坂本龍一とヤマハシンセサイザー
教授とDX7
教授のキャリア初期は、YMOメンバーの一人としてシンセサイザーによるサウンドを縦横無尽に操っていた姿が強く印象に残るが、意外にもYMO時代には、ヤマハのシンセはほとんど使用せず、海外ブランドのシンセサイザーを中心としたシステムを構成していた。ヤマハシンセが多用されるのは、YMO散開後のソロ活動後のこととなる。
「DX7」が使用され始めたのは、1984年10月に発売されたソロアルバム「音楽図鑑」からである。このアルバムは、1982年10月からレコーディングが開始しており、発表まで実に2年近くの年月を要しているが、折しもこのアルバムの制作期間中に、ヤマハ「DX7」が発売された。「DX7」のFM音源システムの音色クオリティ、編集性、拡張性に教授は興味を示され、音楽制作、ライブ活動での使用が本格的に始まった。「DX7」のアルゴリズムの解釈を「DX7はポリモジュレーションが縦にも横にも並んだ音作りができる」とも例え、楽器の構造理解にも長けていた。
当時の教授のレコーディングスタイルは、スタジオに長時間、長期間こもり、サウンドや曲を作りこむスタイルだったそうだが、「DX7」の登場以降は自宅にシンセを持ち込み、デモテープやプリプロを行うようになり、教授の制作スタイルを一新したきっかけともなった。
教授が「DX7」を使用し、最初に世の中にリリースされたのが飯島真理のデビューアルバム「Rosé」で、発売直後の「DX7」によるFMサウンドを聞くことができる。
1986年に発売されたアルバム「未来派野郎」では、その未来的なサウンドの象徴として「DX7」「DX5」「TX816」などのFM音源が多用されることとなった。同アルバム収録の「黄土高原」でのFMエレピ、「GT」でのFMベースは代表的な音色である。このころ、教授は「(サンプラーとしてのフェアライトやイミュレーター以外に)いわゆるシンセサイザーとしては『DX7』があれば、他には何もいらない」と口にしたほどであった。
また、このアルバムで多用された音色ROMは、リットーミュージックからも発売された。
1986年に行われた全国コンサートツアー「Media Bahn Live」では複数台数のDXシリーズを駆使したパフォーマンスが行われコンサートツアーとタイアップ広告により、「ヤマハ×坂本龍一」のイメージが高まった。このツアー以降、ツアーパンフレットにはヤマハシンセの広告が継続して掲載されることとなった。また、このツアーでは世界で初めてMIDIピアノが使用され、ヤマハと教授の協力関係が深くなったのもこのころからである。翌年の1987年に行われた「NEO GEO TOUR」では、「DX7IIFD」をメインキーボードとして使用、より磨きのかかった第二世代DXによる特徴的なサウンドが大フィーチャーされた。なお、「DX7」と「DX7II」とでは背面の製品ロゴが異なるため、演奏する教授の写真からでも一見して世代の違いが見分けられる。
デジタル機器に対する高い知見とヤマハとのつながり
「DX7」「DX7II」以降、1990年代に差し掛かるころからは、ヤマハに対しシンセサイザーのみならず、デジタルミキサーや最新テクノロジーへの開発アドバイザー的な役割を教授には数多く担っていただいた。
話は少し遡るが、「DX7」の成功以降、ヤマハはアーティストや市場からの意見を開発部門にフィードバックする組織を立ち上げ、1985年にはデジタル楽器の研究開発体制を強化する目的で、渋谷道玄坂にR&D東京を設置。その後、ロンドン、ニューヨークにも拠点を拡大していった。
教授にも、R&D東京や浜松の本社に足を運んでいただき、ヤマハメンバーとさまざまな意見交換を行っていただいた。1989年に発売した「SY77」では、新製品ならではの未来的な音に加え、アナログ的な温かみのある音を評価しつつも、「この完成されたハードウェアに対し、ソフトウェア(音色)をミュージシャンが提供していくのか」と提言され、90年代のPCMシンセの音色拡張時代到来の予見。その上位モデルである「SY99」も、ソロアルバム「Heart Beat」、YMOの「TECHNODON」の制作で使用されている。
