音楽史について学ぶ
古典主義の音楽
古典主義音楽の背景
古典派の音楽を代表するのは、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンという3人の作曲家です。
ハイドン
ハイドン(F. J. Haydn, 1732-1809)は1750年代に作曲活動を始め、その生涯は19世紀の初めまで続きました。モーツァルト(W. A. Mozart, 1756-91)は、神童の誉れ高く、一桁の年齢、つまり1760年代から作品を書き始めたものの、その生涯は短く、1791年に35歳の生涯を閉じています。ベートーヴェン(L. v. Beethoven, 1770-1827)は、その2人よりやや生年が遅く、19世紀の最初の四半世紀までその生涯を伸ばしますが、彼の没年時代には、すでにロマン主義の音楽が華やかに開始されていました。
しかし、この古典派の開幕に先立ち、バロックから古典派への過渡的な時期が存在します。その動きの中に、古典主義音楽の萌芽も見られるところから、その時期を前古典主義の時代と呼ぶことがあります。時代的には1740~80年頃のことです。
バロック時代は、社会的には絶対主義時代に重なりますが、18世紀末にはフランス革命がおこって、社会体制はもちろんのこと、人間の思想にも大きな変化をもたらしました。その変革を指導し、推進したのが、啓蒙思想でした。
絶対主義体制下にあった人々も、科学の発達や思想の変化にしたがって、絶対主義に対して疑問を持ち始めていました。彼らは神や神への信仰の代りに、心のよりどころを人間の理想に求めようとしたのです。カントが「なんじ自身の悟性を使用する勇気を持て」と表明した言葉にも、それがよく表されています。この考え方がつまりは啓蒙思想であり、18世紀の後半において思想界の中心的な考え方となっていくのです。
啓蒙主義はことにフランスで発達し、モンテスキュー(C. Montesquieu, 1689-1755)、ヴォルテール(Voltaile, 1694-1778)、ルソー(J. J. Rousseau, 1712-78)などが輩出します。そして、それをさらに推進したのが、この3人を含む百科全書派とよばれるグループです。彼らは哲学者のディドロ(D. Diderot, 1713-84)を中心に、20年余もかけて、近代哲学や自然科学の知識を盛り込んだ百科全書を編纂して、彼らの思想を強く訴え、それが後のフランス革命を準備する役割を果たすのです。
しかし、だからといって、急に社会体制が変化したというわけではなく、音楽家の地位は依然として低く、宮廷ないしは教会に仕える一奉公人という立場に変りはありませんでした。当時の音楽家が宮廷楽長ないしは教会の合唱長という地位を欲しがったのも、それによって地位が安定し、収入を確保することができたからです。ハイドンが30年近くも務めたエステルハージ家の宮廷楽長という地位も、優遇はされていましたが、本質的には、その身分に変りはありませんでした。またモーツァルトが、後年ウィーンで独立せざるをえなかったのも、そうした安定した地位を得ようとして得られなかった結果の、余儀ない生活形態だったのです。しかし、その後ベートーヴェンやシューベルトの時代、つまり19世紀の最初の四半世紀時代になると、近代的な意味での自立する音楽家の姿を認めることができるようになります。それこそ、ロマン派時代の音楽家の姿といえるでしょう。
しかし、この古典派の開幕に先立ち、バロックから古典派への過渡的な時期が存在します。その動きの中に、古典主義音楽の萌芽も見られるところから、その時期を前古典主義の時代と呼ぶことがあります。時代的には1740~80年頃のことです。
バロック時代は、社会的には絶対主義時代に重なりますが、18世紀末にはフランス革命がおこって、社会体制はもちろんのこと、人間の思想にも大きな変化をもたらしました。その変革を指導し、推進したのが、啓蒙思想でした。
絶対主義体制下にあった人々も、科学の発達や思想の変化にしたがって、絶対主義に対して疑問を持ち始めていました。彼らは神や神への信仰の代りに、心のよりどころを人間の理想に求めようとしたのです。カントが「なんじ自身の悟性を使用する勇気を持て」と表明した言葉にも、それがよく表されています。この考え方がつまりは啓蒙思想であり、18世紀の後半において思想界の中心的な考え方となっていくのです。
啓蒙主義はことにフランスで発達し、モンテスキュー(C. Montesquieu, 1689-1755)、ヴォルテール(Voltaile, 1694-1778)、ルソー(J. J. Rousseau, 1712-78)などが輩出します。そして、それをさらに推進したのが、この3人を含む百科全書派とよばれるグループです。彼らは哲学者のディドロ(D. Diderot, 1713-84)を中心に、20年余もかけて、近代哲学や自然科学の知識を盛り込んだ百科全書を編纂して、彼らの思想を強く訴え、それが後のフランス革命を準備する役割を果たすのです。
しかし、だからといって、急に社会体制が変化したというわけではなく、音楽家の地位は依然として低く、宮廷ないしは教会に仕える一奉公人という立場に変りはありませんでした。当時の音楽家が宮廷楽長ないしは教会の合唱長という地位を欲しがったのも、それによって地位が安定し、収入を確保することができたからです。ハイドンが30年近くも務めたエステルハージ家の宮廷楽長という地位も、優遇はされていましたが、本質的には、その身分に変りはありませんでした。またモーツァルトが、後年ウィーンで独立せざるをえなかったのも、そうした安定した地位を得ようとして得られなかった結果の、余儀ない生活形態だったのです。しかし、その後ベートーヴェンやシューベルトの時代、つまり19世紀の最初の四半世紀時代になると、近代的な意味での自立する音楽家の姿を認めることができるようになります。それこそ、ロマン派時代の音楽家の姿といえるでしょう。