音楽史について学ぶ
バロック音楽
歌劇の誕生とその発展
16世紀の末頃、イタリアのフィレンツェに、カメラータとよばれる、ある貴族を中心とした文化人グループがありました。有名な天文学者の父で音楽家であったヴィンチェンツォ・ガリレイ(V. Galilei, 1520-91)や作曲家のカッチーニ(G. Caccini, 1550頃-1618)、その地の宮廷楽長だったペーリ(J. Peri, 1561-1633)、オラトリオの創始者として知られるカヴァリエリ(E.del Cavalieri, 1550頃-1602)、それに詩人のリヌッチーニ(Q. Rinuccini, 1562-1621)などがそのメンバーでした。
モンテヴェルディ
カメラータの活動は、それまでの音楽の中心な技法であったポリフォニックな書法への反発から生まれました。従来の方式では、多声部にわたる各声部が旋律的に輻輳(ふくそう)しあって、言葉によって表される詩そのものが犠牲にされてしまいます。そこで、その欠点をなくし、言葉をもっと音楽の中で活かしていこうとしたのです。そのために、彼らはギリシャ悲劇にその理想を求め、音楽の劇的表現というものを目ざしました。もちろん、ポリフォニックな技法は使わず、朗唱式(レチタティーヴォ)または表現式(ラプレゼンタティーヴォ)といわれる方法を用いました。これは、詩を朗唱ふう、つまり、歌と話し言葉の中間をいくような旋律で歌い、それを和音的に支える伴奏を楽器で行うという形でした。いいかえれば、詩のリズムと内容が音楽より優位に立つという形式です。これがモノディ様式と呼ばれるものです。
17世紀ヴェネツィアのオペラ
この手法によって、彼らは多くの独唱曲を試作しました。1597年には、リヌッチーニの台詞にペーリが作曲した最初の劇音楽《ダフネ》を書き、ついで《エウリュディケ》が書かれました。しかし、当時はまだ歌劇とはいわず、〈音楽のための劇〉(ドラマ・ペル・ムジカ)といっていた。また、カッチーニの独唱曲集に《新音楽》(ヌオヴェ・ムジケ)と題されたことから、この時代の音楽、特にカメラータによる作風を新音楽と呼ぶこともあります。
フィレンツェに起こったこの新様式の音楽は、たちまちイタリア全土へと広まりましたが、特にヴェネツィアに現れたモンテヴェルディ(C. Monteverdi, 1567-1643)によって、さらに進展することになります。モンテヴェルディには《オルフェウス》をはじめ、いくつもの歌劇作品があります。彼はそれらの作曲を通して、従来の諸形式と新様式を融合し、朗唱ふうな独唱をより旋律的なものにしました。それと同時に、その表現内容を深めて、劇的な要素を盛り上げ、そうすることによって発生当時の単純な音楽劇を一歩歌劇的なものへ進めたのです。また、当時使用されていたさまざまな楽器を一堂に集めて、合奏形態による伴奏を初めて行い、後のオーケストラへの道を開いたことも注目すべき業績といえます。ヴァイオリンのトレモロや弦楽器のピッツィカート等の奏法を初めて用いたのもモンテヴェルディだといわれています。
フィレンツェに起こったこの新様式の音楽は、たちまちイタリア全土へと広まりましたが、特にヴェネツィアに現れたモンテヴェルディ(C. Monteverdi, 1567-1643)によって、さらに進展することになります。モンテヴェルディには《オルフェウス》をはじめ、いくつもの歌劇作品があります。彼はそれらの作曲を通して、従来の諸形式と新様式を融合し、朗唱ふうな独唱をより旋律的なものにしました。それと同時に、その表現内容を深めて、劇的な要素を盛り上げ、そうすることによって発生当時の単純な音楽劇を一歩歌劇的なものへ進めたのです。また、当時使用されていたさまざまな楽器を一堂に集めて、合奏形態による伴奏を初めて行い、後のオーケストラへの道を開いたことも注目すべき業績といえます。ヴァイオリンのトレモロや弦楽器のピッツィカート等の奏法を初めて用いたのもモンテヴェルディだといわれています。