1991年、浜松市制80周年を記念し、「楽器のまち」浜松の国際文化事業としてスタートし、以後3年ごとに開催されている浜松国際ピアノコンクール。数々の優れたピアニストを世界の舞台に送り出し、国際的にも高い評価を得ているこのコンクールの歴史を振り返ってみよう。

 

 第1回コンクールの審査委員長は安川加壽子。1991年11月14日から24日まで、浜松市民会館(現在の浜松市教育文化会館)で開催された。審査委員には、小林仁、弘中孝、ダン・タイ・ソン(ベトナム)、ジェルメーヌ・ムニエ(フランス)、ピョートル・パレチニ(ポーランド)、クラウス・シルデ(ドイツ)、ファニー・ウォーターマン(イギリス)など、国内外の一流音楽家が顔を揃え、日本で初めての本格的な国際ピアノコンクールの審査にあたった。30カ国2地域の302人から応募があり、書類審査と浜松で行われたオーディションを経て、20カ国2地域の68人がコンクールに参加し、第1位はセルゲイ・ババヤン(アルメニア)が獲得。ババヤンは現在、演奏活動の傍ら指導活動にも力を入れ、ルービンシュタイン国際コンクール、チャイコフスキー国際コンクールで優勝したダニール・トリフォノフを育てたことでも知られ、24年後、第9回コンクールの審査員を務めた。日本人の入賞者は、南雲竜太郎(第4位)、長尾洋史(第5位)、三輪郁(奨励賞)。日本人作曲家委嘱作品は諸井誠《ピアノのためのアルファとベーター》。
 セルゲイ・ババヤン
第2回コンクールは、1994年10月7日に完成したばかりのアクトシティ浜松で、11月7日から20日まで開催された。「楽器のまち」「音楽のまち」浜松のシンボルとも言えるアクトシティ浜松は、その後このコンクールの会場となり、浜松駅に直結し、優れた音響の大ホール、中ホール、練習施設などを備えた複合施設であることから、世界中のコンクールの中でもっとも恵まれた環境と高い評価を得ている。審査委員長は小林仁、審査委員は第3回コンクールから第7回コンクールまで審査委員長を務めることになる中村紘子、林秀光、ジャック・ルヴィエ(フランス)、フリードリッヒ・ウィルヘルム・シュヌア(ドイツ)、アリエ・ヴァルディ(イスラエル)、ミハイル・ヴォスクレセンスキー(ロシア)ほか12人。第1回より2人増え、国際色豊かな顔ぶれとなった。49カ国2地域340人から応募があり、書類審査とオーディション(浜松)を経て、34カ国1地域の86人が参加し、第1位はヴィクトル・リャードフ(ロシア)、日本人入賞者は柴田彩子(第3位)。日本人作曲家委嘱作品は三瀬和朗《ピアノのための「ル・タン・プロフォン」》。

 第3回から第7回まで5期15年にわたって審査委員長を務めた中村紘子の主導の下で、浜松国際ピアノコンクールは新たな段階に入った。 第3回コンクールは、1997年11月11日から24日まで開催され、51カ国2地域の329人から応募があり、書類審査の後、参加の承認を得られなかった応募者はニューヨーク、パリ、モスクワ、浜松の4会場でのオーディションに臨み、最終的に36カ国2地域92人が参加した。審査委員は、林秀光、小林研一郎、田崎悦子の各氏のほか、ハリーナ・チェルニー=ステファンスカ(ポーランド)、ベラ・ゴルノスタエヴァ(ロシア)、カール=ハインツ・ケマーリング(ドイツ)ほか13人。第1位に輝いたのは19歳のアレッシオ・バックス(イタリア)。第2回コンクールにも最年少コンテスタントとして参加した彼は、その後2000年のリーズ国際コンクールで優勝し、実力派ピアニストとして国際的なキャリアを築いている。第2次予選で敗退したデニス・マツーエフが、翌年の第11回チャイコフスキー国際コンクールで優勝、第6位のフレディ・ケンプが第3位に入賞したことでも話題を呼んだ。