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海老 彰子 さん(Ebi Akiko) 大きな『夢』に向かって。 この記事は2014年12月4日に掲載しております。

パリ在住のピアニスト、海老彰子はピアニストとして幅広い活躍を続けながら、さまざまな重責を担っている。2012年には第8回浜松国際ピアノコンクールの審査委員長に就任し、横浜市招待国際ピアノ演奏会では実行委員長を務め、さらに主要国際コンクールの審査員を数多く行い、後進の指導も積極的に行っている。

Profile

pianist 海老 彰子

pianist
海老 彰子
パリを拠点に活躍する、本格実力派ピアニスト。バロック、近代音楽、現代音楽まで幅広いレパートリーをもちグローバルに活動する。他国の文化を尊重しつつ、たおやかな日本人らしさを忘れない温かみのある人柄は、世界中の名演奏家や若手演奏家から厚い信頼を寄せる。
東京藝術大学1年在学中に第41回日本音楽コンクール優勝後、フランス政府給費留学生としてフランスで研鑽を積む。パリ国立高等音楽院最優秀首席卒、同研究科卒。
多くの受賞暦を持ち、ロンティボー国際コンクールでグランプリと4種の特別賞をA.ルービンシュタイン氏等から受けるほか、ショパン国際コンクール、リーズ国際コンクールの上位に入賞。
日本ゴールドディスク大賞2回、仏政府から文芸シュバリエ勲章、パリ名誉市民メダル、エクソン・モービル音楽賞本賞(日本)等を受ける。
30年来現在に至るまで、日本、欧州各国、アメリカ、カナダ、中南米、ロシア、中国、中近東、エジプトなど世界各国で演奏家として音楽祭やTVラジオ放送録音にも活発に活躍中。NHK交響楽団、読売日響、日フィル、新日フィル等、ワルシャワ国立、フランス放送オーケストラ、モンテ・カルロ、アルゼンチン国立、ルクセンブルグ、英国等のオーケストラと共演。マルタ・アルゲリッチとの2台のピアノ・デュオ・コンサートは、全欧州各国、イスラエル、日本においてもテレビ放映され、大いに好評を博した。近年、後進の育成にも力を注ぎ、世界各国でのマスタークラスを積極的に引き受けている。
第8回浜松国際ピアノコンクール審査委員長に就任。 横浜市招待国際ピアノ演奏会実行委員長。
ショパン国際コンクールの予備審査員、ロン・ティボー国際コンクールの他、多くの主要国際音楽コンクールの審査員をつとめる。
日本大学芸術学部大学院教授。元東京芸術大学ピアノ科客員教授。日本ショパン協会理事。
海老彰子オフィシャルブログ
※上記は2014年12月4日に掲載した情報です

大きな『夢』に向かって

 そんな彼女は、2013年10月18日にヤマハホールのコンサート・シリーズに初登場、長年の音楽仲間であるヴァイオリンの豊田弓乃をゲストに迎え、ソロとデュオですばらしい演奏を披露した。
プログラムはブラームスの「ヘンデルの主題による変奏曲とフーガ」作品24、シューベルトのピアノ・ソナタ第13番、ショパンのスケルツォ第2番とワルツ第3番、そしてフォーレのヴァイオリン・ソナタ第1番という構成。それぞれの作品に思い出があると語る。
「今回はブラームスの作品をメインに据えたかったのです。というのは、これは改築前のヤマハホールで弾いた思い出深い作品だからです」
海老彰子は東京藝術大学在学中、第41回日本音楽コンクール(ピアノ部門)で優勝の栄冠に輝いているが、そのときに演奏したのがこのブラームスのヘンデル・ヴァリエーションだった。
日本音楽コンクールは第80回を迎える歴史と伝統を誇るコンクールで、1932年に創設された。その後、毎日新聞社が主催することにより、「毎コン」の名で広く知られるところとなった。1982年の第51回から名称が改められ、日本音楽コンクールとなっている。
「ですから、本当に久しぶりにこのホールで演奏することになり、ぜひブラームスを入れたかったのです。そしてシューベルトのピアノ・ソナタはシンプルですが、とてもいい曲ですので、演奏したかった。もちろん、ショパンも、いまもっとも弾きたい作品を2曲選びました。そして豊田さんとのデュオは、フォーレを選びました」
海老彰子と豊田弓乃は、彼が11歳のころから交流がある。音楽的にも人間的にも共鳴し合うものがあり、そうした音楽家とのデュオは、本番になると即興的な面が生まれ、刺激的で、音楽する醍醐味が味わえるという。
「豊田さんとはいろんなところで共演を重ねていますが、フランス語が堪能ですので、絶妙にリエゾン(タイあるいはスラーの意味)するところや、アゴーギク(速度法を意味する。厳格なテンポやリズムに微妙な変化をつけて精彩豊かにする方法)が変わっていくのがとても興味深いですね。長年のつきあいですし、ふたりの息がピタリと合う演奏が生まれると、室内楽の楽しさが味わえます」
豊田弓乃はヨーロッパで生まれ育ち、ローザンヌ室内合奏団、ヴュルテンベルグ室内管弦楽団などのコンサートマスターを歴任した。海老彰子は、こうした室内楽を自身でも楽しみながら、ピアニストにとってこのジャンルが大切なことを痛感。若手演奏家にも室内楽を経験してもらいたいと、横浜市招待国際ピアノ演奏会にも室内楽をより多く取り入れたいと考えている。

