音楽史について学ぶ
古典主義の音楽
その後の音楽界の推移
ラモー
グルック
クリストフォリのピアノ
この時期の歌劇界には、ドイツ人ですが、主としてイタリアで活躍したハッセ(J. A. Hasse, 1699-1783)、反対に、イタリア人でウィーンその他で活動したヨメリ(N. Jommelli, 1714-74)、あるいはピッチーニ(N. Piccini, 1728-1800)などが出て、19世紀はじめにロッシーニその他が現れるまでの歌劇界を推進していきます。
フランスにはラモーが現れて、フランス歌劇をさらに一歩進めます。1722年に《和声論》を発表し、近代的な和声連結を示して、その後の機能和声の基礎を確立したことも、ラモーの重要な業績といえます。また、この時期のフランス歌劇界には、イタリアのオペラ・ブッファを称賛するグループと、フランス式の宮廷オペラを支持するグループとに分かれて、いわゆるブフォン論争が引き起こされました。その前者が百科全書派のような啓蒙主義者たちのグループだったことは、やがて、フランス革命が引き起こされてくるだけに、きわめて象徴的なことといわなければなりません。
一方、その頃、オーストリアにはグルック(C. W. Gluck, 1714-87)が出て、歌劇の改革を進めていました。それまでの歌劇のほとんどは、歌手の技巧を誇示することに拘って、歌劇の劇音楽としての本来の性格を失うようになっていました。そこでグルックは、まず台本の言葉を生かし、それにふさわしい音楽をつけることを考えたのです。そのために序曲を歌劇全体の劇的な内容と結びつけたり、レチタティーヴォとアリアの差をなくしたりするような直接的な改良を加えて、歌劇を本来の姿に戻そうとしたのです。彼の作品としては《オルフェウス》がよく知られています。
この時期を器楽面から見ると、1つは鍵盤楽器の分野でそれまで中心的な楽器として愛されていたチェンバロやクラヴィコードにとって代って、ピアノがその首座を占めるようになったこと。そしてもう1つは、マンハイム楽派に見られるオーケストラ音楽の隆盛という、2つの現象が目立っています。
ピアノがイタリアのクリストフォリ(B. Cristofori, 1655-1731)によって発明されたのは1709年ですが、楽器としての機能が整えられ、広く用いられるようになるのは18世紀後半になってからです。ハイドンやモーツァルトのピアノ曲も、最初の頃の作品ではチェンバロ的な奏法が反映されていますが、後年の作品では、作曲者がピアノで弾くことを明確に意識して書いているところがあります。もちろん、ベートーヴェンは最初からピアノで学び、ピアノのための作品を書いています。
そして、このピアノという新しい楽器への移行は、当然のことながら、楽曲にも変化を与えることになりました。チェンバロ時代に多用された組曲は次第に姿を消して、ソナタが定着し、バロックふうな合奏協奏曲(複数の楽器によるアンサンブル曲)に代って、独奏協奏曲(ソロ楽器とオーケストラが共演する曲)が盛んに作られるようになったのです。音楽そのものも、ホモフォニックな手法で簡明で率直な音楽へと変化しつつありました。この面では、ドメニコ・スカルラッティが、いち早く二部構成の1楽章のソナタを多く書きました。それに続く世代には、バッハの息子たち、つまり、フリーデマン・バッハ(W. F. Bach, 1710-84)、エマヌエル・バッハ(C. P. E. Bach, 1714-88)、クリスティアン・バッハ(J.C. Bach, 1735-82)などがおり、この分野での作品を残しています。とくに、エマヌエル・バッハは、従来の二部構成のソナタから、展開部をはっきりと独立させ、古典派で確立されることになる三部構成のソナタ形式への道を開いて、同時の3楽章制のソナタという組形式の成立へも大きな貢献を果たしました。また、エマヌエル・バッハによる《クラヴィーア奏法試論》は、当時のピアノ音楽を知る上にはきわめて貴重な書といえます。
オーケストラ音楽の面では、まだそれほど高い水準に達していたわけではないとはいえ、マンハイムの宮廷にヨハン・シュターミッツ(J. Stamitz, 1717-57)を指導者とする、優れたオーケストラがありました。楽員の数も50名に近い編成をもち、交響曲と題された作品も演奏していました。しかし、当時では、オーケストラは貴族の私有という形でしたから、その所有者の経済的条件に左右されることも少なくありませんでした。ハイドンがエステルハージ家で監督し、指揮をしていたオーケストラも、せいぜい20人程度のごく貧弱なものでしかなかったのです。
