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曽我 紀之 氏 (Soga Noriyuki) 常に無色透明でありたい、ピアニストのイメージされている「音」に入っていけるよう。 この記事は2010年2月9日に掲載しております。

「バックステージ・パス」では舞台裏でピアニストを支える方々にスポットを当ててご紹介していきます。今回は世界中で多くのトップ・アーティストの支持を集めてこられたコンサート・チューナー「曽我 紀之 」さんに長年の苦労話や舞台裏のエピソード、そしてピアニストとの交流などをうかがいました。

Profile

コンサートチューナー 曽我 紀之

コンサートチューナー
曽我 紀之

※上記は2010年2月9日に掲載した情報です

調律師になった理由

 高校時代にかなり真剣に吹奏楽をやっていたことが一番大きな要因だと思います。当時、大阪に住んでいたのですが、勉強そっちのけで吹奏楽に没頭していました。でも音楽家になりたかったわけではなく、音楽家をバックアップするような裏方さんの仕事ができたらいいなと漠然と思っていました。
吹奏楽部では当初打楽器を担当していましたが、普通の公立高校だったので予算も最小限で指揮の先生をお願いする余裕もなく、2年生になると指揮者に任命されました。
「目指せ小澤征爾」です。(笑)
高校卒業後はレコーディング・エンジニアとかコンサートのPAをやる人に憧れて上京し、渋谷の専門学校に入りました。ところがこの学校、校長が資金を使い込んで潰れまして・・・(笑) 東京ってなんて怖いところなんだろうと思いましたね。
そんな時、母が何かの雑誌で村上輝久さん(*)の記事を読んだようで、アドバイスをくれたんです。ピアノのメカニックにも昔から非常に興味がありましたので、明くる年にヤマハのピアノ・テクニカル・アカデミーに入りました。

(*)リヒテルなど世界的ピアニストに関わった調律師

「一番になりなさい。一番になれば道は開けます。」

  一応入学する前に色々情報収集はしたのですが、みんな一言「非常に厳しいところ」。そして、面接で言われたのが「とにかく一番になりなさい。一番になれば道は開けます。なれなかったら責任は持てません。」と。これは大変なところだなと。(苦笑) 入学してからとにかく一年間は無我夢中で勉強しました。これはいわゆる基礎コースで、一年かかってようやくアップライト・ピアノを調律できるようになります。修理はもちろんのこと、色々な理論もみっちり勉強させられます。
アカデミーのシステムとしては、基礎コースを卒業して現場経験の後、グランドピアノの調律を勉強するためにレベルアップ・コース、いわゆるグランド・マスター・コンサート各コースに進みます。それぞれが一ヶ月の集中コースです。これらを受講することにより、グランドピアノの調律、そして更にはコンサート調律まで出来る技術を身につけることが出来ます。

 有難いことに自分は基礎コースを終えて選抜メンバーとなり、そのままヤマハのアップライトピアノ工場、グランドピアノ工場、そしてコンサートピアノを作る特器工場と言うところで約3年間実習させてもらいました。そうして技術力が認められ社員になりました。
初めてアーティストが弾かれるピアノを調律したときのことは今でも覚えています。まだ20歳そこそこのアカデミーの学生だった頃です。調律の成績がよかったので、そのとき来校された深沢亮子先生の控え室用アップライト・ピアノを調律させていただきました。これが最初の一歩ですね。

会社に就職し、指導の立場へ。

 社員になってまず大阪のヤマハ・ピアノ・サービスに配属され、50人近い嘱託の方々の管理をやり、当時は大阪にもアーティストサービスがあったので、そこに移り関西のピアニストの方々のサポートをしてきました。そしてヤマハミュージック大阪を経て、本社の特器制作室へ転勤。昔、実習でお世話になっていた頃と、やはり社員としてきちんと給料をもらって仕事をする(ピアノを作る)のとではテンションが違います。自分が作ったピアノに1,000万円を超える値段がついて出荷されていくわけですから、相当緊張していました。先輩方にまとわりついて、技術を盗む。(笑)この時代に随分自信をつけることができましたし、技術者としての自分を確立するための柱を建てられたと思っています。
その後、ピアノ・テクニカル・アカデミーで4年ほど指導に就きました。担当したのはレベル・アップ・コース。ほぼ全員が楽器店から派遣されていた方なので、日々どんなことが現場の問題となっているのか、苦労されていることなどがリアルにわかり、これは自分自身にとって非常に勉強になりました。そして、人に教えると言うことがどれだけ難しいかと言うことも実感しましたね。当たり前かもしれませんが、みなさんの真剣さはすごい。楽器店の社員の方はアカデミーに来ていても給料の支給がある方もいますが、嘱託の方は一台調律していくらの世界ですから、ここに勉強に来ている間は収入がなくなります。だから意気込みは半端じゃないです。指導する側の我々が、いい加減なことは出来ません。当時のみなさんは現在全国で活躍されていますから、自分がアーティストと一緒に地方に出向くときなど、事前にホールや楽器の状態について情報をいただいたり、色々現地でも協力していただけるので本当にありがたいですね。

