コンサートレポート

コンサートレポート

ポルトガルのリスボンに生まれ、幼いころからピアノの才能を発揮してきたマリア・ジョアン・ピリスさんは、1970年にベートーヴェン生誕200年記念コンクールに優勝し、国際的な注目を集めます。以後、ソロのみならず室内楽の分野でも多くの音楽家との共演を重ね、高い評価を得ています。

2022年11月29日(サントリホール)

■プログラム
シューベルト:ピアノ・ソナタ第13番ホ
イ長調Op.120D664
ドビュッシー:ベルガマスク組曲
シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960

 マリア・ジョアン・ピリスさんのピアノを聴くと、心の奥がじんわりと温かくなります。彼女はとても素朴で真摯で温和な人柄。演奏は「神への奉仕」という考えの持ち主です。
 そんなピリスさんが2018年のシーズンで引退すると発表されたとき、世界中のファンは大きな衝撃を受けました。以後は後進の指導に時間を割くと伝えられましたが、やがて少しずつヨーロッパで活動を再開しているというニュースが伝わり、ついに来日公演が実現しました(2022年11月29日東京・サントリホール、12月2日大阪・ザ・シンフォニーホール)。その引退表明と活動再開について、2021年秋、ポルトガルのベルガイシュにいるピリスさんに電話インタビューをしてみると、率直な答えが戻ってきました。
「私はヨーロッパの以前のマネージャーと仕事に対する意見が合わず、自分の意志を貫き、音楽に身を捧げる立場として、これ以上自分に嘘はつきたくないと思い、引退せざるをえなかったのです。もちろん、一時的な感情に流されることはよくありませんが、どうしても自分のなかで納得がいかなかったのです。その後、親しい音楽仲間や友人が私の気持ちを察してくれ、再びステージに戻る機会を与えてくれました。とても感謝しています。そのなかで、いまは少しずつ自分が本当に演奏したい作品、場所、共演者などを選び、ゆっくりと歩みを進めています」

 ピリスさんは「演奏する場所」にこだわっていました。今後は「愛している土地の聴衆の前で弾きたい」と考えているとのこと。そのなかには日本も入っています。
今回の東京公演は、ピリスさんの引退撤回を心から歓び、待望の公演に開演前からホール全体が熱気に包まれていました。プログラムはシューベルトのピアノ・ソナタ第13番からスタート。凛とした美しい音色、作品の内奥にひたすら迫る解釈、磨き抜かれたテクニックを披露し、情感豊かなピアニズムで健在ぶりを示しました。プログラム構成に関してはこう語っています。
「シューベルトとドビュッシーを対比させるという方法をとってみました。私はフランスの音楽はあまり得意とはせず、ドイツの古典派やロマン派の作品の方が安心できるのは事実ですね。でも、今回はドビュッシーをぜひ弾いてみたいと思いました。室内楽作品を多く演奏し、作曲家に近づいてきましたので……」

 ピリスさんは常に「シューベルトは難しい」と語っています。心を無にして、自然に演奏しなければならないからと。
「私は長い間シューベルトを演奏しています。でも、常に難しさを感じています。それは彼のピアノ作品は感情をはげしく外に表すものではなく、とても内省的かつ思索的で、音楽が自然な流れを要求するからです。ドビュッシーの方がアプローチという意味では楽かもしれません。印象派の音楽というのは、その言葉どおり音楽的な印象を表しています。作品がある種の言語になっているのです。でも、シューベルトの言語は歌曲にも見られるように音楽に対してのアプローチが非常に親密的ですね」

 ピリスさんのシューベルトに対する考えは、ピアノ・ソナタ第13番からストレートに伝わってきました。第1楽章は印象的な主題から技巧が冴えわたります。左手の分散和音が緻密で心に響き、平穏、晴朗、可憐な歌が聴こえてきます。第2楽章はのびやかな主題が朗々と奏でられ、シューベルトらしい旋律に心がなごみます。第3楽章の付点リズムはピリスさん特有のクリアな響きが弾けるように奏でられ、その奥に優雅さも秘め、涙がこぼれそうになるほどの美しさを醸し出していました。
ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」は、これまで聴いてきたどの演奏とも異なる、まったく新しい世界を見せてくれるものでした。あいまいな響きは一切なく、「前奏曲」は即興性が際立ち、「メヌエット」は古典的な美が光り、「月の光」は幻想的な静謐さに彩られ、「パスピエ」はかろやかな舞曲に終始しました。

 今回のピアノはヤマハCFX。ドビュッシーの響きの美学によくマッチし、おごそかなる低音、バランスのよい中音域、晴れやかにうたう高音と、ピリスさんの楽器と一体化した奏法に馨しい響きで寄り添っていました。
 最後のシューベルトのピアノ・ソナタ第21番は、ピリスさんの演奏の極意が詰まった作品。ワルツやスケルツォのリズムをからだ中で表現し、ときに歌曲「冬の旅」の孤高の精神も映し出す。まさにシューベルトの世界が眼前に広がり、息をのむ美質に頭を垂れて聴き入ります。ひたすら音楽に身を投じるピリスさんの心の声がその演奏からは伝わり、聴き終わると心身が浄化し、天恵を受けたような不思議な爽快感と満足感に満たされました。

Text by 伊熊よし子