「横浜は海外に向けて開かれた場所であり、その立地を生かす意味でも、もっと海外の演奏家とのコラボレーションを行いたいと思っています。この演奏会は長年にわたって山岡優子先生が尽力なさっていましたが、その敷かれたレールを生かしながら、そこに新たな面を加えていきたいと考えています。若手演奏家を紹介したり支援すると同時に、海外の演奏家を呼んで演奏の場を共有する。若い方たちとベテランや中堅の演奏家とのコラボレーションを可能にしたいと思っています。これはひとつの大きな『夢』なんです」
大きな「夢」に向かい、彼女はこれまで経験した室内楽の楽しさと大切さを若手演奏家へと受け継ぎたいと力説する。
その考えは、審査委員長を勤めている浜松国際ピアノコンクールでも活かされ、若手演奏家を温かく見守ることへとつながっている。2012年の同コンクールで優勝したロシア出身のイリヤ・ラシュコフスキーの演奏は、コンクール後も機会があるごとに聴き続け、応援し続けている。
「イリヤはとても才能のあるピアニストです。人間的にもすばらしい人ですし…。実は、彼の名はサンソン・フランソワ夫人のジョゼットから5年ほど前に聞いたんです。とても才能豊かな若いピアニストがいると、彼女が教えてくれたのです」
だが、ラシュコフスキーとの初めての出会いは、3年前のジョゼットの葬儀の場となってしまった。その後、浜松国際ピアノコンクールにラシュコフスキーがエントリーし、これが海老彰子とラシュコフスキーを結びつけることにつながった。
「ショパンのポロネーズも、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番も、すばらしい演奏でした。とても魅力のあるピアニストで、将来性もあり、期待できますね」

彼女はそうした若手演奏家をバックアップする精神を、フランソワ夫人のジョゼットから学んだ。ジョゼットは知的でシニカルで思ったことを忌憚なく口にするタイプ。アルゲリッチの母親が1982年にふたりの出会いの場を作ってくれたわけだが、海老彰子はジョゼットから非常に多くのことを学んだ。
「ジョゼットがいなかったら、私はこれほど長くパリに住むことはなかったかもしれません。それほど大きな影響を受けました。アルゲリッチのお母さんも、ジョゼットも、本当に若い才能を伸ばすことに力を惜しまず、さまざまな人と人を結びつけ、国際コンクールで優勝や入賞することには関係なく、自分がいいと思う演奏家を積極的にバックアップしました。その精神を見習いたいと思います」
ジョゼットは歯に衣着せぬ物言いをする人だったが、本来はとても温かい性格の持ち主だった。
そんな海老彰子は、パリに移り住んで40年になるが、そうしたさまざまな人との出会いが財産となっている。彼女は日本音楽コンクール優勝後、フランス政府給付金を得てパリ国立音楽院に留学し、その後研究科にも進んでさらに研鑽を積んだ。卒業後はパリを拠点に活躍するようになり、長年の功績を称えてフランス政府から学術文芸シュバリエ勲章を授与され、パリ名誉市民メダルも受けている。わが国でも、日本ショパン協会賞などが贈られている。
「パリ市内とヴェルサイユの中間に位置するところに住んでいます。フランス人とのつきあいはそんなに多くなく、ある程度限られていますが、彼らの物事を鋭く突いていく態度と、インテリジェンスを大切にするところ、もちろんシニカルな面も私は大好きですね。それらすべてが音楽にも反映し、ラヴェルの演奏などにはそうした要素が非常に重要な役割を果たします。フランス語のニュアンス、えもいわれぬエスプリも大切です。フランス作品は豊かな色彩に彩られ、奥が深い作品が多いのですが、楽譜通りにさらりと弾いてしまっては特有の味わいが出ません。やはりフランス的な美質を理解しないと、すばらしい演奏は生まれないと思います」