日本人入賞者は、大崎結真(第5位)。日本人作曲家委嘱作品は、平吉毅州《ピアノのための悲歌》。 第4回コンクールは、ジュネーヴに本部を持つ国際音楽コンクール世界連盟への加盟が承認されて初めての開催となった。この回から、年齢制限の下限が外され(それまでは16歳以上)、28歳以下のすべての若者が参加できるようになった。2000年11月13日から26日まで開催されたコンクールには、42カ国2地域の346人から応募があり、書類審査とニューヨーク、パリ、ウィーン、モスクワ、浜松の5会場で行われたオーディションを経て、24カ国1地域の79人が参加した。審査委員は、野平一郎、野島稔、ミッシェル・ベロフ(フランス)、ジェローム・ローエンタール(アメリカ)、ヴィクトル・メルジャノフ(ロシア)、ピエロ・ロッタリーノ(イタリア)、ホアキン・ソリアーノ(スペイン)ほか12人。第1位は、弱冠16歳のアレクサンダー・ガブリリュク(ウクライナ)が獲得した。中村紘子審査委員長が「過去の巨匠たち、たとえばホロヴィッツやルービンシュタインもこんなだったろうなと思わせるような輝かしくロマンティックな演奏を披露しました」と絶賛したほど煌めくような才能を発揮しての受賞。彼はその後、アルトゥール・ルービンシュタイン国際コンクールで優勝し、巨匠への道を着実に歩んでいる。第2位を分け合ったのは、上原彩子とイム・ドンヒョク(韓国)。その後、上原彩子は2002年のチャイコフスキー国際コンクールで日本人として初の優勝を果たし、イム・ドンヒョクは2001年のロン・ティボー国際コンクールで優勝、2005年のショパン国際ピアノコンクールでも第3位を受賞して注目を集めた。この2人に続く第4位のオルガ・ケルンも、2001年のヴァン・クライバーン国際コンクールで優勝し、浜松国際ピアノコンクールは、フレッシュな才能を発掘するコンクールとして世界にその名をとどろかすこととなった。日本人作曲家委嘱作品は、野平一郎《ピアノのための響きの歩み》。
 アレクサンダー・ガブリリュク
第5回コンクールは、2003年11月10日から24日まで開催され、47カ国1地域の319人から応募があり、書類選考とニューヨーク、パリ、ウィーン、モスクワ、浜松の5会場で行われたオーディションを経て、29カ国1地域の83人が参加した。その中の33人がショパン国際ピアノコンクール、チャイコフスキー国際コンクールなど世界的なコンクールの入賞者、しかも10人は第1位というハイレベルのコンクールとなった。審査委員は、海老澤敏、一柳慧、アレクサンダー・イエンナー(オーストリア)、セルゲイ・ドレンスキー(ロシア)、チョウ・グォアンレン(中国)、オクサナ・ヤブロンスカヤ(ロシア)ほか13人。コンテスタントの実力が拮抗したためか、この回は第1位なし、第2位をラファウ・ブレハッチ(ポーランド)とアレクサンダー・コブリン(ロシア)が分け合った。まったく無名で書類審査から漏れ、ウィーンのオーディションで参加を認められた18歳のブレハッチの抒情あふれる演奏は浜松の聴衆を魅了し、彼はこの結果を2005年のショパン国際ピアノコンクール優勝につなげた。浜松国際ピアノコンクールを題材にした小説「蜜蜂と遠雷」で第156回直木賞を受賞した恩田陸さんは、この時のブレハッチの演奏を聴いてコンクールをテーマにした小説を書くことを思い立ったと語っている。アレクサンダー・コブリンも2005年のヴァン・クライバーン国際コンクールで優勝、第3位のセルゲイ・サロフも2004年のモントリオール国際コンクールで優勝し、若手登竜門としての浜松国際コンクールの名を不動のものとすることになった。第4位は関本昌平と須藤梨菜、第5位は鈴木弘尚。日本人作曲家委嘱作品は、一柳慧《ピアノのためのピアノポエム》。

