コンサートレポート

コンサートレポート

ロシアに生まれ、モスクワ音楽院で名教授レフ・ナウモフ氏に師事し、いまや世界各国で幅広い活動を展開しているイリヤ・イーティンさんの演奏は、馨しく詩的でロマンあふれ、伝統的なロシア・ピアニズムに根差しています。

2023年7月9日(ヤマハホール)

イリヤイーティン

■プログラム
シューベルト:楽興の時D.780Op.94
シューベルト:ピアノ・ソナタ第4番D.537Op.164イ短調
ブラームス:ピアノ・ソナタ第3番Op.5ヘ短調

イリヤイーティン

 2023年7月9日にヤマハホールで行われたイリヤ・イーティンさんのピアノ・リサイタルは、シューベルトとブラームスというピアノ好きの心を深くとらえるプログラムでした。
 まず、シューベルトの「楽興の時」で幕開けです。これはシューベルトの晩年に書かれ、ロマン派の性格小品の先駆をなすものと考えられています。第1番の第1部はピアノ小品にふさわしい音形でスタート、第2部は終始3連符が中心をなし、リズムが変化していきます。イーティンさんはそれらを静けさとリズムの多様性を鑑みながらていねいに紡いでいきます。そして第3部の自由な形式では、一気にCFXをたっぷりとうたわせます。

イリヤイーティン

 第2番は和音の響きと転調が効果的に使われ、独自の世界が展開されますが、イーティンさんの奏法は自由闊達です。第3番はシンプルなリズムを生かした愛らしい曲。高い人気を誇るこの曲ではシューベルトの歌心を前面にしていきます。第4番の第1部は分散和音の動きで開始し、常動曲のようにいつまでも左右の手がアルペッジョで動きまわるところを、かろやかに、楽しそうに奏でていきます。
 第5番は転調の多様さが特徴で、第6番は心に染み入るような和声の響きが曲の内面的な豊かさを表現していますが、こういう曲想はイーティンさんの手にかかると、成熟した内省的で詩的な歌となり、聴き手の心に深々と響きます。 

イリヤイーティン

 次いでシューベルトが初めて完成したピアノ・ソナタ第4番が登場しました。20歳のみずみずしい感性とあふれんばかりの才能が発揮され、第1楽章はシューベルトらしい歌心に富み、第2楽章は素朴でシンプルな美しい旋律に綴られた緩除楽章となっています。第3楽章はシューベルトが書いた初めてのフィナーレという構成です。
 今回このソナタの第2楽章を演奏したいためにこうしたプログラムを組んだのではないかと思われるほど、この楽章の馨しくロマンあふれる演奏は心に響きました。この第2楽章はとりわけ人気が高く、イーティンさんも繊細に紡いでいきます。
 しかし、この日のメインはなんといってもブラームスのピアノ・ソナタ第3番でしょう。ブラームスの作曲の初期に書かれたソナタで、ロマン派的な傾向が強く、第2楽章にはドイツの詩人シュテルナウの「若き恋」の一節が標題として使用されています。

イリヤイーティン

 この年の秋、ブラームスがシューマン家を訪れた後に完成されました。5楽章形式という珍しい構成で、若きブラームスらしい剛直な響き、難渋さ、演奏の至難さは存分に内包されていますが、現在の優れた技巧と表現力を兼ね備えたピアニストには人気が高く、イーティンさんも豪快な響きと美しい弱音を駆使し、聴きごたえのあるブラームスを披露しました。
 特に印象的な第2楽章は、「たそがれが迫り、月の影が輝く」という詩の内容を表現したロマンあふれる楽章となっていますが、ここぞとばかりに情感豊かな主題をうたい上げます。これがロシア・ピアニズムの伝統なのかもしれません。

イリヤイーティン

 第3楽章はスケルツォ形式で中間部に静かなコラールが登場します。このコラールも美しくCFXをのびやかにうたわせ、ホール全体に主題が響き渡りました。第4楽章「間奏曲」と第5楽章のスケルツォ風の主題によるロンドは、ブラームス好きにはたまらない渋くひそやかで奥深い魅力に富んでいますが、イーティンさんは微動だにしない姿勢を保ち、完全に脱力ができたからだ全体を使って深遠さを醸し出し、絶妙なペダリングでフィナーレまで盛り上げて幕を閉じました。まさにシューベルトとブラームスの深きロマンを纏った至福の時間となりました。

Text by 伊熊よし子