その後のドイツ、オーストリアとフランス

音楽史について学ぶ

近代・現代の音楽

その後のドイツ、オーストリアとフランス

国民主義音楽は19世紀後半に、国家的にも音楽的にもやや立ち遅れていた諸国において、特に顕著な隆盛を見せましたが、従来からの音楽国にあっても、多かれ少なかれ、国民的な音楽を書くという考えが生れてきます。
マーラー
マーラー
ドイツ、オーストリアでは、ワーグナーの死後、ブルックナー(J. A. Bruckner, 1824-96)、ヴォルフ(H. P. J. Wolf, 1860-1903)、マーラー(G. Mahler, 1860-1911)などがその流れの上に活躍し、一方、ブラームス系の作曲家としては、レーガー(M. Reger, 1873-1916)をあげることができます。
ブルックナーは9つの交響曲を中心的な作品として遺しましたが、いずれにも、ワーグナー色が強く反映されており、どの交響曲も1時間あまりを要する大曲となっています。ヴォルフは歌曲作曲家として、ドイツ・リートの道をやや違った角度から練り直し、独特の世界を展開しました。マーラーも交響曲の作曲家として活動しましたが、歌曲でも《亡き子をしのぶ歌》や《さすらう若人の歌》《子どもの不思議な角笛》などを書いています。また、指揮者としての活動にも大きな足音を遺しました。また、レーガーはブラームスに傾倒し、古典形式を尊重した作品を作り出しました。

この時期には、ほかにも、ヴァイオリン協奏曲で知られるブルッフ(M. Bruch, 1838-1920)、歌劇《ヘンゼルとグレーテル》で親しまれているフンパーディンク(E. Humperdinck, 1854-1921)、ピアニストとして活動したモシュコフスキー(M. Moszkowski, 1854-1925)、それにプフィッツナー(H. Pfitzner, 1869-1921)などが活躍し、その流れの中にリヒャルト・シュトラウス(R. Strauss, 1864-1949)が登場してきます。シュトラウスの後半生は20世紀の前半と重なりますが、作風はあくまでもワーグナーふうの流儀にしたがった作曲家でした。しかし、現代音楽的な多調性や無調性の技法も取り入れた、多くの交響詩や楽劇、歌曲などを遺しており、現代ドイツ音楽の基礎を築いた功績はけっして小さくありません。
フォーレ
フォーレ
フランスでは、19世紀前半の抒情歌劇全盛時代のあとを受けて、後半時代になると、フランク(C. Frank, 1822-90)と、その流れをくむダンディ(V. d'Indy, 1851-1931)、デュパルク(H. Duparc, 1848-1933)、ショーソン(E. Chausson, 1855-99)など、あるいは、そのグループとは対照的な存在であったサン=サーンス(C. Saint-Saëns, 1835-1921)、フォーレ(G. Fauré, 1845-1924)、シャブリエ(A. E. Chabrier, 1841-94)などが登場してきます。彼らは歌劇面ばかりでなく、器楽の分野でも多彩な作品を書いて、近代フランス音楽の基礎を築き上げました。

フランクはベルギー出身ですが、パリ音楽院に学び、その生涯のほとんどを教会オルガニストとして過ごしました。作品的には寡作であり、構成的には堅固ながら、やや地味な作風をみせています。《フランス山人の歌による交響曲》で知られるダンディはフランクの弟子で、理論面での仕事にも重要な業績を遺しています。また、デュパルクは《旅へのいざない》という歌曲によってよく知られていますが、後半生は精神的疾患のために隠遁生活を送りました。ショーソンは《詩曲》がよく知られています。
サン=サーンスは、その長い生涯を精力的に活動した人で、わかりよさとよい意味での国際性を身上とする作曲家でした。彼の門下であるフォーレにも、師と同じ傾向が認められ、歌曲や室内楽曲、ピアノ曲などに名作を遺しています。そのフォーレと同時代のシャブリエは、作品の数は少ないものの、狂詩曲《スペイン》が有名です。

こうしたフランスの作曲家たちは、その作風においてはそれぞれ違った道を歩いたとはいえ、国民的な音楽を作るという点では同じ考えをもっていました。彼らが集まって、1871年には国民音楽協会が作られ、ある意味で国民主義的ともいえる運動をはじめます。こうした活動が基礎になって、20世紀におけるフランス音楽の隆盛が導かれていったのです。