 第6回コンクールは2006年11月12日から26日まで開催され、39カ国1地域の268人から応募があり、書類審査とニューヨーク、パリ、ウィーン、モスクワ、ローマ、浜松の6会場で行われたオーディションを経て、21カ国1地域の73人が参加。国別ではロシア、日本、中国、韓国、ウクライナ、アメリカ(ほとんどが中国系、韓国系、日系)からの参加者が多く、アジアの時代の到来を予感させるものとなった。審査委員は、一柳慧、ロバート・レヴィン(アメリカ)、ドミトリー・バシュキーロフ(ロシア)、セルジオ・ペルティカローリ(イタリア)、ジョン・オコーナー(アイルランド)、ジョン・ルース(南アフリカ)、シン・スジョン(韓国)ほか13人。この年はモーツァルト生誕150周年だったことから、第3次予選でモーツァルトの作品を演奏することが課され、最優秀演奏者に「モーツァルト賞」が授与された。また、この回からインターネット中継によるストリーミング配信が行われ、リアルタイムでコンクールのステージが世界中に配信されるようになった。第1位はウクライナ出身の俊英、アレクセイ・ゴルラッチ。彼はその後、ダブリン国際コンクール優勝などさまざまなコンクールで優勝、入賞を果たして活躍している。第2位のセルゲイ・クズネツォフ(ロシア)は現在、モスクワ音楽院で教鞭を執り、演奏活動の傍ら優れたピアニストを育てている。第3位は北村朋幹とキム・テヒョン(韓国)、第5位はワン・チュン(中国)、第6位はニコライ・サラトフスキー(ロシア)、「モーツァルト賞」はイム・ヒョソン(韓国)が獲得した。日本人作曲家委嘱作品は、北爪道夫《様々な距離》、徳山美奈子《ムジカ・ナラ~ピアノのために~》。 第7回コンクールは、2009年11月8日から23日まで開催された。この回から世界各地で行われていたオーディションは廃止され、書類とDVD審査で参加者が絞られることとなった。26カ国1地域の229人から応募があり、22カ国1地域の85人が参加。審査委員は、アリエ・ヴァルディ(イスラエル)、ピョートル・パレチニ(ポーランド)、セルゲイ・ドレンスキー(ロシア)、ファニー・ウォーターマン(イギリス)などお馴染みの顔ぶれに加えて、若林顕、ドミニク・メルレ(フランス)、キム・テジン(韓国)、シュ・ツォン(中国)ほか13人。この回は韓国のコンテスタントの活躍が目覚ましく、6人のファイナリストの中4人が韓国勢、そして、コンクール史上最年少の弱冠15歳のチョ・ソンジンが第1位に輝き、大きな話題を呼んだ。中村紘子審査委員長に「久々に聴いた桁外れな才能」と絶賛されたチョは、その後チャイコフスキー国際コンクール第3位、ルービンシュタイン国際コンクール第3位、そして2015年のショパン国際ピアノコンクールで優勝し、現在世界でもっとも注目される若手ピアニストのひとりとなっている。第2位はエルマール・ガザノフ(ロシア)、第3位はホ・ジェウォン(韓国)、第4位はフランソワ・デュモン(フランス)、第5位はキム・ヒョンジョン(韓国)、第6位はアン・スジョン。いずれの入賞者も、その後さまざまな国際コンクールで優勝・入賞を果たし活躍している。とくにキム・ヒョンジョンは2016年の第6回仙台国際音楽コンクールピアノ部門で優勝し、豊かな成長ぶりを日本の聴衆に見せてくれた。日本人入賞者は尾崎有飛(奨励賞)。日本人作曲家委嘱作品は、西村朗《白昼夢》、権代敦彦《ピアノのための「無常の鐘」》。 97年から5回にわたって審査委員長を務め、浜松国際ピアノコンクールを世界屈指のメジャー・コンクールに育て上げた中村紘子がこの回をもって退任することとなった。インターネット配信に世界40カ国以上から10万超のアクセスが記録され、そのレベルの高さと運営面のすばらしさを世界中にアピールしたコンクールは、さらに新たな時代へと入っていく。