このヤマハR&D東京の初代室長で、その後、教授とヤマハをつなぐ重要な役割を果たしたのが故田中重徳氏だ。その始まりは、まだ本格的なプロデビューをする以前、学生時代からセッションプレイヤーとしてヤマハ渋谷店の常顧客だった若き日の教授と、当時渋谷店で働いていた田中氏との出会いの時まで遡る。田中氏は、「学生街の喫茶店」で有名なアーティスト「ガロ」の初代マネジャーとしても有名だが、アーティストと人間関係を構築することにも長けていた。田中氏は教授と製品企画開発について直接深い話をした機会はそう多くはないのだが、教授と開発部門、営業部門との架け橋の役割を担っていたのである。教授サイドからのリクエストに対して、「教授の発想をどうやったらヤマハで実現できるか」ということをよく理解していたがゆえに、新しい音源システム、新しいコンセプト製品の研究・企画・開発では常に教授側へヤマハからのオファーをする立場にあったのだ。
また、田中氏は教授の音楽活動をサポートする一方、ヤマハ電子楽器、音響機器ビジネスのブランディング、マーケティング、セールスプロモーションへの教授の起用を多数実現した。二人の間に確固たる信頼関係があってからこそ成しえたことだと言えよう。
1997年1月23日、『三菱電機スーパーセレクション「f」坂本龍一 PLAYING THE ORCHESTRA 1997』のツアー最終日、横浜アリーナでのコンサートにて、ヤマハは教授の全面的な協力を得て、世界初のライブ演奏データのインターネット同時配信「インターネットMIDIライブシステム」の公開実験を行った。ここでもヤマハグループの総力を結集したプロジェクトのリーダーの一人として、田中氏は大きな役割を果たしている。
音楽活動のみならず、2011年に起きた東日本大震災の被災地の学生に対し、楽器の復興支援を行うプロジェクト「School Music Revival/こどもの音楽再生基金」が設立された際にも、田中氏はヤマハをはじめ全国の楽器関連会社785社が加盟する全国楽器協会と教授とのコラボレーションを実現した。このプロジェクトで結成に尽力した「東北ユースオーケストラ」の活動は未だ継続している。田中氏はこのプロジェクトの10周年記念でヤマハ功労者として表彰された。
時は前後するが、1993年ごろ、教授が特注ピアノの企画ミーティングで浜松を訪れた際に、当時のヤマハの技術を結集して開発した物理モデル音源を搭載した「VL1」「VP1」の評価をいただいた。物理モデル音源の表現力の高さを体験、多くのパラメータが一斉に動く音色変化に興味を示され、「モーフィング」という概念が、その後の教授のサウンドメイキングのヒントとなった。この時、教授からは「現代音楽にも適している」とコメントをいただいている。こういった開発者との直接交流は、ヤマハで働くエンジニア達にも大きなモチベーションとなった。
1990年代半ばから終わりにかけ、パソコンの普及とともに、日本ではDTM(Desktop Music)がヒットした。また、ヤマハはホームページ上で音楽を再生できるソフト「MIDPLUG」や、音源の共通フォーマット「XG」など、パソコンとインターネットを用いた音楽表現の可能性を追求。教授もまた、インターネット黎明期から、その可能性を確信していたこともあり、XG音源の普及啓蒙への協力いただけることになった。
1997年春には、教授、小室哲哉氏、冨田勲氏の日本のシンセサイザーを代表する3氏による新聞広告を打ち出し、新聞広告大賞を受賞することができた。
1998年に発売した新世代のフラッグシップシンセサイザー「EX5」は、開発段階から教授へアドバイスを求めた。当時主流となっていたPCM音源搭載シンセの利便性を理解しつつ表現力の限界も感じていた教授に、5種類ものハイブリッド音源システムは歓迎された。サンプラー機能、ノブやパッドといったコントローラーは音楽制作、ライブでしばしば活用され、新開発のAN音源も音楽制作の中で使用された。教授はマスターキーボードとして76鍵のFS鍵盤のタッチが好みだった。後に発売されたシルバーカラーの「EX5S」も気に入っていただいた。製品を高く評価いただいたこともあり、複数パターンの広告を制作した。いずれも、当時教授の生活拠点であったNYで広告撮影を行った。
このころは、ヤマハシンセサイザーのインターフェイスの改良を求められることが多くなってきた時期でもあった。伝統的なパネル配列は一定の評価を受けていたが、Appleのような新しい大胆な発想が必要とも言われていた。
Back To The Basic(BTTB)から晩年の教授