しかしベートーヴェン時代になると、クラリネットも常用されるようになって、2管編成が定着してきます。一般の大衆が参加する音楽会も開かれるようになって、オーケストラ音楽もその基本的な形を完成することになるのです。
フランスにはラモーが現れて、フランス歌劇をさらに一歩進めます。1722年に《和声論》を発表し、近代的な和声連結を示して、その後の機能和声の基礎を確立したことも、ラモーの重要な業績といえます。また、この時期のフランス歌劇界には、イタリアのオペラ・ブッファを称賛するグループと、フランス式の宮廷オペラを支持するグループとに分かれて、いわゆるブフォン論争が引き起こされました。その前者が百科全書派のような啓蒙主義者たちのグループだったことは、やがて、フランス革命が引き起こされてくるだけに、きわめて象徴的なことといわなければなりません。
一方、その頃、オーストリアにはグルック(C. W. Gluck, 1714-87)が出て、歌劇の改革を進めていました。それまでの歌劇のほとんどは、歌手の技巧を誇示することに拘って、歌劇の劇音楽としての本来の性格を失うようになっていました。そこでグルックは、まず台本の言葉を生かし、それにふさわしい音楽をつけることを考えたのです。そのために序曲を歌劇全体の劇的な内容と結びつけたり、レチタティーヴォとアリアの差をなくしたりするような直接的な改良を加えて、歌劇を本来の姿に戻そうとしたのです。彼の作品としては《オルフェウス》がよく知られています。
この時期を器楽面から見ると、1つは鍵盤楽器の分野でそれまで中心的な楽器として愛されていたチェンバロやクラヴィコードにとって代って、ピアノがその首座を占めるようになったこと。そしてもう1つは、マンハイム楽派に見られるオーケストラ音楽の隆盛という、2つの現象が目立っています。
ピアノがイタリアのクリストフォリ(B. Cristofori, 1655-1731)によって発明されたのは1709年ですが、楽器としての機能が整えられ、広く用いられるようになるのは18世紀後半になってからです。ハイドンやモーツァルトのピアノ曲も、最初の頃の作品ではチェンバロ的な奏法が反映されていますが、後年の作品では、作曲者がピアノで弾くことを明確に意識して書いているところがあります。もちろん、ベートーヴェンは最初からピアノで学び、ピアノのための作品を書いています。
そして、このピアノという新しい楽器への移行は、当然のことながら、楽曲にも変化を与えることになりました。チェンバロ時代に多用された組曲は次第に姿を消して、ソナタが定着し、バロックふうな合奏協奏曲(複数の楽器によるアンサンブル曲)に代って、独奏協奏曲(ソロ楽器とオーケストラが共演する曲)が盛んに作られるようになったのです。音楽そのものも、ホモフォニックな手法で簡明で率直な音楽へと変化しつつありました。この面では、ドメニコ・スカルラッティが、いち早く二部構成の1楽章のソナタを多く書きました。それに続く世代には、バッハの息子たち、つまり、フリーデマン・バッハ(W. F. Bach, 1710-84)、エマヌエル・バッハ(C. P. E. Bach, 1714-88)、クリスティアン・バッハ(J.C. Bach, 1735-82)などがおり、この分野での作品を残しています。とくに、エマヌエル・バッハは、従来の二部構成のソナタから、展開部をはっきりと独立させ、古典派で確立されることになる三部構成のソナタ形式への道を開いて、同時の3楽章制のソナタという組形式の成立へも大きな貢献を果たしました。また、エマヌエル・バッハによる《クラヴィーア奏法試論》は、当時のピアノ音楽を知る上にはきわめて貴重な書といえます。
オーケストラ音楽の面では、まだそれほど高い水準に達していたわけではないとはいえ、マンハイムの宮廷にヨハン・シュターミッツ(J. Stamitz, 1717-57)を指導者とする、優れたオーケストラがありました。楽員の数も50名に近い編成をもち、交響曲と題された作品も演奏していました。しかし、当時では、オーケストラは貴族の私有という形でしたから、その所有者の経済的条件に左右されることも少なくありませんでした。ハイドンがエステルハージ家で監督し、指揮をしていたオーケストラも、せいぜい20人程度のごく貧弱なものでしかなかったのです。
しかしベートーヴェン時代になると、クラリネットも常用されるようになって、2管編成が定着してきます。一般の大衆が参加する音楽会も開かれるようになって、オーケストラ音楽もその基本的な形を完成することになるのです。