音楽史について学ぶ
バロック音楽
バッハとヘンデル
バッハとヘンデルは同年の1685年の生まれです。この年にはドメニコ・スカルラッティも生まれていますが、没年の方は、バッハが1750年、スカルラッティが1757年、ヘンデルが1759年となります。この1759年には、ハイドンはモルツィン伯の宮廷楽長の職につき、その2年後にエステルハージ家の副楽長に就任しています。つまり、バッハやヘンデルが世を去った時期には、すでに古典主義音楽が始動し始めていたといえるのです。1750年をバロックの終期とする時代区分も、そういう意味では、納得のできるものといえるでしょう。
バッハ
ヘンデル
バッハ(J. S. Bach, 1685-1750)は、音楽家の家系に生まれ、宮廷楽団のヴァイオリン奏者や教会のオルガニストなどを務めながらの修業時代を過ごします。そして1708年からワイマールの宮廷に、ついで1717年からはケーテンの宮廷にそれぞれ仕えた後、1723年からはライプツィヒのトーマス教会の合唱長の職について、その生涯を終えました。一方、ヘンデル(G. F. Händel, 1685-1759)は、バッハの生地からそれほど遠くないハレという町で生まれ、1703年にはハンブルクの歌劇場のヴァイオリン奏者となります。その後イタリアへ移って修行を重ね、歌劇作曲家として名をあげたあと、ロンドンに移りました。その地で20年以上にわたり歌劇運動を行いますが、晩年に発表したオラトリオ作品で最終的な名声を確立することになります。
同年に生れたこの2人の大作曲家のうち、バッハは生地から遠く離れることはなく、その一生を宮廷ないしは教会の音楽家として過ごします。ヘンデルはそれとは対照的に、ドイツ、イタリア、イギリスと、当時のヨーロッパの主要国を歩いて縦横無尽な活躍をしました。2人とも、中世以来のポリフォニックな様式にもとづく作品を残しましたが、ヘンデルの作品には、ややホモフォニックな色彩が強いといえます。バッハは中世ないしはバロック的な古い音楽家の生き方の中で活動しましたが、ヘンデルの方は、より大衆に密着した歌劇運動に身を投じていただけに、その音楽はいきいきとしたなにか張りのある気分にあふれ、大胆で、スケールの大きさが感じられます。しかし、当時すでに古くなりつつあったイタリア歌劇を踏襲した形で作品を書いていたため、皮肉なことに、現在では部分的に演奏されることはあっても、その作品はほとんど忘れ去られてしまっています。
それに対して、バッハは、ケーテン時代の器楽作品を除いては、主として教会音楽に集中して作品を書いていました。当世ふうな次元で書かなかっただけに、その孤高を保つことができ、歴史的には後世へ大きな影響を与えることになったのです。いずれにせよ、この2人の大作曲家の作品に中世的ポリフォニーの世界が結実すると同時に、それはまた、新しいホモフォニックな音楽の到来を意味するものとなりました。
同年に生れたこの2人の大作曲家のうち、バッハは生地から遠く離れることはなく、その一生を宮廷ないしは教会の音楽家として過ごします。ヘンデルはそれとは対照的に、ドイツ、イタリア、イギリスと、当時のヨーロッパの主要国を歩いて縦横無尽な活躍をしました。2人とも、中世以来のポリフォニックな様式にもとづく作品を残しましたが、ヘンデルの作品には、ややホモフォニックな色彩が強いといえます。バッハは中世ないしはバロック的な古い音楽家の生き方の中で活動しましたが、ヘンデルの方は、より大衆に密着した歌劇運動に身を投じていただけに、その音楽はいきいきとしたなにか張りのある気分にあふれ、大胆で、スケールの大きさが感じられます。しかし、当時すでに古くなりつつあったイタリア歌劇を踏襲した形で作品を書いていたため、皮肉なことに、現在では部分的に演奏されることはあっても、その作品はほとんど忘れ去られてしまっています。
それに対して、バッハは、ケーテン時代の器楽作品を除いては、主として教会音楽に集中して作品を書いていました。当世ふうな次元で書かなかっただけに、その孤高を保つことができ、歴史的には後世へ大きな影響を与えることになったのです。いずれにせよ、この2人の大作曲家の作品に中世的ポリフォニーの世界が結実すると同時に、それはまた、新しいホモフォニックな音楽の到来を意味するものとなりました。