番外編 その他の名曲

番外編 その他の名曲

今回は番外編として、これまでご紹介できなかった作曲家の作品から5曲を取り上げたいと思います。クラシック音楽には、他にもたくさんの名曲が長い歴史のなかで生まれてきました。このページを読んで興味を持ってくださった方々は、演奏会やCDなどを通じて、広大な「名曲の森」へさらに分け入っていただけたら、筆者としてはうれしいです。

ヨハン・パッヘルベル

  • パッヘルベル:カノンとジーグ ニ長調

ヨハン・パッヘルベル
ヨハン・パッヘルベル(1653~1706)はオルガン奏者兼作曲家で、エアフルト、ニュルンベルクなどドイツ中東部で活躍しました。バッハが活動していた地域と重なっていますが、パッヘルベルのほうが年長で、おそらくバッハはパッヘルベルから少なからぬ影響を受けていたと想像されます。彼は各地の様々な教会でオルガニストを務めていたので、残された作品にはオルガン曲や礼拝のための声楽曲が目立ちます。しかし、彼の名前を現在有名にしているのは、何と言っても、ここでご紹介する「カノンとジーグ ニ長調」、とくにその前半部分である「カノン」の存在です。おそらく、パッヘルベルの名前を知らなくても、「カノン」は聴いたことがあるという人も多いのではないでしょうか。

「カノンとジーグ ニ長調」は、3本のヴァイオリンと通奏低音によって演奏される作品です。有名な「カノン」の部分は、まず通奏低音によって2小節の主題が奏されます。そしてこの2小節の主題が28回も繰り返され、その上で3本のヴァイオリンが変奏を繰り広げていきます。この変奏は非常に精巧にできていて、各ヴァイオリン・パートは同じ旋律を2小節ずつずらしながら奏するのです(これは「かえるの歌」で有名な輪唱と同じ要領の作曲法で、ヨーロッパではこの作曲法は「カノン」と呼ばれています)。カノンは非常に難しい作曲法なのですが、この作品を聴く時はその難しさを感じることはなく、ヴァイオリンが繰り広げる華やかな競演に惹きつけられることでしょう。そのせいか、ポピュラー音楽のなかにはパッヘルベルのカノンを引用した作品が多く見受けられますし、同じパターンの低音を繰り返すやり方は、いわゆる「ヒップホップ」と似ています。「カノン」に続く「ジーグ」は舞曲の名前です。「ジーグ」という舞曲は非常に軽快な性格のものですから、「カノン」とは対照的な音楽となっています。「カノン」に比べて有名ではありませんが、是非とも2つの部分をペアで聴いていただきたいと思います。

エドヴァルド・グリーグ

  • グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調
エドヴァルド・グリーグ(1843~1907)はノルウェー出身の作曲家です。ドイツのライプツィヒ音楽院で学び、メンデルスゾーンやシューマンといったドイツ・ロマン派の作曲家たちの影響を受けながらも、自国ノルウェーの民族色を打ち出した音楽を書きました。したがって、グリーグは、第10回でご紹介した「国民楽派」の作曲家たちと同じような立場にある作曲家と言えるでしょう。グリーグの作品のうち、現在でも好んで演奏されるのは、ここでご紹介するピアノ協奏曲のほか、劇音楽「ペール・ギュント」やピアノ独奏のための「叙情小曲集」などがあります。


グリーグと妻ニーナ(Peter Severin Kroyer画)

ピアノ協奏曲イ短調は、グリーグが25歳の時、1868年に作曲されました。グリーグが完成した協奏曲を当時の最も高名なピアニストであったフランツ・リストにみせたところ、リストは初見で完璧に弾きこなし、グリーグを驚かせました。そして、リストは若き作曲家グリーグの才能を賞賛し、激励したと言われています。しかし、正式な初演はリストではなく、グリーグの友人だったピアニスト、エドムント・ノイペルトによって1869年にデンマークのコペンハーゲンで行われています。それ以来、この作品は最も人気のあるピアノ協奏曲として今日まで愛好されています。グリーグは二番目のピアノ協奏曲を書こうとして完成にまで漕ぎ着けられなかったのも、このイ短調の協奏曲が余りにも有名になってしまったからでしょう。確かに、この作品は第1楽章の出だしからして、印象的です。ティンパニがクレッシェンドで轟いた後、ピアノ独奏が颯爽と弾き始める序奏の部分は、おそらくシューマンのピアノ協奏曲からの影響と思われますが、聴き手を引き込む魅力的なものでしょう。ロマンティックな歌に満ちた第2楽章、ノルウェーの民族的な舞曲に基づく第3楽章も、グリーグならではの情熱と美しさを示しています。

ガブリエル・フォーレ

  • フォーレ:レクイエム

ガブリエル・フォーレ
ガブリエル・フォーレ(1845~1924)はフランスの作曲家、オルガン奏者で、パリ音楽院の院長を務めるなど、教育者としても活躍しました(弟子にはラヴェルがいます)。フォーレは長命でしたので、創作期間も長く、多くの作品を残しています。また、別項にご紹介した同世代のグリーグのように、フランスらしい音楽を作ろうという運動に参加し、フランスにおける「国民楽派」の代表的な作曲家とみなすこともできるでしょう。

フォーレはルネサンス時代以前に用いられていた「教会旋法」という音階に興味を抱き、この教会旋法を用いた作曲法を自作に取り入れています。そのためか、フォーレの作品は、第11回の時にみた、調性による伝統的な作曲法に基づく音楽とは異なる響きを感じ取ることができます。

