19世紀はじめの歌劇作曲家たち

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19世紀の音楽

19世紀はじめの歌劇作曲家たち

ロッシーニ
ロッシーニ


ドニゼッティ
ドニゼッティ
歌劇界は18世紀に引き続き、イタリアを中心に盛んになっていきます。パイジェロ(G. Paisiello, 1740-1816)、チマローザ(D. Cimarosa, 1749-1801)、ケルビーニ(L. Cherubini, 1760-1842)などが出て活躍し、そのあとにスポンティーニ(G. L. P. Spontini, 1774-1851)、ロッシーニ(G. A. Rossini, 1792-1868)、ドニゼッティ(G. Donizetti, 1797-1848)、ベッリーニ(V. Bellini, 1801-35)などが続々と登場します。パイジェロはオペラ・ブッファの面で見るべき業績を遺し、そのブッファ的な表現技法はモーツァルトに影響を与えています。18世紀の項で紹介したチマローザの次の世代にあたるケルビーニは、20歳代後半にパリに定住し、後にパリ音楽院の教授・院長になった人です。また、スポンティーニは1820年以後はイタリアを離れて、ベルリンの宮廷楽長の地位についています。

この後に続く3人の作曲家は、いずれもイタリアで活動して名声を得たあと、パリに出て活躍しました。いずれも美しい抒情的な旋律が特長で、イタリア歌劇特有のドラマティックな表現を身上とする作曲家といえます。特にロッシーニは《セヴィリャの理髪師》によって名声を確立し、歌劇を単なる娯楽作品から、より洗練された味わいのある劇音楽に改めたところに大きな功績が認められます。ドニゼッティは《愛の妙薬》や《ルチア》、ベリーニは《夢遊病の女》や《ノルマ》などがよく知られています。

同じ頃のフランスには、ボアエルデュー(F. A. Boieldieu, 1775-1834)、オベール(D. F. E. Auber, 1782-1871)、アレヴィ(J. F. F. E., 1799-1862)などが登場します。しかし、当時のパリで華やかな活躍をしたのは、むしろ、ドイツ出身のマイヤベーア(G. Meyerbeer, 1791-1864)でした。彼は《アフリカの女》や《予言者》などの歌劇を書き、当時流行していたグランド・オペラに傑作を遺しました。

グランド・オペラとは、歴史的な背景に基づく物語を、壮大なオーケストラ編成を用いた劇的な表現、合唱役として登場する大群衆、バレエの効果的な使用などにより、壮麗な舞台劇音楽の形にしたもののことです。当時のフランスでは大変人気がありましたが、スペクタクル的な面白さはあるものの、芸術性に欠けていたため、まもなく廃れてしまいました。しかしながら、マイヤベーアの諸作品が、ベルリオーズの大規模なオーケストラ作品、あるいはワーグナーの楽劇などに影響を与えたことは大いに考えられます。
ウエーバー
ウエーバー
一方、ドイツにはウェーバー(C. M. von Weber, 1786-1826)が登場し、有名な《魔弾の射手》を書いて、ドイツ国民歌劇の伝統を確立しました。このウェーバーには、ピアノ曲の《舞踏への勧誘》そのほかの名作もあって、ドイツの初期ロマン派の作曲者として重要な存在となっています。また、ウェーバーとほぼ同年代に、ロマン派の文学者として知られるホフマン(E.T.A. Hoffmann, 1776-1822)がいます。ホフマンは音楽に関する短編小説や《ホフマン物語》を書いたほか、クライスラーの筆名で音楽評論も書き、シューマンはピアノ組曲《クライスレリアーナ》を書いて、その音楽観への共感を表しました。