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国府 弘子 さん(Kokubu Hiroko) 私が音楽で目指すことは、みんなで幸せになろうよということに尽きます。 この記事は2014年4月30日に掲載しております。

ジャンルを超越した表現で幅広いアーティストとの共演を重ねてきた国府弘子さん。国立音楽大学ピアノ科在学中にヤマハ音楽院の前身であるネム音楽院に通った際にジャズに開眼し、卒業後に単身で渡米。ジャズ界の重鎮として知られるバリー・ハリスに師事し、帰国後の1987年にビクターからCDデビューしました。以来、クラシックからジャズ、ラテンからロックまで幅広い音楽性を取り入れた独自の世界観を体現してきたピアニストです。音楽とともに歩んできたこれまでの人生について語っていただきました。

Profile

pianist 国府 弘子

pianist
国府 弘子
ピアニスト/作・編曲家。
国立音楽大学ピアノ科卒業後、単身渡米しジャズ修行。帰国後1987年のデビュー以来、第一線で活躍し、アルバムの制作、ライブでのパフォーマンス、テレビやラジオのDJをはじめ活字メディアにもエッセイを寄稿するなど多彩な活動で全国的な人気を集める。幅広い表現力を持ったインプロヴァイザーとして、音楽シーンをリードしてきたジャズ・ピアニストであり、また温かく心に響くメロディーを創造する作曲家としても評価が高い。2014年1月にピアノソロアルバムをリリース。
国府 弘子オフィシャルサイト
※上記は2014年4月30日に掲載した情報です

校歌合唱の伴奏にあった原点

 まだ言葉もおぼつかない頃から、3歳年上の姉がピアノを習っていることに羨ましいという感情を抱いた国府弘子さん。自身も3歳になると、バイエルから始まるピアノのお稽古を始めた。小学校に入ると校歌の伴奏を手がけるが、その伴奏には現在の国府さんの片鱗が見受けられるエピソードがある。
「つい最近、小学校の同級生と数十年ぶりに再会する機会があって、ある友人が“ひっくん(国府さんの愛称)が校歌を伴奏すると、毎回違う演奏だったよ”って、覚えていたことを話してくれました。自分ではすっかり忘れていたのですが、そう言われて思い出したことがあったんです。校歌はピアノで弾くところもちゃんと楽譜に書いてありますが、自分で“きゅん”とくるポイントは自分なりの伴奏にしたいと思って楽譜通りには弾いていなかったなあと。それは不遜にも人様の書いてくださった楽譜を無理矢理変えてしまおうという意図があってやったことではないんです。とてもジャズ的な発想ですよね。それを幼なじみにいわれて、自分のジャズに繋がる原点は、そこにあったのかなあと思いました」

 そんな国府さんは当時、ポピュラー音楽に傾倒していた。お稽古のための宿題は進まないものの、好きな音楽は耳で覚えて演奏する“耳コピー”をすることに没頭して、時間が経つのを忘れてしまうくらいだったいう。
「私はわりと体が弱い子だったので、運動会とか遠足とか、楽しい行事があるときは熱を出して家で寝かされていたことがよくありました。まだ10歳くらいのとき、遠足に行けない悲しい気持ちをラジオの映画音楽の番組などをすごい集中力で聴いて紛らわせていたんです。一番覚えているのが、ニーノ・ロータが作曲した『太陽がいっぱい』という映画音楽のこと。アラン・ドロン主演の映画ですが、その中の曲を聴いていると、途中でとても難しい和音が出てきました。当時はコードネームなんてまったく知りませんでしたが、ピアノの上で、探しに探して、やっと探し当てたときの達成感といったら、嬉しくて夜も眠れないくらいほどでしたね」
すっかり映画音楽やビートルズの曲を“耳コピー”することに夢中になってしまった国府さんは、13歳の頃に「ピアノをやめてエレクトーンがやりたい」と母親に談判した。
「エレクトーンを習っているお友達がポピュラーの映画音楽集とかを練習しているのを知って、とても羨ましくなりました。こちらはバッハのインベンション、ベートーヴェンのソナタとかソナチネばかり。思い切って母にお願いしたものの、“今はピアノ”とはっきりいわれたんです。それに抗おうとしてピアノの先生へのお月謝をビートルズ三本立てという映画館で使ってしまったことがありましたが、不良にもなりきれず、公園のブランコをこぎながら悩んだことを覚えています(笑)。けれど母がピアノをやめるなといってくれたおかげで今の私がある。当時のことを思うと何故そういってくれたのかがすごく不思議ですが、母にはとても感謝しています」