1990年代も終わりにさしかかるころ、ヤマハシンセも転機を迎えた。多くのキーボーディストから要望の高い「ピアノ音色を気持ちよく弾けるシンセ」すなわち「ピアノシンセ」の登場である。ここでは、その開発ストーリーは割愛するが、1999年に発売された「S80」は、教授にも数多の現場で使っていただいた。特にアコースティックピアノが設置できない会場では必ずと言っていいほど、Sシリーズの露出に協力いただいた。
折しも、1998年11月に13枚目のソロアルバム「BTTB」、翌年5月にはシングル「ウラBTTB」を発売と、教授がピアノに回帰していた時期と重なるころで、Sシリーズのピアノサウンドとタッチを気に入っていただき、「S80」から後継機の「S90」「S90ES」まで長年にわたり愛用いただだいた。
ヤマハシンセでDXシリーズと同じくらい教授が愛用したのが「MOTIF」シリーズだった。DX7から数えて20周年の2003年には、ヤマハシンセの象徴として広告にも出演いただいた。2001年の初代「MOTIF」から2010年の「MOTIF XF」まで4世代にわたりモデルチェンジにも容易に対応していただいた。やはりタッチ感が合っている76鍵のFS鍵盤を指定して多用され、グランドピアノの上にも76鍵盤をいつも乗せて演奏されていた。「MOTIF XS」「MOTIF XF」は、2007年に再々結成したYellow Magic Orchestraのステージでも、しばしば見られた。
2010年、リニューアルオープンしたヤマハ銀座ホールにて教授がステージピアノのフラッグシップモデル「CP1」を演奏するイベントを開催。脇にMIDI接続されたグランドピアノ2台と正面に「CP1」という異色の配置で、「CP1」はピアノ音色よりも新開発のモデリング音源によるエレピ音色を中心に、教授はまるでデモンストレーターかのごとく往年の名機をシミュレーションし、解説と演奏で再現。後半では背面の光るヤマハロゴの点灯スイッチON/OFFなどして、聴衆の笑いを誘った。
「MONTAGE」の試作機もいち早くレコーディングスタジオ(Red Bull Studios Tokyo)に持ち込み、意見をいただいた。2014年に患った咽頭癌から回復した2015年8月、公開が控えていた映画「母と暮らせば」の制作途中だった。当時「MONTAGE」は、ソフトウェア的にはまだ半分も完成していない段階ではあったが、設計者による新概念のMotion Control(Super Knob & Motion SEQ) の実演の後、「オーディオのテンポ同期がなぜテンポの揺れに追従するのか」と尋ねられ、Envelope Followerや、包絡の分解能(ピッチが低いと一波を包絡として見ることはないのか)についてなど、ヤマハ側も即答に窮するような鋭い質問をされた。また、弦楽器や管楽器での特殊奏法(重音奏法)と、XA機能・キーボードメガボイス(楽器特有の奏法を再現するヤマハ電子楽器特有機能)との相関などの意見交換を行った。シンセサイザーにとどまらない音楽概念の話など、教授の創作意欲の高さに、ヤマハメンバーはただただ感銘を受けた。
晩年、教授は、キーボードシンセサイザーとして、いわゆるビンテージアナログ以外は「MONTAGE」「CP88」を多用された。2020年に2度目の罹患以降、日本の自宅でずっと使用されていた「CP88」に対しては、以下のようなコメントを残している。 「ピアノの鍵盤とタッチが近い上に音色もいいピアノシンセをヤマハに貸してもらって、それで練習しています。ベロシティカーブを調整して使っています。通常のシンセよりも鍵盤が重くて本物のピアノに近いんですよ」
坂本龍一氏は、音楽業界のみならず、多くの人々に影響を与えてきた。常に時代の先端を追求した豊富な知識や発想力や、その卓越した演奏技能はヤマハの研究・開発、ブランディング、マーケティング、セールスに対する貢献度は絶大なものであったと確信している。
個人的にもシンセサイザー、特注ピアノ企画開発、多くのライブサポート、ミリオンセラー「energy flow」のレコーディングなど思い出は数えきれないが、30年以上の付き合いの中で、2022年9月にNHKで行われた生前最後のレコーディングセッションに立ち会えたことが私にとって最も大きな財産とも言える。癌との闘いの中でのレコーディングは一言では表現できない壮絶なもので、映画「Ryuichi Sakamoto | Opus」の中での演奏を通じてそのメッセージが伝わってくるかと思う。2023年3月28日に享年71歳で人生を終えることになったが、彼の功績を後世にも伝えていきたい。
小島 高則