Xeno Behind Stories

時空を超え、受け継がれる情熱 — Xenoシリーズトランペット開発ストーリー

第2章シルキー思想からの脱却

1977年、演奏活動が集中する銀座にヤマハ初の管楽器工房「アトリエ東京」が開設され、米シルキー社での2年間の研修から戻った川崎が初代室長に任命された。

第2章シルキー思想からの脱却

岡部比呂男

川崎がアトリエで国内外のプレイヤー対応をしている頃、本社では、後に常務となる岡部比呂男(1974年入社)が設計を担当していた。入社4年目でトランペット設計を任された岡部は大学時代から米国老舗メーカー製のトランペットを愛用し、「多くのプレイヤーに愛されるこのような楽器を作りたい」という志を抱いていた

米国の老舗メーカーは、多くの一流奏者に選ばれる高級トランペットメーカー。その製品は素材の厚みからリードパイプの長さ、主管抜差部の支柱の有無に至るまで、それまでヤマハが手本としていたシルキー氏がデザインした楽器とは全く違う基本構造をしていた。そもそもシルキー氏は老舗メーカー製も含め、当時売られていたトランペットに満足できず、自ら会社を立ち上げた人だ。この2つの楽器メーカーの方針が違うのは当然のことであった。

トランペットの設計図

配属時には既に計画されていたモデルチェンジを任されることになった新米の岡部は、徹底的に老舗メーカーの楽器を研究し大幅な構造変更を提案した。例えば、これまでのヤマハ製品には音程を最重視するシルキー氏の方針に従い支柱が付けられていなかったが、岡部は支柱を付けるよう提言したのだ。「当時のプレイヤーは音程の正確さより、この老舗メーカーの持つ何とも言えない音色の魅力や、楽器に寄りかかれる安心感を重視していた。ならば、我々はプレイヤーに寄り添い、彼らが求める製品を生み出すべきだ」。岡部はこう考えたのである。

これまで守り続けてきたシルキー氏の方針に反する仕様で進めようとする岡部と、トランペット製作の全てをシルキー氏に学んだ川崎。当然のことながら、二人は激しくぶつかり合った。だが、アトリエで直にプレイヤーの声を聞き、時には酷評を受けることもあった川崎は、多くのプレイヤーがこの老舗メーカーのような楽器を求めていると知り、少しずつ岡部の考えを受け入れるようになった。シルキー氏に申し訳ない気持ちもあったが、ヤマハトランペットがさらなる高みを目指すためには、プレイヤーの声に耳を傾け、それに応えるしか道はない。川崎の中で、こうした思いが日ごとに強くなっていった。

1980年、“脱シルキー・タイプ”の試作品が完成し、川崎、岡部らはプレイヤーに評価してもらうために渡米する。現地では高い評価を受け、ヤマハの挑戦は大いに歓迎された。

実は、川崎は脱シルキー・タイプの開発について何度かシルキー氏に切り出そうとしたものの、氏が怪我を負うなどしてタイミングが合わず、最後まで直接伝えることはできなかった。しかし、米国で試奏してくれたシカゴ交響楽団の首席奏者アドルフ・ハーセス氏や、ボストン交響楽団の首席奏者アルマンド・ギターラ氏などから伝わったのだろう。シルキー氏 は時折、川崎や岡部に「Don't go backward(後退してはいけない)」と言うことがあった。ここには、「この老舗メーカーのようになるな」という警告も込められていたのである

今岡弘明

晩年は車椅子での移動を余儀なくされたシルキー氏だったが、亡くなる前年の1981年まで来日し指導を続けてくれた。自分の理想とは違う方向にヤマハが突き進むことに対し、内心葛藤もあったのか、シルキー氏は時に、この老舗メーカーへの傾倒を見せる若い岡部に感情をぶつけることがあった。しかし、岡部はヤマハの中では絶対的存在だったシルキー氏を恐れることなく、自身の信念を貫こうとした。こうした二人のやり取りを間近で見た今岡弘明は、「方向性は違っても、高みを目指し続けようとする思いは同じだった」と断言する。彼らの情熱がヤマハトランペットの進化を支えてきたのだ―今岡は今もそう確信している。

1982年、脱シルキー・タイプのニューカスタムトランペットが発表された。全ての品番に一枚取り*¹ベルを採用したほか、ピストンのストロークを1ミリ伸ばすことで音のキレを良くし、トランペットの心臓部であるバルブケーシングの間隔を1ミリ狭めて持ちやすくするなど、懸案となっていた基幹部品の設計変更が施され品質が格段に向上した

前述の今岡は音楽大学を卒業後、1980年の入社と同時に設計課に着任し、ヤマハトランペット初の大きなモデルチェンジを岡部と共に担った。「脱シルキー・タイプとして最も象徴的だったのは、支柱が一本加わったことですね」。これによって、多くの人が求める“しっとりしてまとまりのある音”が実現した。「それまでは最初の楽器にヤマハを選んでも、上達すると他社製を購入する奏者が多かったが、このモデルチェンジを機に少しずつ流れが変わっていった気がする」と今岡は言う