音楽史について学ぶ
バロック音楽
その後の歌劇
こうして始まったイタリア歌劇は、17世紀の後半から18世紀の初めにかけて、活動の中心がヴェネツィアからナポリに移ります。その中心的な人物がアレッサンドロ・スカルラッティ(A. Scarlatti, 1659-1725)でした。このナポリにおける歌劇運動のなかで、ダ・カーポ・アリアと呼ばれる独唱形式やイタリア式序曲といわれる器楽曲形式が確立されて、歌劇が形式的にも整えられるに至ります。
スカルラッティ
ペルゴレージ
パーセル
ダ・カーポ・アリアというのは、ABAの三部形式で書かれ、2度めのAは最初のAを繰り返す形で歌われたところから、この名がついたものです。アリアというのは、「劇中の人物がその内面的な心の世界を抒情的に歌い上げる独唱曲」であって、形式的にはそこで劇の進行が一時中断されることになります。そこで、劇の進行を円滑にして、観衆にその推移をわからせるために、チェンバロの伴奏で語るように歌う部分(セッコ・レチタティーヴォ)も加え、アリアとうまく組み合わせることによって、劇の筋書的進行と登場人物の内面的表現を一体として構成した舞台音楽が、歌劇なのです。
したがって、アリアは一般的に旋律が装飾の多い華やかな形で作られ、美しい旋律を美しい声で歌い、声楽的な技巧を十分に誇示する方向で作られるようになっていきます。この傾向は、ナポリ派の歌劇で特に著しく、その後もイタリア歌劇の伝統となっていきます。そのため、コロラトゥーラ(技巧的で華やかな装飾)もよく使用され、カストラート(去勢された男声歌手)と呼ばれる多くの歌手も輩出します。しかし、次第に歌手の名人芸的な技巧だけを歓迎する傾向が強くなり、美しいアリアを美声と技巧の持ち主である有名歌手の演奏で聴くということだけに歌劇が変質していってしまい、本来の劇的生命を失っていくことにもつながったのです。
また、急緩急(アレグロ-アンダンテ-アレグロ)の三部からなるスカルラッティのイタリア式序曲は、シンフォニアとよばれ、これは緩急緩という形のフランス式序曲とともに、古典派の交響曲の原型となっていきます。
こうして、形式的に整えられていく間に、歌劇にはオペラ・セリア(正歌劇)とオペラ・ブッファの2種類が生れてきます。前者は神話や古代に題材を求め、アリアとレチタティーヴォを重用して、劇としての荘重さを重視します。一方、後者は世俗的な内容を扱った喜劇ふうなもので、ペルゴレージ(G. B. Pergolesi, 1710-36)の《奥様になった女中》が代表的な作品として残されています。
このイタリア歌劇がフランスに移入されたのは17世紀の中頃ですが、これはただイタリア歌劇を上演したというだけの話で、それによって歌劇がフランスの土地に根をおろすということはありませんでした。しかし、16世紀の終り頃に、〈王妃のバレエ・コミック〉と呼ばれる総合的な舞台芸術が上演されるようになり、これの方がむしろフランス歌劇の直接の起源といえるかもしれません。
この〈王妃のバレエ・コミック〉というのは、フィレンツェのメディチ家から、フランスのジョアュー公のもとにマルグリットが嫁いできたときの婚礼の祝いのために作られたもので、一貫した筋書にもとづいて、舞踊、音楽、歌、朗読などが行われる形式になっています。ここから舞踊だけが独立して、後の宮廷バレエへと発展していきます。しかし、当時の宮廷バレエは、まだ純粋に舞踊だけによるものではなく、内容的には、むしろ歌劇に近いものでした。こうした素地の上に、イタリア歌劇の手法も取り入れて17世紀の後半に成立したのがフランス歌劇であり、その中心人物がリュリ(J. B. Lully, 1632-87)でした。
同じ頃、イギリスにも、以前からあったマスク(仮面劇)を土台として歌劇が作られるようになり、パーセル(H. Purcell, 1659-95)に作例があります。またドイツでは、シュッツ(H. Schütz, 1585-1672)によるイタリア歌劇の輸入上演といった形で、僅かに歌劇活動が行われていました。
したがって、アリアは一般的に旋律が装飾の多い華やかな形で作られ、美しい旋律を美しい声で歌い、声楽的な技巧を十分に誇示する方向で作られるようになっていきます。この傾向は、ナポリ派の歌劇で特に著しく、その後もイタリア歌劇の伝統となっていきます。そのため、コロラトゥーラ(技巧的で華やかな装飾)もよく使用され、カストラート(去勢された男声歌手)と呼ばれる多くの歌手も輩出します。しかし、次第に歌手の名人芸的な技巧だけを歓迎する傾向が強くなり、美しいアリアを美声と技巧の持ち主である有名歌手の演奏で聴くということだけに歌劇が変質していってしまい、本来の劇的生命を失っていくことにもつながったのです。
また、急緩急(アレグロ-アンダンテ-アレグロ)の三部からなるスカルラッティのイタリア式序曲は、シンフォニアとよばれ、これは緩急緩という形のフランス式序曲とともに、古典派の交響曲の原型となっていきます。
こうして、形式的に整えられていく間に、歌劇にはオペラ・セリア(正歌劇)とオペラ・ブッファの2種類が生れてきます。前者は神話や古代に題材を求め、アリアとレチタティーヴォを重用して、劇としての荘重さを重視します。一方、後者は世俗的な内容を扱った喜劇ふうなもので、ペルゴレージ(G. B. Pergolesi, 1710-36)の《奥様になった女中》が代表的な作品として残されています。
このイタリア歌劇がフランスに移入されたのは17世紀の中頃ですが、これはただイタリア歌劇を上演したというだけの話で、それによって歌劇がフランスの土地に根をおろすということはありませんでした。しかし、16世紀の終り頃に、〈王妃のバレエ・コミック〉と呼ばれる総合的な舞台芸術が上演されるようになり、これの方がむしろフランス歌劇の直接の起源といえるかもしれません。
この〈王妃のバレエ・コミック〉というのは、フィレンツェのメディチ家から、フランスのジョアュー公のもとにマルグリットが嫁いできたときの婚礼の祝いのために作られたもので、一貫した筋書にもとづいて、舞踊、音楽、歌、朗読などが行われる形式になっています。ここから舞踊だけが独立して、後の宮廷バレエへと発展していきます。しかし、当時の宮廷バレエは、まだ純粋に舞踊だけによるものではなく、内容的には、むしろ歌劇に近いものでした。こうした素地の上に、イタリア歌劇の手法も取り入れて17世紀の後半に成立したのがフランス歌劇であり、その中心人物がリュリ(J. B. Lully, 1632-87)でした。
同じ頃、イギリスにも、以前からあったマスク(仮面劇)を土台として歌劇が作られるようになり、パーセル(H. Purcell, 1659-95)に作例があります。またドイツでは、シュッツ(H. Schütz, 1585-1672)によるイタリア歌劇の輸入上演といった形で、僅かに歌劇活動が行われていました。