかろやかさの絶妙なるバランス。沸き上がるような跳躍感にあふれた旋律を楽しそうに紡いでいくかと思うと、次の瞬間には荘厳さや神聖さを表すような雰囲気で奏で、またあるときはゆったりとエレガンスを前面に押し出してピアノから美音を引き出していきます。
 これは、続くバッハの無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番(ラフマニノフ編曲)へと自然に繋がってていきました。清らかな水が滔々と流れるようで、聴き手の心を癒し、バッハの偉大さを示唆していました。

 イーティンさんのこの凛とした、確固たる自信に満ちあふれた音色は、その美しい演奏姿勢から生まれ出るもので、彼のピアノに向かう姿勢は、からだのどこにも余分な力が入っていない自然体の様相。背筋がまっすぐに伸び、肩から腕、指先にいたるまで、完璧なる脱力ができています。
 それが証拠にどんなに強音でも、けっして鍵盤をたたくことなく、深々とした打鍵が可能になります。もちろん、弱音の美しさもこの姿勢、脱力から生まれ、ピアノを弾くすべての人にお手本となるようなものです。
 さらにペダルに関してもごく自然に、理屈ではなく、頭で考えることなく、足がすっと滑るようにペダルを操作していきます。その様子は本当に感動ものでした。
 この自然体の奏法は、おそらくロシア・ピアニズムの伝統的な形式として幼いころから培われたものでしょうが、気負いも気取りもなく、まさしく本能に従って演奏しているような感覚です。

 後半はラフマニノフの「音の絵」が組まれました。ここでは楽器を豊かに鳴らし、レガートを大切に、ピアノを歌わせるというロシア・ピアニズムの原点を見るような演奏が存分に披露されました。この作品ではヤマハCFXとまさに一体となり、高音はきらびやかで高らかに歌い、中音域は雄弁で彩りにあふれた語りを表現し、低音は心に染み込んでくるような深々とした響きを生み出し、ラフマニノフの世界へと聴き手をいざないました。こうしたスケールの大きな作品を演奏するときも、イーティンさんの姿勢はまったく崩れることなく、前屈してピアノに覆いかぶさるような姿勢もいっさい見せません。背中をまっすぐに伸ばし、からだを余分な動きで揺らすこともなく、自然体でロシア作品の神髄を描き出していきます。

 ラフマニノフの「音の絵」は、これまでさまざまなピアニストの演奏を聴いてきましたが、そのいずれの演奏とも異なり、イーティンさんが身に着けた「ラフマニノフの極意」というものが伝わってきました。
「音の絵」は、「練習曲」というタイトルがつけられていますが、全体はストーリー性のある大規模な戯曲や詩集や小説などを連想させ、偉大なピアニストだったラフマニノフの超絶技巧と多種多様な表現力が散りばめられています。イーティンさんは、それらをひとつずつ視覚的に表現し、アルペジオ、トレモロ、スタッカート、レガート、マーチなどを実に楽しそうに個性的に演奏し、作品に対する敬愛の念、親密な表情、内に秘めた情熱、哀感、官能的、劇的、悲痛、抒情性、陰影などの表情を慈しむように弾き込んでいきます。
 イーティンさんは世界各地の大学で教鞭を執り、国際コンクールの審査員を務め、マスタークラスも積極的に開催しています。こんな先生に教えを受けたら、さぞピアノが好きになるだろうなと思わせる演奏で、みんな生徒は美しい演奏姿勢に憧れるのだろうなと、想像してしまいました。「楽器と一体となって豊かな歌を奏でる」、その極意を堪能した一夜となりました。

Text by 伊熊よし子
Photo by 大塚高史