「レクイエム」とは、キリスト教の教会で行われるお葬式のためのミサで用いられる音楽のことで、ルネサンス時代以来、多くの作曲家が「レクイエム」を書いてきました。フォーレの作品は、モーツァルト、ベルリオーズ、ヴェルディなどと並んで、演奏機会の多い「レクイエム」です。全体はお葬式の式次第に則って7つの楽章に分かれています(構成は時代、国、作曲家によって異なることがあります)。その7つの楽章すべてに通じるのは、必要以上に悲しんだり嘆いたりすることのない、節度をもったなかで、繊細な表現を目指している点でしょう。たとえば、バリトン独唱が印象的な「リベラ・メ」では、最後の審判における恐ろしさが描かれていきますが、その描写はオペラのようなしつこさとは無縁で、節度が保たれています。主に憐れみを乞う「ピエ・イエズ」は繊細な美しさを極めた楽章で、静かな伴奏に乗って歌われるソプラノ独唱の旋律は一度聴いたら忘れることができません。死後の安息を願い、祈るための音楽として、これほど相応しいものがあるでしょうか。

セルゲイ・ラフマニノフ

  • ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18

セルゲイ・ラフマニノフ
セルゲイ・ラフマニノフ(1873~1943)はロシア出身の作曲家、ピアニストです。ラフマニノフは指揮者としても活動し、オペラ、歌曲、交響曲など多彩な分野に作品を残していますが、最もよく知られている分野はもちろん、ピアノ曲です。とりわけ、ピアノ協奏曲第2番の人気は飛び抜けており、ラフマニノフの代名詞的な作品と言えるでしょう。

この作品は27歳の頃に書かれたものですが、それ以前のラフマニノフは極度のスランプに陥り、作曲活動から離れていました。その原因は1897年に初演された交響曲第1番ニ短調が不評だったことでした。そのショックで彼は3年もの間、作曲できなくなってしまったのです。しかし、ニコライ・ダール博士という催眠療法の専門家の治療を受けることで立ち直り、作曲活動を再開することができました。再開後初の大作であるピアノ協奏曲第2番は1901年11月の初演で成功を収め、作曲家としての自信も蘇ってきたのです。

この協奏曲は、グリーグの協奏曲と同じく、第1楽章の出だしが新鮮です。ピアノ独奏が低音域で弔いの鐘のような神秘的なソロを弾き、盛り上がったところで、情熱的な第1主題がオーケストラから流れ出します。第2楽章はラフマニノフらしい幻想的な美しさを湛えた音楽で、悲劇的な性格の第1楽章とは対比的です。第3楽章はリズミカルな主要主題と美しい旋律が印象的な副次主題から構成され、ピアノ独奏の技巧もいっそう華やかさを増しています。最後は副次主題が高らかに奏され、華麗な協奏曲に相応しい幕切れが用意されますが、このあたりは前述のグリーグ、あるいは尊敬する先輩作曲家チャイコフスキーの作品にも似た展開と言えるでしょう。

オットリーノ・レスピーギ

  • レスピーギ:交響詩《ローマの祭り》

オットリーノ・レスピーギ
オットリーノ・レスピーギ(1879~1936)は20世紀前半に活躍したイタリアの作曲家です。交響詩《ローマの祭り》は、《ローマの泉》《ローマの松》とともに「ローマ三部作」として知られる作品です。とくに、この作品は1929年2月、大指揮者アルトゥーロ・トスカニーニによって初演され、レスピーギの名声を決定的なものとしました。

《ローマの祭り》は豪華絢爛で変化に富むオーケストレーションが印象的です。また、フォーレのように、「教会旋法」と呼ばれるルネサンス時代以前に好まれていた音階を取り入れたことも注目されます。レスピーギは20世紀初頭よりイタリアの古楽に興味を示し、ヴィヴァルディ以前の作品を編曲し、古のイタリアの巨匠たちの音楽の普及にも務めていました。その成果がこの作品にも反映していることは間違いないでしょう。

《ローマの祭り》は4つの部分からなります。最初の「チルチェンシス」は、帝政ローマ時代に円形競技場(チルクス)で行われた祭典です。ネロ皇帝を称えるローマ市民の乱痴気騒ぎのなか、キリスト教徒が野獣の餌食となる残忍な見せ物が行われるようすが描かれていきます。

次の「50年祭」は、その名の通り50年に一度、ローマ教皇によって行われる特赦(罪人を許すこと)を祝う祭りで、巡礼者たちがローマを目指して厳かに歩んでいくさまが描かれています。

第3部の「10月の祭り」の舞台はローマの東南部、ワインの名産地として知られるカステッリ・ロマーニという丘陵地帯です。収穫を喜ぶ人々がそこへ繰り出し、ピクニックを楽しみます。遠方からは狩りの音、馬の首に付けられた鈴の音、恋人たちの愛の歌も聞こえてきます。

最後の「主顕祭」は、クリスマス・シーズンの最終日、1月6日の御公現の祝日(当方の三博士がイエスを訪問したことを記念する日)の祭りです。祭りの前夜、広場に集う民衆たちの喧騒の描写が中心で、サルタレッロ舞曲、手回しオルガンの音、物売りの声、酔っぱらいの歌、「我らはローマっ子のお通りだ」という俗謡が聞こえてきます。