海老彰子はこれまで多くの偉大な音楽家との出会いも経験してきたが、もっとも印象に残っているのは、マリア・カラスとの出会いだったという。実は、ヴァイオリニストの佐藤陽子が声楽家として活動しているとき、カラスに個人レッスンを受けることになった。そのピアノ伴奏者として、一緒にカラスのアバルトマンにいったのである。
「何度も直前にキャンセルされ、ようやくレッスンが可能になりました。1975年のことです。たった一度だけでしたが、いまでもはっきり覚えています。佐藤陽子さんがうたい、それを指導するためにカラスがうたったのですが、口から出る空気がまるで彫刻のように感じられました。もちろん晩年でしたので、もう声は全盛期のようではありませんでしたが、音楽とはこういうものなんだと深く感じ入りました」
その後、佐藤陽子のマネージャーから連絡が入り、カラスが自分の練習のときにピアニストを務めてくれないかと海老彰子に依頼が入った。しかし、この時期、彼女はロン=ティボー国際コンクールの準備に入っていたことと、佐藤陽子のレッスンが何度も直前にキャンセルされて自分もスケジュールがそのつど狂ったことを鑑み、お断りした。
「いまから考えると、もったいないことをしたと思いますよ。それをお引き受けしていたら、また新たな体験ができましたから。でも、そのときはスケジュールが滅茶苦茶になると思ったのです。でも、カラスのレッスンはたった一度でしたが、本当に貴重な体験をしたと思っています」
いま、海老彰子は日本とフランスを何度も往復しながら、さまざまな分野の仕事を精力的にこなしている。ピアニストとしては、ソロ、室内楽、コンチェルトと幅広く行い、マルタ・アルゲリッチとの友情も深め、共演も行っている。
「アルゲリッチと演奏するときは、120パーセント準備できていないと、彼女は一緒に弾いてくれないですね。常に冒険をするような感じです。室内楽というのは、丁々発止の真剣勝負の音楽ですから、うまくいったときはまた一緒に演奏したいと思いますし、演奏の醍醐味を味わうことができます。アルゲリッチとはいろんな音楽談義もしますし、もちろん雑談もしますよ。とても頭のいい方で、いつも自然体で、人に非常に気を遣う人です。ですから、こちらもそれに対して気遣いをしてあげないとダメですね。さりげなく、ひとりにしてあげるとか…」

海老彰子も会った人をみなふんわりと温かく包み込む雰囲気と、懐の深さと、親密さを感じさせる人である。その演奏もまた、ピアノという楽器から人間の声を紡ぎ出すようで、ヒューマンな味わいに富む。イリヤ・ラシュコフスキーがいっていた。
「海老さんは、ぼくの演奏をずっと聴き続けてくれるんです。それがぼくの励みとなり、前に進む力が与えられ、もっと上手になりたい、人々の心に届く演奏をしたいと思うようになります。本当に浜松のコンクールを受けてよかった。ホールの響きもヤマハの楽器も聴衆も、そして審査員もみんなすばらしい。日本は以前から好きでしたが、もうぼくの第2の故郷みたいな感じです」
明日のピアノ界を担う若手演奏家のこのことばが、海老彰子の人柄を端的に物語っている。彼女は次なる「夢」に向かって、さらに走り続けるに違いない。

Textby 伊熊よし子

海老 彰子 へ “5”つの質問

※上記は2014年12月4日に掲載した情報です