音楽史について学ぶ
19世紀の音楽
ロマン主義音楽の背景
18世紀のヨーロッパを支配していた啓蒙主義は、理性を偏重し過ぎ、伝統を軽視する傾向があったため、19世紀になると、それに対する反動としてロマン主義が生まれてきました。冷徹な理性よりも、人間に本来自然に備わっている感情を重視し、それを空想的、夢幻的、牧歌的な世界への憧れという形で表現したのがロマン主義です。ロマン主義はまた、なによりもまず個人の人間性を尊重する芸術でもありました。
19世紀はじめの歌劇作曲家たち
歌劇界は18世紀に引き続き、イタリアを中心に盛んになっていきます。パイジェロ(G. Paisiello, 1740-1816)、チマローザ(D. Cimarosa, 1749-1801)、ケルビーニ(L. Cherubini, 1760-1842)などが出て活躍し、そのあとにスポンティーニ(G. L. P. Spontini, 1774-1851)、ロッシーニ(G. A. Rossini, 1792-1868)、ドニゼッティ(G. Donizetti, 1797-1848)、ベッリーニ(V. Bellini, 1801-35)などが続々と登場します。パイジェロはオペラ・ブッファの面で見るべき業績を遺し、そのブッファ的な表現技法はモーツァルトに影響を与えています。18世紀の項で紹介したチマローザの次の世代にあたるケルビーニは、20歳代後半にパリに定住し、後にパリ音楽院の教授・院長になった人です。また、スポンティーニは1820年以後はイタリアを離れて、ベルリンの宮廷楽長の地位についています。
名演奏家の出現
作曲家が作品を書いて、演奏家がそれを演奏し、一般の人たちがそれを聴くという演奏会の形式が完全に確立するのは、20世紀に入ってからです。バロック時代のバッハや古典派時代のハイドンを例に引くまでもなく、音楽家は生活手段として、宮廷楽長や教会の合唱長、あるいはオーケストラの楽員とか一時的に雇用された音楽家として、定職を得ることが必要でした。しかし、時代が変って、ベートーヴェンのように、自作品の演奏会の開催(ほとんどは作曲者自身で演奏されたが)による収入、弟子の教育による月謝、出版印税、依頼作品の報酬などによって、定職を持たないでも生活していけるようになっていきます。それが、19世紀はじめの状態だったのです。
市民社会が成立して、音楽家の自立ができるようになると、演奏を主体とする音楽家も現れるようになり、しだいに職業として作曲家と演奏家が分離するようになりました。その最も代表的な人に、ヴァイオリンのパガニーニとピアノのリストがいます。
市民社会が成立して、音楽家の自立ができるようになると、演奏を主体とする音楽家も現れるようになり、しだいに職業として作曲家と演奏家が分離するようになりました。その最も代表的な人に、ヴァイオリンのパガニーニとピアノのリストがいます。
古典主義からロマン主義へ
18世紀の最初の四半世紀時代におけるロマン主義音楽には、まだ多分に古典主義的な形式性が残されていたとはいえ、やはり、古典主義音楽とは違ったある種の味わいが感じられます。たとえばメンデルスゾーンの交響曲は、古典的なソナタ形式にしたがってまとめられてはいるものの、主題とその展開、オーケストラの響き、あるいはその色彩的な使いかたなどにより、楽しさに満ちた雰囲気が醸し出されており、これは古典派時代の音楽にはなかったものといえます。形式性はしっかり守られているものの、その形式性の中には、極めて個人的な情緒が盛り込まれており、それが聞く人の心に訴えかけてくるのです。
標題音楽とは
ベルリオーズ(H. Berlioz, 1803-69)が1830年に書いた《幻想交響曲》は5楽章から成り、その各楽章には、《夢、情熱》《舞踏会》《野原の情景》《刑場への行進》《悪魔の祝日の夜の夢》といった標題がつけられています。そして、楽曲の冒頭には「恋に狂い、生活に疲れた若い芸術家が、夢とも幻想ともつかない不思議な夢をみた。その夢はこんな夢であった」と書いてあり、この曲が表そうとした音楽的内容を説明しています。つまり、この曲を聴くときには、そうした標題を意識して音楽を聞いてほしいという、作曲者からの注文が加えられたことになります。
ピアノ音楽の隆盛
19世紀の前半時代は、ベートーヴェンをはじめ、多くのピアノの名手たちが現れました。それは1つには、この時期にピアノの楽器としての機能がほぼ完成したからでもあります。チェンバロにかわって、ピアノが家庭内にも入るようになり、家庭的な音楽が楽しまれるようになったことから、いわゆるハウスムジーク的な作品も書かれるようになりました。シューベルトやメンデルスゾーンによるピアノ小品も、当時のそうした傾向を反映したものといえますし、シューマン(R. Schumann, 1810-56)によるピアノ曲にも同じことがいえるでしょう。
その後の歌劇界
歌劇の国イタリアでは、19世紀前半のロッシーニらの活躍のあとを継ぐようにして、ヴェルディ(G. Verdi, 1813-1901)が現れます。ヴェルディは、ドイツで楽劇を創始したワーグナーと同じ1813年の生まれです。ワーグナーが歌劇作曲家として名声をあげ、1845年に《タンホイザー》を上演したのと相前後して、ヴェルディは1851年に《リゴレット》を発表し、歌劇作曲家としての名声を確立していきます。この2人の作曲家は、その後も、一方は伝統的なイタリア歌劇の世界を代表し、他方はドイツ歌劇、特に楽劇という新しいジャンルにおいて、それぞれの道をほぼ並行して歩んでいくことになります。