花の都パリで待っていたのは引越しと埃まみれの仮オフィス

その後フランス・パリに転勤、2年間駐在しました。日常の生活で言葉には苦労しましたが、なんと言っても大変だったのがオフィスの引越し。丁度、YASE(ヤマハアーティストサービス・ヨーロッパ)が閑静な16区からオペラ座の近くに移転する時期と重なり、まだ新オフィスの工事中にパーテーションを立てて仮事務所を作り、ものすごい埃にまみれながら仕事していました。(苦笑)この時期はヨーロッパ全土をはじめ、日本から三浦友理枝さんがエジプトに公演に来られたときなども調律に飛んでいきましたよ。これはなかなか楽しい経験でした。

一生忘れられないカツァリスさんの言葉

多くのアーティストのみなさんと一緒に仕事させてもらっていますが、最も印象的だったのは一昨年(2008年)のシプリアン・カツァリスさんの演奏会です。東京・浜離宮ホールでの一件。最後の曲を弾き終えて、舞台袖に戻ってこられたカツァリスさんが「すごい!すごい!」と興奮しておられるのです。そして「言ってもいい?言ってもいい?」と誰彼構わず連発している。。。「一体どうされたのですか?」とお尋ねすると「私が今まで弾いてきた中で今夜のピアノは最高だ!!!このことをお客さんに言いたい!」のだと。
彼はアンコールに応えてステージに出ていき、客席に向かってこう言われました。

「私は今夜、すばらしいこのピアノで演奏できたことを大変幸せに思います。そしてその音を作り上げてくれたミスター・ソガに心から感謝します。」

そうしてピアノに向かって彼自身が拍手をされました。
おそらく人生にこんなことはそうあるとは思えません。まさに調律師になってよかったと思う瞬間でしたね。カツァリスさんは本当に純粋な方で、一点の濁りもない人です。きっとあの瞬間、本当にそう感じて下さって、それを伝えようという一心だったのだと思います。
そして、自分も「私じゃなければこうはならなかった。」と、勝手に思うようにしています。(笑) 自惚れではなく、これが今まで努力してきた結果なんだよ、これからもっともっと頑張っていけよ、そう自分に言い聞かせるために。

どんな本番も始まるまではおっかなびっくり。
準備の秘訣は工具鞄の重量にあり。

 規模の大小に係わらず、どんな本番でも始まるまではおっかなびっくりです。とにかくピアノの「入り口」から「出口」までをしっかり見通すことに留意しています。どんなことでも入り口から順に全部見ていれば、問題が起こっても見当がつきます。短時間の中でそのピアノの状態を把握して、最高のコンディションにもっていくために出来るだけの手を尽くすんですが、その気持ちが工具鞄の重さに表れています。(笑) コンサートチューナーのカバンはとにかく重い。常に使用しているものはいつも同じで全体の10%くらいなんですが、100回に一回使う(かもしれない)工具もある。でもこれが外せないんですね。完全に準備しておくということがこだわりのひとつになっています。

常に無色透明な存在でありたい。

仲道郁代さんを担当させていただくことになった時は、デジタルのICレコーダーを買ってきて、リハーサルで彼女の気に入る音、気に入らない音が何なのか、その原因は? 徹底的に一つ一つ音を調べて追求しました。自分は常に無色透明な存在でありたいと思っています。ピアニストの望む音に入っていけるように。特に仲道さんはお父様が調律師でいらっしゃったこともあり、とても楽器にお詳しいのです。ハンマー接近が、スプリングが、、、もう最初は驚きました。ピアニストでこんな専門用語を使われる方はあまりいらっしゃいませんから。日々、襟正してピアノに向かわせていただいています。

次はPAエンジニアに。

「生まれ変わったらまた調律師になりたいか?」 う~ん、次はPAエンジニアを目指そうかな。大阪勤務時代からヤマハ音楽振興会のPAスタッフ(現エピキュラス)に憧れていました。 でもよく考えると今の仕事と、なにか共通しているかもしれませんね。
仲道さんがよく言われます「一度出した音はピアニストにはどうにもできない」。そこを操作できるのが、調律師やPAの領域なのかもしれません。半音の1/100をどう動かせるか、これをコントロールするのが自分たちの仕事です。

※上記は2010年2月9日に掲載した情報です