15世紀から16世紀へ

音楽史について学ぶ

14~16世紀の音楽

15世紀から16世紀へ

15世紀から16世紀へかけてのヨーロッパ世界は、前代に引き続いての変動の時期であり、中世的な封建社会が次第に崩れ、より強力な諸侯が国王として君臨する近代的な国家形態が成立することになります。それがやがては絶対王政による支配、つまり、近世の絶対主義時代へと結びついていくことになる、そういう時代でした。
デュファイとバンショア
デュファイとバンショア
この時期の音楽は、一般にはネーデルランド楽派といった言葉で表されています。それはこの時期の音楽活動が、主としてネーデルランド(現在のベルギーとオランダ地方)出身の音楽家によって行われたからで、その地方に限定された音楽活動を意味するわけではありません。そして、その活動範囲はヨーロッパ全体にわたっており、さらに詳細に考察してみると、その変化にはいくつかの段階のあることがわかります。特筆すべき現象を順に取り上げていってみましょう。

まず、15世紀前半にイギリスにダンスタブル(J. Dunstable, 1370頃-1453)が出て、アルス・ノヴァの技法をさらに発展させます。彼は新しいイギリス音楽の様式を築くとともに、15世紀前半の大陸の音楽に大きな影響を与えました。現存する最古のカノンといわれる《夏はきたりぬ》は13世紀のイギリスで書かれたものとされていますから、その頃には、大陸に発生したオルガヌム技法も入ってきていたようで、民謡にもとづく多声音楽も盛んに作られていました。ダンスタブルは、そうした基盤に立って当時の新しい技法を取り入れ、それを利用してさらに新しい音楽を書いて、大陸へ逆輸出したところに彼の功績を認めることができます。

イギリスの地にアングロ・サクソン7王国が建国されたのは5世紀の中頃のことです。その後11世紀にフランスのノルマン貴族に征服されますが、その王朝も12世紀後半には断絶してしまい、フランスの大諸侯アンジュー伯がその跡を継ぐことになります。そのために、フランスの貴族は英仏両国に領土を持つようになり、当然の結果として、そこに文化の交流が生じ、後のイギリス文化を生みだすことになります。ダンスタブルが活動したのは、そういう時期のイギリスでした。その後のイギリスは、百年戦争やバラ戦争を経験しながら、チューダー朝の開始とともに絶対主義国家の基礎を築き、16世紀後半のエリザベス朝時代(1558~1603)を迎えることになります。

このダンスタブルの活動と重なるようにして、ブルグンド宮廷を中心に活動した2人の作曲家、デュファイ(G. dufay. 1400頃-74)とバンショア(G. Binchois, 1400頃-64)が現れます。ブルグンドというのは、フランス東部の一公国で、当時はフランドル地方を領有していました。経済的にも豊かで、壮麗な軍隊を擁して、フランス国王の反対勢力の中心となっていましたが、15世紀末には滅びてしまいました。しかし、当時の宮廷には多くの文化人が集まっており、中世的な騎士道の伝統も残して、文化的にも水準が高かったのです。

デュファイはこの宮廷で10年ほどを、またバンショアは20年ほどを過ごします。彼らの音楽は、技法的にはアルス・ノヴァの伝統を受け継ぎ、それにダンスタブルによるイギリス音楽の技法を取り入れて、十分に消化した上で駆使しており、上声部に動く装飾的な旋律を下声部で支えるという形での三声部書法による多くの名曲を残しています。