 チョ・ソンジン

 第8回から海老彰子が審査委員長に就任し、コンクールの要項が一部変更された。ひとつは年齢制限の上限が28歳から30歳に引き上げられたこと。もうひとつは、第3次予選の課題にモーツァルトの室内楽が加えられたこと。これによって、以前より幅広い年齢層のコンテスタントが、さまざまな視点からピアニストとしての実力を評価されることとなった。 2012年11月10日から26日まで開催された第8回コンクールには、31カ国1地域の288人から応募があり、DVD審査を経て16カ国1地域の73人が参加した。審査委員は、植田克己、練木繁夫、アリエ・ヴァルディ(イスラエル)、ダン・タイ・ソン(ベトナム)、ディーナ・ヨッフェ(イスラエル・ドイツ)、クラウス・ヘルビッヒ(ドイツ)、エヴァ・ポブウォッカ(ポーランド)ほか11人。第1位に輝いたのは、すでにロン・ティボー国際コンクール、エリザベート王妃国際コンクール、ルービンシュタイン国際コンクールなど、数々の国際コンクールで優勝・入賞経験のある28歳のイリヤ・ラシュコフスキー(ロシア)。成熟したピアニストとして多彩な魅力を発揮し、文句なしの受賞となった。第2位は中桐望、第3位は佐藤卓史、第4位はアンナ・ツィブラエワ(ロシア)、第5位はキム・ジュン(韓国)、第6位は内匠慧。「鉄は熱いうちに打て」という中村紘子審査委員長時代の年齢制限の下限を設けない原則を踏襲しつつ、豊かな音楽性を備えたピアニストを世界に送り出そうという意図が感じられる結果となった。第4位のツィブラエワは、2015年のリーズ国際コンクールで優勝。若手登竜門としての浜松国際ピアノコンクールの歴史に新たな1ページを加えた。日本人作曲家委嘱作品は、池辺晋一郎《「ゆさぶれ 青い梢を」ピアノのために》。
 イリヤ ラシュコフスキー
第9回コンクールは、同じ年の10月にショパン国際ピアノコンクール開催されたため、日程をこれまでより少し後ろにずらし、2015年11月21日から12月8日までの開催となった。この年はチャイコフスキー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクール、リーズ国際コンクールなど大きな国際コンクールが開催されたため、参加者の減少が心配されたが、過去最多の42カ国1地域の449人から応募があり、DVD審査を経て19カ国1地域の72人が参加した。審査委員長は第8回に引き続き海老彰子、審査委員は、現代最高峰のピアニストのマルタ・アルゲリッチ(アルゼンチン)をはじめ、第1回コンクールの優勝者、セルゲイ・ババヤン(アルメニア)、植田克己、アンジェイ・ヤシンスキ(ポーランド)、ジェイ・ゴットリープ(アメリカ)、パーヴェル・ネルセシアン(ロシア)、アンヌ・ケフェレック(フランス)ほか10人。この回の特徴は、第1次予選の演奏時間を20分から25分に延長し、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、いずれかの古典派ソナタ全楽章を演奏することが課され、エチュードが廃されたこと。「技巧より豊かな音楽性を」という海老彰子審査委員長の下でのコンクールの方向性がさらに明確になった。第1位となった20歳のアレクサンデル・ガジェヴ(イタリア/スロベニア)は、ロシア人ピアニストの父とスロベニア人の母のもと、イタリアで生まれ、ごく自然に音楽に親しみ、豊かな才能を開花させた大器。第2位はローマン・ロパティンスキー(ウクライナ)、第3位はダニエル・シュー(アメリカ)、アレクセイ・メルニコフ(ロシア)、アレクシーア・ムーサ(ギリシャ/ベネズエラ)、第4位はフロリアン・ミトレア(ルーマニア)、第5位、第6位はなしという結果は、この回のファイナリストの実力がいかに拮抗していたかを物語っている。奨励賞に三浦謙司、日本人作品最優秀演奏賞にイーゴリ・アンドレエフ(ロシア)が選ばれたほか、審査委員のマルタ・アルゲリッチとパーヴェル・ネルセシアンが、沼沢淑音の第2次予選の演奏を評価し、「アルゲリッチ賞」「ネルセシアン賞」を与えた。日本人作曲家委嘱作品は、三輪眞弘《「虹機械」はじまりのうた》、山根明季子《イルミネイテッドベビー》。

