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伊藤 恵 さん(Itoh Kei) 演奏会でしか体験できないこと、発見できないことがある。 この記事は2015年4月21日に掲載しております。

1983年、ミュンヘン国際音楽コンクール・ピアノ部門で日本人として初めて優勝して以来、“正統派ピアニスト”として第一線で活躍を続けてきた、伊藤恵さん。
ロマン派の作曲家の中でも、特にシューマン、シューベルトを中心に取り組んでこられた伊藤さんに、約30年にわたるピアニスト人生と、今後の展開についてうかがった。

Profile

pianist 伊藤 恵

pianist
伊藤 恵
幼少より有賀和子氏に師事。桐朋学園高校を卒業後、ザルツブルグ・モーツァルテウム音楽大学、ハノーファー音楽大学において名教師ハンス・ライグラフ氏に師事。エピナール国際コンクール、J.S.バッハ国際音楽コンクール、ロン=ティボー国際音楽コンクールと数々のコンクールに入賞。1983年第32回ミュンヘン国際音楽コンクールピアノ部門で日本人として初の優勝。 サヴァリッシュ指揮バイエルン国立管と共演し、ミュンヘンでデビュー。その後もミュンヘン・シンフォニカ、フランクフルト放送響、ベルン響、チェコ・フィルの定期公演などに出演。日本では「若い芽のコンサート」でNHK響と協演をはじめ、各オーケストラとの共演、リサイタル、室内楽、放送と活躍を続けている。録音はシューマン・ピアノ曲全曲録音「シューマニアーナ(1~13)」、「ブラームス: ピアノ協奏曲」、「ショパン: エチュード」、最新版として「シューベルト ピアノ作品集5」がフォンテックからリリースされている。2007年秋には、シューマン・ピアノ曲全曲録音完成記念コンサートが行われ好評を博した。また、サイトウ・キネン・フェスティバル松本はじめ武生音楽祭、軽井沢音楽祭、リゾナーレ音楽祭、東京・春・音楽祭、ラ・フォルジュルネ音楽祭などに参加。2008年からの新たな8年シリーズではシューベルトを中心としたリサイタルを開催。2013年、香港にてアントニオ・メネセスと共演。
1993年日本ショパン協会賞、1994年横浜市文化賞奨励賞受賞。現在、東京藝術大学教授、桐朋学園大学特任教授。
※上記は2015年4月21日に掲載した情報です

ピアニスト人生は、突然始まった!

 留学中から、エピナール、J.S.バッハ、ロン=ティボーと、数々の国際音楽コンクールに参加し、入賞を果たした伊藤さんだが、すべてはライグラフ先生の指示だったそうだ。
「先生は、ある日ふと『お前はパリに行ったことはあるか? 今度、ロン=ティボー・コンクールというのがパリであるんだ』なんておっしゃるんです。当時の私は、『はぁ、そうですか…』という感じでしたが、次々コンクールを勧めてくださったということは、本当に目をかけてくださっていたのだと、後になってから気づきました」

ちなみに、コンクールの際、伊藤さんは、両親からプレッシャーをかけられたことは一度もなかったという。むしろ「全力を尽くせば、結果はだめでもいい」と言ってくれた家族こそが、いつも心の支えだったという。
そんな伊藤さんが、唯一、自分からコンクールを受けたいと言ったのが、第32回ミュンヘン国際音楽コンクールだった。そこで日本人として見事初の優勝を飾った伊藤さんは、ピアニストとしての人生をスタートさせる。
まずは、サヴァリッシュの指揮、バイエルン国立管との共演により、ベートーヴェン《協奏曲第1番》でミュンヘン・デビュー。その3週間後にはフランクフルト放送響、さらにその3週間後はN響と、大舞台が続いた。

「私はそれまで、目の前のレッスンを必死にこなしていくのに精いっぱいで、『将来はピアニストになろう』とか、そんなことを考える暇もありませんでした。ある日突然、ピアニストとしての人生が始まってしまい、最初の頃はストレスとプレッシャーで、演奏会のたびに2キロずつやせていきました。当時は本当に大変でしたが、いまは、あの頃、次々と演奏の機会をいただいたことに、心から感謝しています。私は、演奏会という厳しい場で成長させていただいてきました。どれだけ家で練習しても、演奏会でしか体験できないこと、発見できないことがあるのです」

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伊藤 恵 へ “5”つの質問

※上記は2015年4月21日に掲載した情報です