バロック音楽

音楽史について学ぶ

バロック音楽

バロック音楽の背景

劇音楽が誕生した1600年から、大バッハ(J. S. バッハ)の死んだ1750年までの約150年間をバロック音楽の時代とよびます。政治的には絶対主義の時代です。なかでも、その体制を最も早く確立したフランスでは、この時期、ルイ13世(在位1610-43)、ルイ14世(在位1643-1715)、ルイ15世(在位1715-74)という3代の君主が立ち、とくにルイ14世時代には、バロック建築として有名なヴェルサイユ宮殿を中心に、けんらんたるフランス文化が繰り広げられました。しかし、ドイツはまだ統一されておらず、諸侯が分立している形が続いていました。神聖ローマ帝国の皇位継承権を持つオーストリアがやや衰えを見せ始め、むしろ新興勢力であったプロイセンが次第に優位に立ち、18世紀の中頃にはフリードリヒ大王(在位1740-86)が登場してきます。
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歌劇の誕生とその発展

16世紀の末頃、イタリアのフィレンツェに、カメラータとよばれる、ある貴族を中心とした文化人グループがありました。有名な天文学者の父で音楽家であったヴィンチェンツォ・ガリレイ(V. Galilei, 1520-91)や作曲家のカッチーニ(G. Caccini, 1550頃-1618)、その地の宮廷楽長だったペーリ(J. Peri, 1561-1633)、オラトリオの創始者として知られるカヴァリエリ(E.del Cavalieri, 1550頃-1602)、それに詩人のリヌッチーニ(Q. Rinuccini, 1562-1621)などがそのメンバーでした。
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その後の歌劇

こうして始まったイタリア歌劇は、17世紀の後半から18世紀の初めにかけて、活動の中心がヴェネツィアからナポリに移ります。その中心的な人物がアレッサンドロ・スカルラッティ(A. Scarlatti, 1659-1725)でした。このナポリにおける歌劇運動のなかで、ダ・カーポ・アリアと呼ばれる独唱形式やイタリア式序曲といわれる器楽曲形式が確立されて、歌劇が形式的にも整えられるに至ります。
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バロック時代の器楽

この時期には、オルガンやチェンバロ、クラヴィコードなどの鍵盤楽器のための音楽や、弦楽器、ことにヴァイオリンのための音楽が盛んに作られていました。鍵盤楽器では、オルガンとその他のものとの区別が次第に明確になっていきます。オルガン音楽では、フーガをはじめとして、ファンタジア、トッカータ、プレリュード、パッサカリア、シャコンヌなどの固有の形式が確立するとともに、演奏もかなりはっきりした形でまとまって、ヴィルトゥオーソ(名人芸)的な面が強くあらわれるようになってきます。それに対して、チェンバロやクラヴィコードの場合には、組曲が中心的な曲種となり、この2種の楽器のそれぞれの特徴がしだいに明確にされるようになりました。
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当時の器楽作曲家たち

この時期のヴァイオリン音楽には、ヴィタリ(G. B. Vitali, 1644頃-92)、トレリ(G. Torelli)、コレッリ(A. Corelli, 1653-1713)などの作曲家が活躍しました。彼らの作品には、教会ソナタ(緩急の4楽章の配列)、室内ソナタ(組曲とほとんど同じ)、独奏ソナタなどの形式によるものが多く、すぐ次に続く古典主義時代に重要な影響を与えていくことになります。とくに、コレッリの書いた12曲の合奏協奏曲は、この形式の確立を意味する重要性をもち、トリオ・ソナタ(2つのヴァイオリン、通奏低音を受けもつ低弦楽器とチェンバロで奏する三声部の楽曲)の形は、コレッリが完成したものとされています。
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バッハとヘンデル

バッハとヘンデルは同年の1685年の生まれです。この年にはドメニコ・スカルラッティも生まれていますが、没年の方は、バッハが1750年、スカルラッティが1757年、ヘンデルが1759年となります。この1759年には、ハイドンはモルツィン伯の宮廷楽長の職につき、その2年後にエステルハージ家の副楽長に就任しています。つまり、バッハやヘンデルが世を去った時期には、すでに古典主義音楽が始動し始めていたといえるのです。1750年をバロックの終期とする時代区分も、そういう意味では、納得のできるものといえるでしょう。
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