 第1回から第6回まではヤマハ、カワイ、スタインウェイ、ベーゼンドルファー、第7回から第9回まではヤマハ、カワイ、スタインウェイが公式ピアノとなり、参加者たちはそれらを弾き比べ、ステージでの自身のパートナーとなるピアノを選択した。毎回ヤマハを選択する参加者はきわめて多く、ヤマハピアノを弾いて優勝、入賞したピアニストたちは、厚い信頼と称賛の言葉を語っている。 第3回では第3次予選に進んだ13人全員がヤマハを選び、ファイナリスト全員がヤマハCFⅢSを演奏するという結果となった。優勝したアレッシオ・バックス(イタリア)は、「最高のクオリティのピアノでした。優れた楽器は、やりたいと思ったことすべてを可能にしてくれます。美しい音色がホールの響きにも合って、奇跡のように思える瞬間が何度もありました」と語った。 第4回では上位入賞者5人がヤマハを使用したが、優勝したアレクサンダー・ガブリリュク(ウクライナ)は、「思うままに感情を表現できるサウンドが生まれ、ピアノから刺激を受けながら演奏しました。どんな作品にも対応するすばらしい楽器です」と語った。 第5回では6人のファイナリスト全員がヤマハを選んだ。第2位(第1位なし)のラファウ・ブレハッチ(ポーランド)は、「弾き心地がよく、私の心に寄り添ってくれるピアノでした。とくにショパンやドビュッシーなど、繊細な表現が要求される音楽に合っていたと思います」、同じく第2位に輝いたアレクサンダー・コブリン(ロシア)は、「表現したいことのすべてに応えてくれるすばらしいピアノでした。また、楽器が優れているだけでなく、調律技術もすばらしく、私たちがベストの状態で演奏できるよう常に気を配ってくださったスタッフの方たちに心から感謝しています」と語った。 第6回でも6人のファイナリスト全員がヤマハを選んだ。優勝したアレクセイ・ゴルラッチ(ウクライナ)は、「ひとつひとつの音に意味が込められる、自分の心を語らせることができる楽器でした。コントロールしやすく、思い通りの音色を自然につくり出すことができ、コンクールの期間中、ずっと優しく見守ってくれる友人のように感じていました」と語った。 第7回では、ファイナリスト6人中5人がヤマハを選んだ。コンクール史上最年少の15歳で優勝したチョ・ソンジン(韓国)は、「多彩な音色表現が可能なのにコントロールしやすく、心の中のイメージをそのまま音楽にすることができました」と語った。 第8回でも、ファイナリストの3人がこの回から公式ピアノとして登場したヤマハCFXを選んだ。優勝したイリヤ・ラシュコフスキー(ロシア)は、「ピアニッシモが美しく、ソフトペダルを踏んだときのスムーズな音の変化、ダンパーペダルのコントロールのしやすさ、繊細な響きに魅せられました」と語った。 第9回で第3位となったアレクシーア・ムーサ(ギリシャ/ベネズエラ)は、「タッチに敏感に反応するヤマハCFXは、私の心の動きに合わせてニュアンスに富んだ音楽世界を描き出させてくれました」と語った。 多くのコンテスタントたちの支持を受け、安定した音色と響き、豊かな表現力で熱戦をサポートしてきたヤマハピアノ。第10回コンクールでも、若者たちのピアノに賭ける夢を力強く応援することだろう。

Textby 森岡葉