この記事は2011年10月20日に掲載しております。
世界を舞台に活躍するフィンランド在住の舘野泉さんは、2002年、脳溢血で倒れながらも、2004年に左手のピアニストとして復帰、活動を再開されました。味わい深い演奏はもちろん、穏やかな笑顔、飾らない素顔も魅力的。そんな舘野さんへのインタビューは、昨年開催された演奏生活50周年の記念公演の話から始まりました。
- pianist
舘野 泉 - 1936年東京生まれ。60年東京芸術大学首席卒業。64年よりヘルシンキ在住。68年、メシアンコンクール第2位。同年より、フィンランド国立音楽院シベリウス・アカデミーの教授を務める。81年よりフィンランド政府の終身芸術家給与を得て、90年以降は演奏活動に専念。06年「シベリウス・メダル」授与。演奏会は世界各地で3500回以上、リリースされたCDは130枚にのぼる。人間味溢れ、豊かな叙情性をたたえる演奏は、世界中の幅広い層の聴衆から熱い支持を得ている。この純度の高い透明なる抒情を紡ぎだす孤高の鍵盤詩人は、02年脳溢血(脳出血)により右半身不随となるが、04年「左手のピアニスト」として復帰。その左手のために間宮芳生、ノルドグレン、林光、末吉保雄、吉松隆、谷川賢作、coba等第一線で活躍する作曲家より作品が献呈される。命の水脈をたどるように取り組んだ作品は、静かに燃える愛情に裏打ちされ、聴く人の心に忘れがたい刻印を残す。06年、全委嘱作品によるリサイタルツアー「彼のための音楽を彼が弾く Vol.1」を行う。同年、左手の作品の充実を図るため「舘野泉左手の文庫(募金)」を設立。08年、長年の音楽活動の顕著な功績に対し、旭日小綬章受章、および文化庁長官表彰受賞。 2010年演奏生活50周年を迎える。その記念公演では、日本初の左手ピアノのための室内楽作品(末吉保雄:アイヌ断章、吉松隆:優しき玩具たち)を世界初演し、翌年8月にはヘルシンキで行なった東日本大震災のためのチャリティコンサートにおいて初演し、スタンディングオベーションの大成功をおさめた。最新CD「祈り・・・子守歌」は『レコード芸術』の特選盤に選ばれる(エイベックス・クラシックス)。2012年NHK大河ドラマ「平清盛」オープニングのテーマ曲およびエンディングの紀行テーマのソリストをつとめる。著書「ピアニストの時間」(みすず書房刊)、楽譜「左手のピアノシリーズ」(音楽之友社)を出版。南相馬市民文化会館(福島県)名誉館長、日本シベリウス協会会長、日本セヴラック協会顧問、サン=フェリクス=ロウラゲ(ラングドック)名誉市民。
舘野 泉オフィシャルウェブサイト
※上記は2011年10月20日に掲載した情報です
藝大時代の仲間と共演
「病気をしてから約2年後に復帰したわけですが、何しろ左手だけで演奏できる曲がない。世界中に左手の作品は約2600曲あるという人もいるけれど、でもね、それだけあってもピンからキリまであるわけだから、身を入れて取り組める作品の数は少ないんです。だから、どうしても色々な人に曲を頼まないといけなくて、その連続でした。そういう中で、50周年ということで特別なこととして挙げるとすれば、まずは室内楽曲を作曲してもらったことかな。それまでは、ほとんどが独奏曲だったから」
そう語るように、記念公演ではソロだけでなく室内楽2作品が世界初演され、そのうちの1曲は、舘野氏の藝大の同級生でもある末吉保雄氏の作品だった。さらに、同じく藝大の同級生であるトランペットの北村源三氏とクラリネットの浜中浩一氏との共演も実現!
