YVN500S 6つの物語 第五章
2011年6月、満を持して発売となったアルティーダシリーズのフラッグシップ、YVN500S。発売に至るまで、その裏にはバイオリン設計者、木材技術者たちの弛まぬ努力、そして数々のアーティストたちとの出会いや開発を通じたエピソードがあったのでした。ここに至るまで、10年間に渡るYVN500Sの軌跡、全6話をお届けします。
第五章
演奏家とのコラボレーション
– ライナー・キュッヒル氏から
学んだこと –
世界的に有名なオーケストラ、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターとして、その職責を長きにわたって全うされているライナー・キュッヒル氏。開発の段階から今に至るまで、数多くのことを学ばせていただいています。第五章ではその一部をご紹介します。
キュッヒル氏に初めてお会いしたのは2006年のこと。東京にてカーボン弓の評価をしていただいたことがきっかけでした。世界的なコンサートマスターがいらっしゃるということで、私たちの緊張感はかなり高まっていたのですが、そのお人柄で大変和やかな雰囲気を作ってくださいました。その一方、楽器を持って演奏されるとその場の雰囲気が一変します。間近で耳にするキュッヒル氏の音と音楽は、ウィーンフィルの持つ「音楽の意志」、まさにそのものでした。
しかし、このような機会を何度かいただいているうちに、キュッヒル氏は楽器や弓に対して常に「何か新しいもの」を求め続け、ご自身の中にあふれている音楽をもっと表現できないものか、探究し続けていらっしゃるのではないかと感じるようになりました。
このような経緯があり、新しいプロトタイプができるとお見せし、試していただくということが始まりました。時には楽器やカーボン弓のプロトタイプを一年以上お預けし、求める「何か新しいもの」に合致するかどうか、長時間かけて確認していただきました。その結果、カーボン弓については「強さ」と「音量」にご納得いただき、実際にご購入いただくという嬉しい出来事もありましたが、一方バイオリンは試奏と評価をしていただくことが続いていました。
転機が訪れたのは2010年のことです。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団来日公演の折りにお訪ねし、ホテルのロビーで弓の使い心地などの話に花が咲いていました。そのときYVN500Sのプロトタイプをお渡ししたところ、キュッヒル氏は楽器をまじまじと見つめ、指で軽く弦をはじいて感触を確かめられたかと思うと、驚いたことに「今日の午後のリハーサルで使えるかどうか確認したいので、ちょっと部屋に持って行っていいですか」とおっしゃったのです。緊張の中しばらく待っていると、なんと「このまま本番で使ってみます」とのご提案が。
急遽チケットを購入し、最後のアンコールが終了するまで固唾を飲んで祈るように演奏を聴いていたスタッフは、まさに「レーサーとマシン」を見守るF1メカニックのような心持ちでした。幸いにもこの楽器は、アンコールが鳴り終わり演奏会が終了するまで、キュッヒル氏の圧倒的な表現力を支え続けることができました。本番終了後に控室を訪ねて御礼とともに弾き心地を伺ったところ、「何ら問題を感じない」という一言。ウィーンフィルのコンサートマスターの存在感と底力に、改めて圧倒されてしまいました。その後もしばらくの間、演奏会を通して対峙していただいたキュッヒル氏の音色が、その楽器に宿っていたような気がします。
この出来事を通し、キュッヒル氏からはバイオリンの開発で大切なこと、「演奏者の要求に限界まで応えること」と「可能性を試すことの大切さ」を学ばせていただきました。今も折にふれてさまざまなアドバイスをいただいています。
演奏家の方々をはじめ音楽愛好家は、いつも「新たな可能性を探ってみたい」という根本的な欲求を内に秘めているように思います。それをひしひしと感じる場面にも数多く出合ってきました。そして、これまで述べてきたとおり、ヤマハバイオリン「アルティーダ」 YVN500Sは、ヤマハバイオリンの開発を側面からご支援くださる多くの演奏家の方々によって育てられています。さまざまな提案をさせていただき、実績を積んでいくことが、「アルティーダ」の目指すところです。今後も、ここでご紹介してきた演奏家の方々をはじめ、多くの方にご指導いただきながら、歩みを進めていきたいと思います。
テクノロジーよもやま話②
板を削る前なのに、削ったあとの音がわかる!?
前回の第四章では、完成した表板と裏板を叩いたときの「理想の音」を見つけだすことができました。今回は材料を削りだす前の段階で「理想の音」を予測する方法について触れたいと思います。
ヤマハのバイオリン開発にご協力いただいた、あるバイオリン製作者は、材料となる丸太、はぎ板(※1)、バスバー(※2)にいたるまで、すべてコンコンと叩いて音を確認することで仕様や形状を決めていきます。つまり、木材の特性を経験と勘で探り出し、その木材で作った表板や裏板を叩いたとき、どのような音が鳴るかを予測しているのです。
実は、有限要素法(※3)という、自動車や航空機などの開発で積極的に使われている手法を使って、この「経験と勘」をある程度科学的に再現するこができます。YVN500Sの製作では、材料となるひとつひとつの木に対して有限要素法を応用したシミュレーションを行い、職人のバイオリン作りをサポートしています。
加工前の木材の音速と重さを測定し、その板を叩いた音の音程データを取ります。(材料に手で触れて重さを確認し、叩いて音程を探るのと同じプロセスです。)
①で得られたデータとそこから導き出した予測物性値を使い、測定した木材と同じ性質をもつ「バーチャル木材」ができ上がります。(良い材料かどうかを頭の中でイメージすることに似ています。)
②ででき上がった「バーチャル木材」を使い、その木材を表板や裏板に削り出したときにどのような音や音程を持つかを予測します。(削りだした板を叩いた音を予測するプロセスに相当します。)
③で得られた結果から、この木材がYVN500Sの材料にふさわしいか、厚みを修正する必要があるかを確認し、職人たちはその情報をもとにバイオリンを製作します。(経験と勘から判断する情報に相当します。)
このように有限要素法を使うことで、材料の質を客観的に判断することができ、製作の効率も上がり、結果的に安定した品質を保つことができています。
この技術は、2011年9月にイタリアのクレモナ市で開催された弦楽器ショー、“Mondomusica’にて公開を行ない、来場されたバイオリン製作者や来訪者に興味を持っていただくことができました。
※ 1 削り出し前の接着された材料
※ 2 表板裏面の低弦側に、強度と音質を向上させる目的で長手方向に接着されたスプルース製の力木。
※ 3 物体を有限要素の集合体としてとらえ、状態の変化や振動などの物理現象を解析する、数値解析手法の一つ。
ライナー・キュッヒル
Rainer Küchl
◆Profile
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団第一コンサートマスター、ウィーン国立音楽大学教授