ヤマハの音楽教室でのジャズとの出会い

ポピュラー音楽への思いが募った国府さんは、中学生の時の文集に「ビートルズに入りたい」と記している。この記述にもあるように、国府さんには「音楽で生きていきたい」という思いが漠然とあったので、周りのお膳立てにも導かれて国立音楽大学へと進学した。そして、大学時代に“ジャズ”との決定的な出会いを果たす。
「あるとき、国立音大の門の前で、ヤマハの“音大生のためのポピュラーピアノ講座”というチラシを配っていました。“音大生のための”とあると、まるで自分にいわれているような気がして、とても惹かれたんです。音楽大学に苦労して入ったものの、今みたいにジャズ専修のコースはなかったので、クラシックだけを弾いている毎日がとても不満でした。そんな思いからそのチラシを握りしめて目黒のネム音楽院(現ヤマハ音楽院)へオーディションを受けに行き、通うことになったんです。ところが、ポピュラー講座とあったので自分の得意分野だから優等生でいい思いができると思っていたら、大間違い。凄腕ジャズピアニストの藤井英一先生という方がいらして、始まってみるとビバップというジャズの一時代の、相当マニアックな内容でした。授業では、ビル・エヴァンスとか、オスカー・ピーターソンとかバド・パウエルとかをガンガン聴かされ、ジャズという難しい世界があったことを知ったんです。

藤井英一先生の講座へ行ってしまったのが、まさに宿命だったんですね(笑)。先生からひたすら耳コピーの宿題を出され、いつの間にかいい意味で楽譜は関係ないジャズのスタイルというものを体得できました。ネム音楽院で経験した耳から聴く勉強によって反復しているうちに、楽譜にかけないノリのようなものがわかるようになりました」

自分の音楽を見出す

音大生の日常は、ただでさえ忙しい。日々の課題のために練習に追われるが、国府さんは、さらにネム音楽院に通い、一橋大学、早稲田大学、東京大学のフュージョンバンドにも参加していた。しかし、その活動が、国府さんに気づきを与えた。
「リストやラフマニノフ、チャイコフスキーなど、クラシックの曲は難しくなってくると、こんな小さな手では弾けないという自分の手に対する不満が出てきました。いくら練習で克服しろ、気持ちでいけといわれても、チャイコフスキーの手の大きさが私の2倍もあったと知ると到底無理だと思ってしまう。それに対してジャズやポピュラーは、自分の持ちものも含めて自分仕様にカスタマイズして表現することができます。難しいけれど、それがジャズの魅力。クラシックを諦めるというより、“見つけたかもしれない”という思いがありました」

こうして自分の道を見つけた国府さんは、ニューヨークへと渡る。
「ニューヨークでは、バリー・ハリスという先生に師事しました。先生から“今君がいちばん得意なものを弾いてくれればいい、ジャズはまだビギナーなんだから”といわれたのですが、私は愕然としてしまいました。自分が一番得意なものって何なんだと。それから自分探しが始まりました。自分の居場所がないと悶々としながら。でも、知ってしまったからBGMの世界には戻れなくなりました」

帰国した国府さんは、ひたすらライブハウスを巡って演奏を重ねた。自ら弾かせて欲しいとお願いしたり、先輩や友人のつてを辿ったり。そして27歳のとき、ビクターのプロデューサーに見出され、CDデビューした。

目標は自分と聴き手が幸せになること

その後は、ジャンルを超えた活動を通して“国府弘子”という世界を確立してきた。そして三年後にデビュー30周年を控えた今、国府さんはどのような境地にあるのだろうか。
「昔なくて今あるとしたら、それは客観性ですね。20代の頃は自分の弾いていることしか聴けていなくて、それくらい余裕がありませんでした。横でどれだけドラマーが熱いプレーをしても全く聞こえていない(笑)。それを今までかかって全部が聞こえるようになりました。でもそう思えるのも“今”だからなんです。私のスランプ時期を問われたら、デビュー前と去年なんですが、昨年は精神力が弱っていて、人の前で弾くのがすごく怖かったんです。体力と精神力は繋がっているんでしょうね。実は4年前に乳がんを患い、手術自体は成功したんですが、術後の5年間、放射線治療とか薬を飲まなければなりませんでした。その薬のいろんな副作用が出てきて、自分が積み上げてきたものが何もないように思えてしまうほど精神が弱っていました。 “主観から客観へ”という境地にやっとここられたのに、逆に遠く成りすぎてしまって、自分のやっていることを俯瞰して見てしまっていました。ここにいる興奮が感じられなかったんです。怖かった。一年くらいかかって抜けることができました。そうした経験を乗り越えられたからこそ、これ以上ないという楽器を触ることにご褒美みたいなものを感じます。きっと自分で弾きながら自分を癒やしているみたいなところあるんですね。私が音楽で目指すことは、みんなで幸せになろうよということに尽きます。“アート”とか“正直に”とか、“ぶつかり合う”とかいうことはすべて手段であって、目的はただ一つ。幸せになろう。それが、私の目指していることです」

Textby 山下シオン

国府 弘子 へ “5”つの質問

※上記は2014年4月30日に掲載した情報です