「プログラムを決める少し前に、藝大の同窓会があったんです。“昭和31年会”っていうんだけど、そこで二人に会ったとき、北村が“一緒にやりたいね”って。やっぱり同じ年頃で似たような人生経験をしているし、彼らは独特なものを持っていて、音楽的な経験も豊富だから。そりゃあ共演できて良かったし、とても楽しかったですよ」
南仏の作曲家、セヴラックへの想い
素晴らしい仲間にも恵まれた藝大時代。舘野さんは、いったいどんな学生だったのだろう。先生にレッスンをしてもらうために選んだ曲が、セヴラックの曲だったこともあったそうだが…。
「いつもたくさん楽譜を持って、大学に通っていました。そのときに取り組んでいた曲じゃなくても、楽譜を見たりして、色々な作品に触れていました。でもそれは小さいときからなんです。特に母親が、ベートーヴェンやバッハだけでなく、ドビュッシーやラヴェル、ストラヴィンスキーなどにも興味があったから。ミヨーやバルトークなんて、音がとっても面白くて…、そういうところから音楽に入っていったんです。セヴラックは、アルフレッド・コルトーの著書『フランス・ピアノ音楽』の中に、彼の音楽について書かれた章があって、それを読んでいると、自分の育ったところの風土とか、絵画的なもののイメージが強い。農業にも関心があって、たとえば刈り入れだとか種まきだとか、そういうものも音楽にしているんですよね。で、変わってるなあって、とても親しみが湧いて、楽譜を見たのが19歳のときでした。それで、この音楽いいなあって思ったんです。でもね、好きだというと、のめり込んで、弾いてばかりいたと思われちゃうけど(笑)、あまり弾いていないんです。作品数も多くなかったし、音源もなかったから。でも、いつでも彼の音楽は大好きだったし、いつか彼の育ったところに行ってみたいと…。そう思ってから45年くらい経って、ようやく行くことができました(笑)」
フィンランドに魅せられて
1960年にデビュー・リサイタルを行い、その4年後にフィンランドのヘルシンキに移り住んだ舘野さん。何故、その地を選んだのだろうか。
「その前に、半年くらいかけてパリやミュンヘン、北欧もすべての国を歩いてまわったんです。結果的に演奏会はやりましたけど、別に目的があったわけじゃなく、凧が飛んでいったような感じで(笑)。それで、日本に帰ってきて仕事をしていましたが、そのうちに日本を出たくなって、行くならフィンランドって思ったんです。フィンランドの人々は寂しそうで孤独で(笑)、でも自分のプライドをちゃんと持って満ち足りた感じで生きている。そういうところに惹かれたし、あとは国の佇まい。当時は何もないところだったから、なんでそんなところへ行くんだ?って、みんなには言われたけど(笑)、一番、気に入った国だったんですよね」
音楽への強い気持ちが復帰へと繋がった
その後、世界各地で演奏活動を行い、アルバムもコンスタントにリリース。そんな舘野さんが病に倒れたのは、2002年1月、フィンランドでのリサイタルのときだった。
「それで結局、復帰するまで2年くらいブランクがありましたが、その間、絶望に沈んだり、憂鬱になって苦しかったっていうことはなかったです。やるせないとか、自分の行き場がないとか、そんなことを一瞬、思ったことはありましたが、音楽の中に帰ってくるっていうのかな、また弾こうっていう気持ちが強かった。それに復帰するまでの間も、実は弾いていたんです。毎年、北フィンランドの音楽祭を企画していて、自分も演奏していたんだけど、倒れた年にその音楽祭で、余興という感じで5分くらい。でも、手が動かないから、30数年来のチェリストの友人と。そうしたら、演奏会に来てくださったお客さんが、みんな(感動して)泣いちゃった。ちゃんと弾けなかったから、ぼく自身はもう駄目だなって思ったんだけど…。それで、その翌年も同じチェリストと音楽祭で一緒に演奏して、日本でも40分くらいのプログラムだったけど、5、6か所で弾きました」
ご子息とデュオ・リサイタル
音楽に対する溢れんばかりの想い。それは、次世代にも受け継がれていく。12月11日、ご子息であるバイオリンのヤンネ舘野氏とデュオ・リサイタルを開くことになった。
「時々一緒に演奏はしていましたが、正直言うと、身うちでやるっていうのは、あんまり好きじゃないんだ(笑)。でも彼が、数年前から日本を中心に、ソリストとしてだけじゃなくオーケストラや室内楽、タンゴのバンドやバロックアンサンブルなど色々な形で演奏活動を行うようになって…。要するに武者修行、それをずっとやっていたんだけど、最近になって、もうどこへ出しても大丈夫と思えるようになったので、“ここで我々二人、組んでやってみよう”ということになったわけ(笑)」
今回、ヤマハCFXを弾かれるそうだが、そもそもヤマハとの付き合いは長い。
「戦争で家もピアノも焼けちゃったり、生活も豊かだったわけじゃないから、そのとき手に入るアップライトのピアノを使っていましたが、高校2年のとき、はじめて中古のグランドピアノを買ってもらって、それがヤマハのピアノだったんです。もちろん、色々なメーカーのピアノを弾いてきましたが、ヤマハとはもう50年以上、楽器、技術者の方々と共に歩んできているんですよね」
約1年半に及ぶ壮大な企画に向けて
「ぼくは何年も前からそうなんだけど、普段はよれよれしてるんです(笑)。でも、ピアノに触るとシャンとする。弾いているときは別の人間になったみたいに、生き返っちゃうんです。それにね、今までは、計画して何かをやるっていうことはなかったんだけど、今回、はじめて計画を持ったんです。来年の春から約1年半かけて、独奏曲だけでなく、コンチェルトや室内楽の分野もだいぶ作品の数が豊かになってきたので、左手のピアノ音楽をとりまとめて演奏会を行います。だから今は、それに向けて、生きているっていう感じです(笑)」
Textby 森川玲名
※上記は2011年10月20日に掲載した情報です